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日蓮大聖人・池田大作

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若き革命家・ナポレオン  

1958.6.20 「会長講演集」第4巻

前後
1  『前進!』
 これが、全ヨーロッパを震動せしめた、若き、悍馬にまたがった、ナポレオンの一生を貫く姿であった。
 祖国を思う一念は、反革命派の讒言によっての投獄、そしてまた、雪のアルプスを越えてのイタリアへの進軍、かつは、海を越え、エジプトへの遠征、そして、限りなき広野をまっしぐらのロシアへの追撃等は、青年ナポレオンの勇気と覇気と努力等の連続の断行であった。
 彼の思想、そして、行動の善悪は別として、ただ、みずからが信念と理想とをもって、人生を生ききった演劇的人生は、たのもしかった。
 時代は、英雄を要求する。フランス革命の前夜ともいうべき一七六九年八月十五日に、十三人の兄弟の、第二子として、コルシカ島に生まれたのである。
 貧しき一家は、ナポレオンを、兵学校にやったのであった。小柄で、顔色はいつも青く、やせて、無口な彼には、だれひとりとして友だちはなく、陰気な自分をどのように革命しようかと、苦しんでおったのである。
 『読書なくして、世界の偉人は、ひとりも生まれなかった』と自覚した彼は、全精力を、読書に傾注したのである。その書物の一部は、ブルターク英雄伝、シーザーのゴール戦争記、また、アレキサンダーの伝記等、さらに、深刻に、彼を感動せしめ、奮起させた一書は、フランス大革命を生んだルソーの哲学、それであった。なお、スパルタの憲法、共和政治論、財政論、風俗地理、天文地質、人口増加原則、歴史人物論、軍事等、ことごとく、将来、彼が成さんと志している大業に必要なものは、青年期に、研究されておったのである。友だちが、美服、美食をしているときに、彼は黙々と読書に熱中し、時のくるのを築いていたのであった。『天才とは、勉強なり』彼の有名なことばのひとつである。彼が、イタリアを征服したのは、二十七歳であり、帝位にのぼったのは、三十四歳の時であった。
2  彼の思想は、どこにあったか。それは、ヨーロッパ合衆国をつくることである。全ヨーロッパに共通する法典と、貨幣と、度量衡を残したいことであった。
 そして、さらに、夢は大きく『アレキサンダーの世界統一を、もう一度実現したい、そうでなければ、おれは死にきれない。どうしても東洋へ、そしてインドへも行くのだ』と、虹を追うがごとく、理想と、情熱をもって生きたのであった。一応、西欧の統一をはかった彼は、次に、ロシアへの遠征を開始したのである。『攻めるのが唯一の道だ。停止は自滅だ。前進!』と叫んで。
 火の玉の彼は、六十数万の大軍を率いて、運命の戦さを開始したのである。ナポレオンは、この戦さで、厳寒と、糧食欠乏と、疲労と、敵の忍耐等に、初めて負けたのであった。勝ってこそ、ナポレオンであり、負けては、もはや、ナポレオンではない。寂しく、エルバへ、第一回の島流しにあったのである。しかし、そのままで屈する彼ではなかった。
 山を抜く、彼の毅然たる情熱は、ふたたび新たなる世界を指さしはじめたのであった。ほえ叫ぶ獅子が、たてがみを立てるがごとく『前進』と叫び、夜のヤミをついて、単身、パリに進んだのであった。これからが有名な百日政府である。ふたたび皇帝となって指揮をとった彼は八万の敵をけちらし、連戦奮闘の戦さであった。しかし、彼の福運は、しだいにつき、多年の戦友であったマルモン元帥の反逆、イタリア遠征当時からオージェイ元帥の裏切り等が始まったのである。
 『われ、敵を恐れず。恐れるは、わが味方なり』と叫んだのである。人間は、老いて青春の生気をなくすとき恐ろしい、慢心の奴隷となるときがある。世界的に有名な、ウォーターローに敗れた彼の最後は、あまりにも悲劇であった。セントヘレナに流された五十一年の生涯をばふりかえって、彼は『おれの一生は、なんという詩歌だったろう』ともらした。しかし、苦しい人生の終幕ではなかったろうか。また彼が、最後に知ったことは『名誉や、利害でつった戦友は、最後は、皆だめだ。理想と、純愛とをもって、ひきつけた人々のみが、最後の味方でありうるのだ』と。
 外道たりとも、信念にたつ人は、これだけの力をもつ。しかし、妙法を知らぬ人生は、悲嘆である。われらは、彼より、百千万億倍すぐれた青年である。妙法の哲理を右に、慈悲の剣を左に持って、世界の平和に、白馬に乗って、雄々しく前進だ。(当時、参謀室長)

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