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日蓮大聖人・池田大作

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日昇上人追悼の辞  

1957.11.1 「会長講演集」第4巻

前後
1  昭和二十二年七月、第六十三世日満猊下より、六十四世水谷日昇猊下への、お座替わりの儀式がありました。
 そのとき、会長戸田先生の『このたびの猊下の御名は、日昇上人とうけたまわる。非常に意味のある、よいお名前だ』という意味のお話があったとうかがいました。
 『日昇』とは、日が昇るということでありましょう。宗門に日が昇る。大隆盛を表徴される、まことにおめでたいお名前と拝したのであります。
 爾来、猊座におわしますこと九年有余。化儀の広宣流布へのかずかずの偉業を遂行なされたのでありました。いわゆる奉安殿の建立、五重塔の修復、塔中および末寺の大造営等、宗門史上、いまだかつてなき大発展を遂行なされたのであります。
 とくに、猊座にお登りあそばされたときは、他国侵難ともいうべき大敗戦のあとでありました。
 『大悪をこれば大善きたる』の御金言のごとく、国破れた時代の、困苦の衆生を、お救いたまわんとの遣使還告のお姿でありました。
 さらに、猊下の御本懐とも申し上ぐるべき重大事は、昭和二十七年四月二十八日の立宗七百年慶祝記念大法要でありましょう。
 『立宗七百年』なんと意義のある年でありましょうか。もし、この七百年祭が、戦前であったり、戦争中にありましたならば、なんと無意味であり、寂しかったことでありましょう。
 仏意のいたすところか。これよりさき、ちょうど一年前に、会長戸田先生の推戴式が行なわれておりました。そして学会員は、如説修行の大折伏戦の火ブタをきっておったのであります。
 学会は、この記念祭をもっとも重大な儀式として、日蓮正宗始まっていらいといわれる四千名の大登山をいたしたのであります。そして、この七百年祭を第一歩として、広く日本民衆に、そして東洋の諸民族に、末法の仏法たる事の一念三千、南無妙法蓮華経の大御本尊様の大慈大悲を、広布することになったのであります。
 また、この記念祭のおり、男子青年部によって、神本仏迹論の邪義を唱えた小笠原慈聞師を大破折したことは忘れえぬ記録となったのであります。そのさいの猊下のお立場と、御心境は、じつにたいへんなことと拝されるのであります。
 それは、わが法類に対する擁護、壇信徒に対するお心づかい、そして仏勅に立って、正義を守る、学会への依怙、猛進軍等、宗門統一にあたられる猊下の苦衷は察するにあまりあると拝するのであります。
 偉大なる猊下の御徳によって、僧俗はこれを契機に、清くして深き一致をみるにいたり、大法弘通への基礎はいよいよ堅く、今日隆々たる大発展をみる、広布への礎をおつくりくださったのでありました。
 思うに、七百年祭の祝宴が、二十八日夜、蓮葉庵で催されたのであります。御僧侶代表、学会代表をまじえて、約数十名の出席であり、そのさいの、猊下の喜びに満ち満ちたお顔は、永久に忘れることはできません。それより五年、同じこの蓮葉庵において、しかも同じおへやにおいて御遷化あそばされたということを拝して、まことに感慨無量なるものをおぼえるのであります。
 さる二十五日、私は日昇上人の御本葬の儀式につらなる。霊山会上の古式による、まことに荘厳きわまりなき御盛儀であった。全山、雲をおおいて暗く、秋風またに鳴って悲しみをあらわす。
 そして私は、広布への闘争の使命を果たして、霊山の猊下の御もとへ御報告のお目通りを誓ったのでありました。(当時、参謀室長)

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