Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広布途上における大講堂建設の意義  

1958.2.1 「会長講演集」第4巻

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1  一、法華本門の大講堂
 『戸田の命の続く限り、ただただ、御本山に、忠誠を誓うものであります』
 現日淳御法主上人猊下の、御座替わり儀式の席上における、戸田会長先生の御決意である。宗教界は、戦国時代であった。人生を、世界を、幸福に導きゆく使命にたつべき宗教が、仏の金言に反し、堕落し、企業化されておっては、永久に幸福な人生も、世界の建設も、断じてありえないのである。
  “中原鹿を争うも
  誰か王者の師を学ぶ”
 これは五丈原の歌の一節である。
 横道の人生を排し、正道の尽忠に生きた諸孔明をうたったものであった。現在までの全宗教は、日蓮正宗をおいて、皆、仏説に反し、中原鹿を争いゆく姿なのである。王者の師を学びゆく、すなわち、日蓮大聖人様の御命令である、化儀の広宣流布実現に、仏勅のまま邁進しゆくは、ただ創価学会のみなのである。
 立宗七百六年新春、わが日蓮正宗総本山、富士大石寺の霊地に、本文の大講堂の威容を示しはじめたのである。地水火風空を意味するがごとき、堂々たる五層の近代建築は、日蓮正宗の数字の盤石なるを物語っている姿である。明るく白い外装は、白蓮華の信心のあらわれにも似て、万人をば、無言に導いていく、生命であるとも感ずるものである。
 かえりみれば、昭和三十一年十二月十八日、起工式より満一年余をついやし、ここに工事は、いっさい終了をみたのである。そして春三月、盛大なる落慶式とともに、わが創価学会、空前の大登山が、一か月間にわたり行なわれんとしているのである。
 ここにおいて、われらが究極の目的である、国立戒壇建立に思いをいたすとき、さきの奉安殿の建立が、広宣流布への第一実証を意味するならば、本門の大講堂の完成こそ、正しく広布実現への第二実証を示すものと確信するものである。
 講堂とは、申すまでもなく、経法を講ずる堂のことである。広宣流布には絶対に欠くことのできぬ、必要かつ重大な位置を示すものといえよう。したがって、仏教史上、この大事な役割を果たす講堂の存在は、遠く釈尊在世にも実在していたのである。すなわち、小乗経の増一阿含経には『仏は祇舎韻養会講堂の所に、大比丘五百人と倶なり』と。分別功徳論に『祇園精舎に七十二の講堂、法房舎あり』と、仏在世すでに、講堂の必要あるものを知るものである。
 そして正像二千年には、ことに多造塔寺堅固の時代とともに、ますます講堂の存在は重要にされてきたのであった。すなわち、中国においては、洛陽の建中寺の講堂、五台山の公主寺の講堂寺は有名であり、そのほか多数の講堂のあったことは、古文書に明らかである。
 日本においては、四天王寺、法隆寺、唐招提寺塔の講堂は現存し、諸大寺にも、つとに講堂の設置あるは、明らかなことである。
 とくに、そのなかでも、延暦寺の講堂は有名であった。
 なおまた、七堂伽藍といわれ、寺には必ず、七つの堂宇が具備されることになっている。すなわち、七堂は、金堂、塔、講堂、門、僧房、鐘楼である。宗派により、時代によって多少の相違はあるが、いずれの時代においても、講堂は、金堂(本尊、仏を安置するところ)とともに、寺院の中心に位しての、重要な存在になってきたのであった。
 かく考えゆくとき、日蓮正宗総本山の霊場に、国立戒壇建立を目前にして、本門の大講堂の建立がなされることは、理の当然なところであると思う。
2  二、講堂の歴史
 化儀の広宣流布は、悠遠六百七十有余年の歴史を有する。わが日蓮正宗の大宿願である。また、われら創価学会の唯一の使命なることは、万人の知悉するところである。
 しからば、本門戒壇場の姿は、いかなるものであるか。三位日順の心底抄に『戒壇の方面は地形に随うべし、国主信伏造立の時至らば、智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定は後難を招くに在り、寸尺高下注記すること能わず』等云云。
 これすなわち、未来に建立されるべき、戒壇の相貌は、広布実現にあたり、智者大徳の教義によって決定されていくものである。まえもって定めておくことは、必ず後に障りが生ずるであろうとの意味である。いま、仏法の方程式ともいえる、過去に建立された小乗経、大乗経等の戒壇は、どのようであったかをみたい。
 戒壇の起こりは、月氏(インド)において、釈尊が園精舎の外院の東南に、もうけられたのが、そのはじめであった。そして震旦(中国)においても、各地に戒壇は建立されている。さらに、日本に伝来されてからは、唐僧、鑑真和尚が、聖武天皇の時、奈良の東大寺に、小乗経の戒壇をば、設置している。
 その後、淳仁天皇の時、筑前の観世音寺と、下野の薬師寺とに造られてきた。地殻は、迹門の戒壇が、淳和天皇の時、伝教大師によって建立せられたのであった。
 しかし、これらは、小乗の教に志してたてた小乗の戒であり、あるいは、迹門の戒壇のごとき、大乗の教に志してたてた大乗戒であった。しかし、大聖人様のたてたもう戒壇は、それらとまったく異なり、いちいちの行為において、悪をとどめ、善を成さしめる戒を廃して、ただ一途に、仏の因行を行ずる、すなわち、本門の御本尊を受持口唱する本門戒なのである。
 この戒壇は、三大秘法抄の『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か』の御遺訓により、わが日蓮正宗総本山富士大石寺なること、すでに明らかなところである。
 講堂は、かの小乗の戒壇、また迹門の戒壇たる、比叡山延暦寺においても、打ち並ぶ堂塔のなかに必ず存在していたのである。いわんや、富士大石寺においてをや。
 いまはなき延暦寺の講堂は、正面・間口九間、側面・奥行六間、棟高十三間余に二重の屋根よりなる比叡山第一の建物であった。そして、本門の戒壇の地に、五階建コンクリート総坪数一千一百五十立方坪におよぶ大講堂こそ、まことに、末法万年のヤミを照らす三大秘法の大白法の道場にふさわしい、世界唯一の大建築として、ここに完成をみるにいたったのである。真に広宣流布途上における喜びは限りない。
3  三、かずかずの瑞相
 ひるがえって、大講堂建立にさきだちて、不思議なる現証が起こったことは、絶対にみのがすことはできない。
 瑞相御書にいわく『仏法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞をげんじ給う』あるいはまた『序品の放光は東方・万八千土、神力品の大放光は十方世界、序品の地動は但三千界・神力品の大地動は諸仏の世界地・皆六種に震動す』と。また天台大師のいわく『蜘蛛ちちゅう掛れば喜び来り鳱鵲かんじゃく鳴けば行人至ると小すら尚徴有り大焉ぞ瑞無からん近きを以て遠きを表す』等云云。
 大講堂建設直前、本山に良質の水が湧出したのである。この静岡県上野村一帯は、地下水が少なく、たびかさなる調査の結果、いつも水はでなかった。水脈はないとの結論であったのが、現在の宗務院脇地下二十五メートルの地点から豊富な水が湧出し、本山、長年の難問題が、一挙に解決したのであった。
 日昇上人は、この慶事に際し『経文には“湧出泉水”と説かれ、広宣流布の時には、絶対に、水が出ることになっております』と申されたのであった。
 ここに、大講堂建立の基礎は、まったくなったのである。これ戒壇建立の瑞相のひとつであると信ずるものである。次に、比叡山延暦寺の大講堂が、昭和三十一年十月十一日、一夜にして灰燼に帰したことである。
 十法界抄にいわく『迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず』とのおおせのごとく、まさに本門の大講堂建立にあたり、迹門の大講堂の焼失があったのであった。これ厳然たる仏法の不思議でなくてなんであろうか。
 次に建築の基礎工事にあたり、漢、鮮、日の三国にわたる、古銭が発掘されたことである。これ朝鮮、中国、インドに、大聖人様の仏法が流れゆく意義を有するものとも感ずるのである。さらに、大工事にあたり、大切な生命である工事人の事故がないこと等、かずかずの不思議は、大講堂の壮観とともに永遠に伝えられていくことであろう。
4  四、御本山の威容
 いま、本山において、主要なる建物をみれば、客殿、奉安殿、講堂、五重塔、御影堂等がある。そして、これらの堂宇は、広宣流布への途上にあって、それぞれ大事な行事が行なわれていくのである。すなわち、大客殿は、勅使派遣のときのために、大講堂は、真実の仏教、教学振興のために。
 はじめ学会の折伏戦が行なわれるや、大衆は学会の組織に目をみはり、その力の偉大さに注目をしたものであった。学者等は、創価学会の、初代会長、牧口先生の価値論をもって、学会の全体なりとみてきた。しかるに、大講堂建立の暁は、大聖人様の仏教哲理をば、必ずや、注目するにいたっていくことは、必然なことである。大講堂こそは、世界唯一の、全世界の思想を指導していく源泉となることを信ずるものである。
 原水爆におののく東洋の元首、指導者たちが、唯一の人類救済の指導原理であり、東洋仏法の真髄たる、末法の救世主、日蓮大聖人様の仏法をば、この講堂に、聞きにくることも、間近に迫ってきているのを確信するものである。(当時、参謀室長)

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