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日蓮大聖人・池田大作

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思想を統一せよ 新年のことば

1962.1.1 「会長講演集」第6巻

前後
1  立宗七百十年を迎え、ここに全学会員の皆さんとともに、いよいよ鉄の団結をもって「勝利の年」を完遂せんことを誓あいたいと願うものであります。
 さて私たちが、つねに念願しているものは、国家の安泰と、個人の幸福生活の確立につきるのであります。しかるに、今日の社会においては、それが実現の指導責任を負うべき政界、財界、教団等の無自覚、無能ぶりは言語道断といわざるをえない現状である。
 世人のいわく「ことしは派閥に明け、派閥に暮れる年となろう」と。すなわち、自民党では七月の総裁公選をめぐる動きについて、はやくも陰険な策謀が行われていると聞く。かつは社会党の書記長争い、共産党の分裂等々、数えるにいとまもないほどである。
 一方、宗教界をみれば、かかる混乱を救うべき使命を有するにかかわらず、金もうけに終始し、世人のまったく見放すところとなっている。
 しかし、私はこれらのすべてに対して、形式的、観念的な批判をもって、無責任な論議をもてあそぶものではない。
 いま、混乱する世相を打開し、一国の平和を実現する方途は、思想の統一をはかる以外にないと強く断ずるものである。なぜかならば、世界のいずれの国をみても、思想の高低、浅深は別として、かならずその民族に統一せる思想を有し、あるいは自由主義国とし、あるいは共産主義国として、その繁栄をはかっているではないか。
 しかるに、今日の世界において、日本ほど思想が分裂し、社会のあらゆる層が混迷と派閥争いに明け暮れている国はない。あまつさえ、幾百千の邪悪、低劣なる宗教がが平然と横行している姿は、その類例をみないのである。
 かかる時代にのぞみ、われらが“思想の統一をせよ”と叫ぶゆえんのものは、けっして、たんなる独断や偏見によるものではない。あくまで先哲の教判に照らし、あらゆる思想を科学的に比較検討のうえで、日蓮正宗こそ仏法の真髄であり、幸福への直道を示すものであるがゆえに、統一すべき最高唯一の思想であると、強く世に訴えるものである。
2  恩師戸田城聖先生の論文「思想の統一」の一節を引用して、この問題を、さらに解明してみよう。
 「思想のなかにも、かず多くの思想があり、高下、純雑・正邪等、非常にまちまちである。そして、この思想は、因習とならない限り、たえず発展し、より高いもの、より純なもの、より正しいものへと統一されようとして動いてきた。これは、一つの民族や国家の歴史の流れをみるならば、あきらかなことである。
 道徳のう上でこれをみるならば、原始時代の骨肉相食むがごとき残虐な闘争の世界から、次第に親子の道徳律、師弟の道徳律・夫婦・兄弟・朋友等々と封建時代の道徳律が発達し、ついで、さらに個人の尊厳と自由が強調されるようになってきた。しかも、その自然のなりゆきとして、雑なものより純なものへ、不幸なものより幸福なものへと、たえず統一を目ざして進んできている。しかし、現在のわれわれの日常生活は、戦争や闘争による苦悩と道義の退廃によって、非常に不幸な状態にあり、科学は長足の進歩をなしながら、道徳はかえって原始時代に逆もどりしたとまず批評されるほどである。しかし、個人の自由と尊厳を確立し、戦争のない平和な社会を建設する方向を目ざして、わが国の憲法も制定され、これに逆行しようとする力を打ち破って統一を目ざしていることは、あきらかな事実である。さらに政治の面でも経済の面でも、低いものより高いものを、邪より正を求めて発展してきた。個人の自由を無視する専制主義は、一人一人の人格を重んずる民主主義思想となってあらわれ、土地の解放とか、独占資本の解体とか、あらゆる面で人間生活は根本的に変革されてきた。
 思想に統一も、権力によって受動的に統制された時代もあったが、いまや、人間の一人一人の自由な判断にもとづいて、自動的に統一の方向へ進み、権力によって思想は統制されるものではないという思想に統一されようとしている。同じく“統一”ということばを使っても、その内容はぜんぜんことなっているのである。
 このようにして、思想界はすべて変動し、そのあらわれとしての人間生活も、驚異的な変化をもたらしている(中略)そこにおいて、われわれは、宗教の正邪・純雑が正しく認識されなければならないと主張するものである。なすわち思想は、すべて、邪・雑・下を排して、正・純・高なるものを追究してきたのと同様に、宗教またま、正しいもの、純なもの、高いものを目ざして批判し追究していかなければならない。そのときには、最高のものに統一されることは、自然のなりゆきである。権力による統制などは、まったくおろかなことであり、あたかも電灯が出現したら、ランプやタイマツは、まったくすがたを消したごとく、最高価値に結集されていくのが人間の本性である」
 かかる大理念をもって立つ、わが日蓮正宗創価学会に対して、社会を指導すべき評論家などが、よく「組織や歌が軍隊調である」とか「ファッショ的傾向である」、あるいは「一時的精神安定を与えるものである」等々、その論ずるところはすべて皮相的であり、形態的な批判の城を出ない。
 三大秘法の御本尊とは何か。一念三千とはいかなり法則なのか。また、当体蓮華とはいかなる生命哲理か、という根本問題に対して、なんら究明しようとしないのは、知識人として重大なる過誤をおかしているものと断ぜざるをえない。
 ゆえに、世の識者こそ、大聖人の哲学に対して、さらに謙虚な心をもって耳をかたむけ、ありままに認識し、本源的に理解しようと努むべきではないか。
 妙法こそは、だれびとも否定しえない宇宙の大法則であり、真実に国の平和を願い、一人ひとりの苦悩を解決せんとする者の、ひとしく仰ぐべき大哲理なのである。
 日蓮大聖人、法蓮抄にいわく「法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし」、またいわく「末代に法華経を弘通せん者は如来の使なり・此の人を軽賤するの輩の罪は教主釈尊を一中劫蔑如するに過ぎたり」と。
 しょせん、平和と幸福の実現をめざし、民衆救済の先駆をきるものは、わが日蓮正宗創価学会よりほかはありえないのである。
 われらは日蓮大聖人の弟子として、鉄の団結をもって互いに助けあい、ある人は病魔に打ち勝ち、ある者は事業と戦い、生活革命に勝ちぬき、一丸となって、広宣流布への勝利のコマを進めようではありませんか。

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