Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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化法・化儀の広宣流布の時代的背景  

1956.1.1 「会長講演集」第4巻

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1  末法の御本仏、日蓮大聖人様の出世の本懐は、一閻浮提総与の大御本尊様の建立にあらせられた。あたかもインド応誕の釈尊は法華経二十八品、天台大師は像法の法華経たる摩訶止観、伝教大師は比叡山に鎮護国家の迹門の戒壇の建立にあらせられたごとくに――。
 『一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』ならびに『今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり』等の御文は、法体の広宣流布を意味し、これを化法の広宣流布という。
 しかるに、立宗ここに七百三年を過ぎ、仏命たる富士山に本門寺の戒壇の建立はいまだならず。『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ、残されたただひとつの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである。
 よって、今ここに大聖人様在世の、すなわち法体の広宣流布の時たる鎌倉時代と仏意にたって、創価学会の闘争すなわち化儀の広宣流布の時たる現代とを比較しつつ、内外の諸情勢を分析、考察してみよう。
 両時代は、おのずから時代の懸隔により、文化の発展、社会の複雑性等によって、いちじるしく相違することは論をまたないにしても、根底に流れる本質的な動向には、じつに相似せる共通性を発見せざるをえないのである。
2  
 はじめに、鎌倉時代の仏法の興隆のしだいをみれば、平安朝末期より強く起こった末法の意識と往生念仏の思想は、保元の乱、平治の乱に続く承久の乱以後のうちつづく戦禍、地震、飢饉、火災、風水害等によって、ますます民衆は魂の救いを求めるにいたったのである。しかして伝統仏教たる天台、真言宗は、まったく形式化し、宗教的生命のいぶきを失って、世はまさに未曾有ともいうべき乱世におちいった。
 ここに法然、一遍、栄西、道元等が相続いて新興宗教を打ち建てて、そして、それらは、やがて時をへるにつれて、貴族、僧侶のみの仏教から、ついに一般庶民にいたるまでいきわたったのである。
 したがって、鎌倉時代は、まさしく新興宗教の興隆の時代といえよう。その原因は、第一に旧仏教の腐敗および形式に堕したこと。第二に、その時代の一般庶民の信仰の自覚による要求。第三に復古思想等である。
 次に王法たる政治をみれば、源頼朝が平家を倒して全国統一を完成し、鎌倉に幕府を開いてよりは、天皇の権威はようやく影をひそめるにいたった。
 さらに幕府が源氏三代の跡を継いで、北条氏の手に移るにおよんでは、時の権力はまったく執権職のもつところとなったのである。
 ときに末法の救世主・日蓮大聖人様の御出現を基準として仏教界をみるに、能忍が禅宗を開いて三十余年後、源空滅後十年、専修念仏を唱えはじめてより四十八年、重源が阿弥陀を唱えてより三十七年であった。いかに新興宗教の根がはびこっておったかが、うかがわれるではないか。
 一方、高弁五十一歳、道元二十三歳、叡尊二十一歳、忍性(良観)六歳、したがって大聖人様の正法流布の闘争が、いかに熾烈をきわめたものであったかが想起されるのである。
 まえにもどれば、禅宗、念仏宗の権大乗経等の新宗教がでつくしたあとに、大聖人様の出現となり実教たる法華経をもって、既成仏教・新興仏教ともに大破折されたのである。
 ひるがっえて、その方程式を現代の学会にあてはめてみよう。第一に大東亜戦の敗北を転機として、一部の新興宗教は、明治の末期以後に端を発し、戦後の人心の混乱に乗じて、世人の知る何十、何百派という邪宗新宗教となって現われるにいたった。
 第二に、御在世は権大乗経の宗派の興隆に対し、一応、法華経、実教によりこれを責め根を絶ち、末法の三大秘法の大法を建立あそばされておられる。そして時代は一歩進み、現代は権大乗経等は既成宗教に属し残骸のみ日本国に存在し、新興宗教と称すべき宗派は、等しく南無妙法蓮華経の題目を唱え、これに対し大聖人様の正義たる、本門の本尊を根本として破折しているのである。
 第三に天皇が存在しながら、国家たる北条幕府が実権をもつに対し、また現代も民主政治とはいえ、実際は一類の保守勢力により国は運営されているのである。ことの善悪は別として、両時代の衰微するにいたった原因が、仏法の乱れにあることを知覚した人が幾人あったであろうか。
3  
 次に時代の推移によりみれば、神国王御書に『第三十代は欽明きんめい天皇・此の皇は第二十七代の継体の御子なり・治三十二年、此の皇の治十三年壬申十月十三日辛酉百済国の聖明皇・金銅の釈迦仏を渡し奉る』と。ゆえに日本国に仏法渡って大聖人様立宗宣言までが七百余年になる。聖寿三十二歳、建長五年より、弘安二年十月十二日の大御本尊様御建立までが二十七年目にあたる。
 そして大聖人様立宗より、わが創価学会会長の全邪宗邪教撲滅宣言闘争の今日までが、不思議にも七百余年にあたっている事実である。仏勅をこうむりしゆえに、在世の方程式と同じく、将来二十数年にして国立戒壇を建立なさるのが会長の御確信であろうか。また、正法と邪法との勝負は歴史の示すところであり、これはまた大難の出来も火を見るより明らかである。
 釈迦は九十五派の外道を破折し、九横の大難を受け、最後に法華経の広宣流布を成した。天台大師は南三北七の宗派と戦い、像法の法華経たる摩訶止観の完成を成し遂げた。伝教大師、また南都の六宗と戦い僧等に仇まられしも、最後に迹門の根本道場を建てたもう。
 末法の救世主、日蓮大聖人様も、一切衆生を永遠にお救いくだされんがための仏法を残さんと、三類の強敵と戦い続けられ、法体の広宣流布をあそばされたのである。
 いま、正義にたつ創価学会に対し、道門増上慢の狂人のごとき反撃、また新聞紙上の攻撃等は、まさしく化儀の広宣流布をなしゆく使命をもったという、如説修行の厳然たる証拠なのである。
4  
 また在世よりみた東洋の状態、および現在よりみた東洋の現況を考えてみるに、年数の多少の相違はともかくとして、大聖人様立宗の年が、南宋滅亡、二十五年前にあたる。当時、南宋が亡びて、北方の蒙古族の支配するところとなり、すなわち大元国の出現があった。
 さかのぼって、東洋に仏法隠没の現象によってか、彼のジンギスカンの出現の直前、南宋時代に満州のツングース系女真(女直)が勢力を増し、より独立して金国を形成した。そして太宗の治世に宋と同盟してを滅している。この戦争によって財政の枯渇した宋は、条約の違反に乗ぜられて、金に宋の都、開封を陥落された。そして皇帝はじめ三千余名は満州に送られ、このときに、宋の一皇族が江南にのがれ南宋の歴史が始まったのである。
 しかるに、この情勢に始終して、蒙古高原の北方民族の勃興により、南方への侵略がなされつつあったのである。ここに南宋亡び元が興ったのである。日本国の大難(他国侵の難)文永の役、弘安の役等は、この時であった。しかし、大聖人様が厳として日本国にあそばされておったがゆえに、国難は安穏に帰したのである。
 一国の謗法の衆生に対し、正法流布の目ざめのために、他国の梵天、帝釈等に命ぜられし御計いでもあったろうか。
 現今の日本より東洋の情勢をみるに、学会出現の時は、すなわち大戦前後にわたって、中華民国として政権があった。その後、北支を地盤とする中華人民共和国の攻めにあい、宋の皇帝の逃げるごとく南宋の亡んでいく姿に似て、かの政府は、今は台湾の一隅に存在するにすぎない現状である。したがって宋を滅ぼした大元国の位置は、今の中共の姿になることであろう。また北方民族の征服とは、いわゆるソ連の赤化思想の浸透に相似ているのではなかろうか。
 将来において太平洋戦争に倍する大戦争なきにしもあらず。御在世当時、大蒙古の襲来におびえた姿は、いまの原水爆の恐怖におののく姿と酷似している事実に驚かざるをえないのである。
 文永の役は正しく大聖人様の予言の的中となり、法体の広宣流布の前相ともいうべく、弘安の役は大御本尊様建立二年にして起こり、ともに大聖人様によって救出なされたのである。(この後まもなく元は滅亡す)思うに、われわれ学会員は地湧の菩薩の棟梁たる会長先生の指揮指導のもとに広宣流布を成さずんば、日本国ならびに日本民族救済の道の、他になきことを知るべきである。
5  
 御書にいわく『扶桑国ふそうこくをば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月にまされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり』の御文のごとく、釈迦の仏法は大聖人様の御出現によって、まったく力を失い、末法万年の闇を照らすべき東洋流布の大白法は大聖人様によって確立あそばされたのである。
 釈迦仏法が、インドより、まず小乗教、権大乗教、実教の順のごとく、中国、朝鮮、日本へと渡ってきたごとく、いま末法の三大秘法の仏法は一国広宣流布の大前提として、かつ、東洋流布への瑞相として、邪教とはいえ、題目を唱える日本山、仏立宗等が、朝鮮、中国、インドへ普及しているという事実は、正法流布のまえぶれとして雑草の役目ともいうべき姿であろう。
 歴史は、たえずくりかえされるのであろうか。また万物は、たえず流転されていくのもであろうか。鎌倉は正しく頼朝よりの武家政治の中心地であった。天皇の位置はあれど、その地位、権力は、まったくなし。平安の文化は藤原氏中心の文化であった。像法やや過ぎ、藤原氏の専横は武家の反感とあらわれ、闘諍言訟・白法隠没の時代となり、平家、源氏の戦雲は長く続き、民のなげきは、いかばかりであったであろうか。
 弊害百出の結果、武家政治となり、北条幕府、鎌倉時代に移ったのである。けだし、民衆の幸福、国家の安泰は、まったくならず、ここに末法にはいり二百二十余年、大聖人様の出現によって初めて悠久の民族幸福の原理が打ち建てられたのである。
 しかして現代もまた等しく二十世紀の自然科学は最高度に進み、政治経済もいちじるしく発展してはいるが、在世時の幕府政治では、民衆の救出を成しえぬがごとくに、現代の科学、政治、教育、経済等の文明を誇ったとしても、はたして、大衆に真の幸福がもたらされているであろうか。吾人は否と絶叫せざるをえないではないか。
 この残された大問題こそが、政治、経済、教育等の根本的解決であり、化儀の広宣流布せずんば、絶対に成就せぬことを自覚すべきである。(当時、参謀室長)

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