Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

会長戸田先生の一周忌を迎えて  

1959.4.2 「会長講演集」第4巻

前後
1  先生、逝いて一年。早いといえば早かった。また五年、十年にも思えた。長く、重い一年でもあった。この一年、学会は、会長先生の御遺志、御構想に、正しく、強く、前進をなしてきたといえよう。
 夢で、先生から、きびしきおしかりをうけたことも、いくたびであったろうか。ただただ、先生の御指導を失うまい失うまいと努力するものである。
 三年ほど前、先生は『ことし(立宗七百十年をさして)からは、決戦ともいうべき年にはいる。断じて負けてはならぬ』との意味のお話をなされたことがあった。全会員は先生を師と仰ぎ、親とも慕うている。大御本尊様を受持できたのは、会長先生のおかげである。先生の指針に向かって、われらは、いかなる障魔のアラシにも屈せず、人間革命をしきっていく覚悟を、一段と固めなくてはならぬであろう。
 昭和三十三年四月二日午後六時三十分。この日は日蓮正宗の歴史にも、世界の歴史にも、先生の大偉業とともに、永久に刻まれることを信ずる。
2  ある政治家は、死して大勲位を贈られた。ある学者は、文化勲章、そしてノーベル賞等を贈られている。世間的にはりっぱそうにみえる。先生には社会的地位も名誉もない。しかし、先生ほどの大学者、先生ほどの大政治家、そして国を愛し、民族のため、人類のために、最高の貢献をなされた方は、まったく、おられなかった。
 法華初心成仏抄にいわく『よき檀那とは貴人にもよらず賤人をもにくまず上にもよらず下をもいやしまず一切・人をば用いずして一切経の中に法華経を持たん人をば一切の人の中によき人なりと仏は説給へり』と。
 御金言のごとく、先生は、正しき仏法において、正しく仏道修行させきっていく師匠であられたのである。
 あらゆる階級の全世界の人々が、先生の獅子吼、先生の思想に、頭を低うして耳を傾けるのも間近であると信ずるものである。
 三月一杯にわたる、本門大講堂の落慶総登山の総指揮を、本山理境坊でとられた先生は、四月一日の早暁に、下山なされたのである。自動車にて、注射を打ち打ち沼津駅に到着、夜行『出雲号』に乗られて、東京駅に六時五十四分に到着、ただちに、お茶の水の日大病院におはいりになったのであった。
 東京駅にお着きになったとき『先生、東京に着きました』と申し上げれば『そう』と慈悲にあふれた、おやさしいおことばとお顔とは、脳裏に刻みついて、生涯忘れることができない。あくる四月二日には、非常に御容体がよろしいとの報告が本部にあった。その日の夕刻午後五時、総登山終了後の打ち合わせのため、理事室、参謀室等による連合会議が、本部においてなされておった。また六時三十分からは、微力ながら先生の一日も早く回復されんことを願って、全男女部隊長が、本部に全員集まっておったのである。
 また、午後には、東京の文化部員が集合し、先生お留守中の決意を固め合っていたのであった。
 この日の不思議な、本部にての会合は、会長先生の指図によってなされていたように思えてならない。みんな、地方へ行く予定もあったのに、中枢の幹部は、ぜんぶ本部におった。連合会議が六時半少々前に終了し、雑談にはいったときに、会長先生の死を、御子息より、お電話でうけたのであった。瞬間、一同の驚きは、筆舌につくせないものがあった。
 先生の死は、広宣流布への終幕ではない。今日から、さらに激戦が始まったのだ。先生も、そのように命令され、弟子どもを信頼しくださったであろう。また、弟子どもも、みな同じ覚悟であった。
3  かつて、日蓮大聖人様御入滅の直前、六老僧を定められた。滅後、五老僧は日蓮大聖人様の教えを正しく守らず、あまつさえ、天台沙門、天台の弟子であると名乗って師敵対し、二祖日興上人様より離れていった。
 弘安六年十月、大聖人様の一周忌には、勝手に、池上で追慕の法要を行ない、身延の御墓所を捨て去った。門葉分裂のはじめとなったのである。五老僧は三回忌にも参詣せず、日興上人様は、きびしく五老僧を責め登山給仕を命令なされている。
 滅後四年目に登山した日向は、波木井実長を誘惑して、さらに謗法を重ねた。『地頭不法ならん時は日蓮が魂身延には住まず』の大聖人様の御遺言により、はたまた富士山に国立戒壇を建立せよの御遺命を奉じて、決然、日興上人様は汚れる山、身延を下った。
 あらゆる面で五老僧が、師に背き謗法を重ねたゆえんは、五老僧に根本的に信心がなかったものか、あるいは日興上人様に対するヤキモチか、あるいは、ささいな感情のもつれから、師敵対、大謗法という大事を招いてしまったものか。
 いま、学会人は、一周忌を迎えるにあたって『信心は日蓮大聖人様の時代に還れ』と申された先生のおことばを根本精神と仰いで、二祖日興上人様の『先師の教えを厳然と守り抜く御精神』『峻厳なる仏道修行の信心』をもたなくてはならないと信ずる。さらに、三祖日目上人様の、老齢の身をいとわず、国家諫暁あそばされた、粛然、襟を正す御最期をしのび、広宣流布に向かって、国立戒壇建立に向かって、身命を惜しまず、前進を続けなくてはならぬ。
4  四条金吾殿御返事の御金言には『身はをちねども心をち或は心は・をちねども身はをちぬ』と申されておる。
 いかなる幹部といえども、おのれの位置に満足しきって、信心の向上と、広布実現への前進と、後輩への指導を忘れてはなるまい。すべての幹部は会長先生によって、偉くしていただいたのである。先生の御遺志にそぐわざる者は恩知らずである。これ反逆に通ずるものでなかろうか。
 これからの入信者は、会長先生のお姿を知らないのだ。われらは幸いにも、直接に先生の御指導を仰いだ身である。最後の最後まで、ひとりの落後者もないよう、仲良く激励しあって進軍して行かなければならぬ。
 もったいなくも、猊下は東京、九州の総会の席上、師弟の道を淳々と、お説き、お教えくださった。『恐々として、師の教えを忠実に実践するのが弟子の道である』と。
 先生のお教えは、大白蓮華、聖教新聞等に明確に示されている。なお先生のお声もテープよりレコードに吹き込まれる日も間近であろう。東洋広布への具体的指針ともいうべき水滸会ならびに華陽会の記録も、ぜんぶ結集され終わった。
 われら遺弟は一周忌を迎えるにあたって、さらに先生の教えの実行にあたって、名誉と、確信とをもち、勇敢に推進していきたいものである。
 最後に、先生の墓前に『勅使門が開きました。広宣流布が終わりました』と御報告できる日を楽しみに。(当時、総務)

1
1