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日蓮大聖人・池田大作

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日本的な英雄・太閤秀吉  

1957.1.1 「会長講演集」第4巻

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1  天文五年一月元旦、これが日吉丸の誕生日である。貧農の子として産声をあげ、意地と漂泊の少年時代、そして誠実と真剣さをもって主君に仕えた木下藤吉郎の青年時代、また信長の尊皇主義に、全魂を闘争に注いだ羽柴秀吉の壮年時代、そして信長の跡を継ぎ、天下を統一した英雄・太閤秀吉の晩年時代、ともにほほえましく、愛くるしい人生劇場に生ききった、真に日本人らしい風格を感ずる。
 もし、秀吉が、昭和の代に生存しておったとするならば、実業家であろうか、はたまた、大政治家であろうか、必ずや国家のため貢献をなしうる人物であろう。
 惜しむらく、秀吉は御本尊様を知らず、近江に大仏殿等の建立をなし、永遠の生命を覚知できえず、したがって豊臣二代をも繁栄できえず、まぼろしのようなはかない栄達を、きっと嘆いていることであろう。
 しょせん、秀吉の大偉業は、全く信長の遺業を継いだもきであり、彼の創意を実践したものといって過言ではなかろう。四国の征伐、紀州の征伐、関東の征覇、そして海外雄図の偉業等等、また、信長の政治上の尊皇主義は、彼の国家統一の根本政策に流れたのである。主君に仕えること三十年、明智光秀の叛逆に相違して、師弟の相対ともいうべき、美しく不思議な因縁を思わせるものである。
 秀吉は親孝行であった。そして、いつも大衆を愛し、また部下からは、つねに慕われていた。すなわち人心統率の名将ともいえよう。さらに部下であっても、おのれより秀でる人格者・竹中半兵衛を師匠のごとく尊敬せし姿は、玄徳の孔明を思わせるに似た尊い教訓である。
 なににせよ、少年時代より自己の仕事を愛し、つねに主君信長にとり、なくてはならない人材と育った賜が、最後の勝利者太閤となったゆえんであろう。しかも、視野は日本のみにとどまらず、武力とはいえ、政治とはいえ、朝鮮を足場に大明国を平定して、東洋平和を成さんとした壮図は、日本男子として、躍如たるものである。
 いま、われら青年部は、立場こそ違え、道理と慈悲をもって、東洋広布にあゆむことこそ、とうぜんたる流転であろうか。(当時、参謀室長)

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