Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宗教革命論  

1955.8.1 「会長講演集」第4巻

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1  一、革命の意義
 人間の社会生活は常に幸福をめざし、停滞することなく、たえず進化し、変動している。社会生活が、不断に能動的に、均衡を保ちながら進化発展しつつ、かつ成してきたことは、歴史の示すところである。この発展の仕方に、二種の形態がある。第一は、漸進的、部分的に、あるいは合法的、平和的に行なわれている。第二は突発的、全般的に、非合法的・暴力的に行なわれるものである。これを革命と呼んでいる。
 前者は均衡状態を保って進むがゆえに、進化とか、改良とか、改革といい、後者は能動的な均衡状態が中断され、次への均衡状態に向かう過程への急激なる現象(一大事件)であり、これを革命と称せられてきた。ドイツの学者、モーリッツ、ハルトマンは『合理的な革命はない』と論じているごとく、革命は政治権力の位置が、手段を選ぶことなく、急激に、変更されることであり、あるいは、社会秩序を、暴力をもって破壊していく、群集的な運動と考えられていた。
 したがって革命といえば、ただちに流血と無秩序の暴動とを連想する。しかるに、いま論ずる『宗教革命』は、いっさいの不幸の本源である邪宗邪教を撲滅し、全民衆が等しく奥底より渇望せる、絶対的幸福(仏界)をつかましめんと、その把握の原理たる、仏性の真髄である三大秘法の南無妙法蓮華経の流布のことである。ここには従来の革命のごとき、ひとりの犠牲者もなく、血の攪乱も、武力による騒擾もありえない。
 御義口伝にいわく『末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり』の御決定のおおせのごとく、また、それが御命令として『我等末法五濁乱漫に生を享け、三類の強敵を忍んで南無妙法蓮華経と唱ふ、豈如来の使いに非ずや、霊鷲山に於てまのあたり仏勅を受けたる者に非ずや』とおおせられし日蓮大聖人様のお心を心とし、広宣流布に邁進する、一日一日の折伏闘争のみが、宗教革命に通ずるものなのである。
2  二、革命の種類とその性質 
 歴史をふりかえり、過去の革命には、一、産業革命、二、政治革命(経済革命)三、宗教革命等がある。これらの革命の種別を通じ、そのよってくる原因には、等しく人間本然よりもつ本能的欲望、または経済的文化的欲望等が、時の社会・政治規模において過度に抑圧される場合に、革命が起こっている。されど、革命の原因が合理的であったにしても、大衆の感情に、アッピールしなければ、革命は起こらない。
 すなわち支配層の権力に対する、その反動的大衆の憤激、憎悪の爆発が革命の重大な原因となっていた。
 しかるに、革命後の民衆、就中、各階層の生活は、一貫して、幸福を、もたらされてきたか否かは、深く深く疑問とせねばならぬところである。
 かの産業革命は、作業機、発動機等、近代機械の発明・考案によって、急激なる何万、何十万の解雇・失業等をもたらし、または賃金の低下による社会的大変化であった。数万の労働者の穴倉の生活、イギリス王国の行列に向かって『われらにパンを与えよ』と叫ばしめ、各地に暴動が起こったことは、あまりにも有名である。現今、原子力による第二の産業革命と叫ばれ、その迫と、深刻なる前途は、周知のごとく想像をも許さぬ状態ではなかろうか。いかにしても物質文明のみでは、人生の苦悩を救い、人生の幸福を、建設できえないということをば、如実に立証しているかのごとくである。
 また政治革命は、新勢力が民衆が民衆をバックにして、国家権力を変更せしめて、その支配権をにぎることにほかならない。その第一にブルジョア革命があり、第二にプロレタリア革命があった。ブルジョア革命の典型的なものとしては一七八九年、フランスの大革命がある。また、それより早く、一六四八年にクロムウェルの英国の革命がある。またドイツにはずっとおくれて、ワイマール革命等が有名である。またわが国では、かの明治維新が、政治革命とならんか。
 フランス大革命は、旧制度に対する民衆の大反動であった。すなわち国を中心とする貴族高僧等の結託による絶対主義政治体制に対する破壊への進軍であった。
 ロシア革命は、帝国主義時代に行なわれた、プロレタリア革命である。革命の内容としては近代社会の道を、拓かんとした、絶対主義君主制・ツアリズムの廃止、農民問題の解決、民族の解放等が、その目的であった。近衛軍の発砲により数万の民衆が生命を失ったツア王宮の前での『血の日曜日』は、あまりにも有名である。
 これらの革命をふりかえり多少の特異性はあれども、すべて幾年にわたる悲惨なる騒乱事件は、じつに目をおおう修羅、畜生、地獄の絵巻なのであった。
 ああ、いかなる時代においても、いかなる民衆も、たえず、いかに幸福世界を夢みて、激流のごとく、今日に流れきたっていることか。
 また宗教革命運動は、ローマ教会の腐敗に対する、ドイツのマルチン・ルーテルの直接的反抗(プロテスト)であった。『キリストに帰れ』と叫び、免罪符の販売禁止をはじめとして、九十五か条の意見書の発表にもとづいた、戦闘的な運動である。
 その間、ルーテルは『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』の論文を発表して戦ったが、いかんせん、彼の行なえるは因果律を説かざる外道の宗教革命にして、惜しむらくは形式の改革にほかならなかった。すなわち宗教革命と称しても、絶対的な民族救済の哲理をもたぬがゆえに、いまだ真の宗教革命とはいえぬであろう。
3  三、宗教革命の必然性
 革命の起因の底流には、必ず哲学思想が生きている。フランス革命には、ルソーらの思想が、ロシア革命には、マルクス、レーニン等の唯物思想のごとくに。しかして人類のめざす目的は、すべて幸福であり、幸福世界の建設である。いかなる革命も、思想も、哲学者も、その目的を遂行せんとめざしてきた。しかしながら、今日、われわれの周囲に見るがごとく、奈辺に幸福世界があるであろうか。
 御書にいわく『悲しいかな痛しいかな我等無始より已来このかた無明の酒に酔て六道・四生に輪回して或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生・残害の苦みをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍の苦をうけ或時は人間に生れて八苦をうく生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をうく、此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇あいあえるも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は狼眼ろうがんに同し、我をうみたる母の由来をもしらず生を受けたる我が身も死の終りをしらず、嗚呼受け難き人界の生をうけ値い難き如来の聖教に値い奉れり一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし、今度若し生死のきづなをきらず三界の籠樊ろうはんを出でざらん事かなしかるべし・かなしかるべし』と。
 じつに宿命の打破なくして、自己のきたるべき幸福はありえぬ。人間革命なくして真実の政治・経済・教育の革命は成り立たぬ。その生命の本源的解決のカギこそ宗教である。最高唯一の仏法によらねばならぬ。これが日蓮正宗である。
 『衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す
 生命(人生)なくして、政治も、経済も、科学も、ありえない。かかる生命の解決こそ、第一義の問題とせねばならぬのである。その極理こそ、本因妙の仏法・事の一念三千に尽きるのである、かかる生命哲学なくして築かれる思想・制度こそ、すべて、砂上の楼閣なのである。
4  終戦直後、東大の南原総長が宗教革命の必要性を力説したことがある。また現在でも、知あり、心あらん人は、宗教革命を胸奥より叫ばんとしているのではなかろ
 うか。しかし、その真実の大道、方法等を知らぬのである。いわんや、一般の人々は、すべて宗教といえば迷信であり、形式か、精神修養としか考えておらぬ。事実、既成宗教は、まったく生活と関係なく、葬儀屋と墓番に化し、自己の信者、自己の宗派を守るだけに、々しているのである。また新興宗教は、社会の混乱に乗じ、金もうけの企業として勃興し、そこには、なんらの宗教哲学もなく、民族救済の原理もなく、まったく阿鼻地獄へ堕しゆく使いでしかない。
 御書にいわく『日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり、今久遠下種の寿量品に云く「今此三界皆是我有主君の義なり其中衆生悉是吾子父母の義なり而今此処多諸患難国土草木唯我一人能為救護師匠の義なり」と云えり、三世常恒に日蓮は今此三界の主なり、日蓮は大恩以希有事・憐愍教化利益・我等無量億劫誰能報者なるべし』と。
 所詮、宗教革命とは、いかなる階級をも問わず、全衆生が、等しく物心ともに幸福に成り行かんがための仏の慈悲行にほかならぬ。
5  過去の革命にみられたるごとき『正反』『上下』の反動ではない。
 当体義抄にいわく『正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり
 いま、それが具現は『祈りとして叶わざるはなく、罪として滅せざるはなく、福として来らざるはなく、理としてあらわれざるはなし』と。また『就中、弘安二年の本門戒壇の大御本尊は究竟中の究竟、本懐中の本懐なり、既に是れ三大秘法随一なり、況んや一閻浮提惣体の本尊なる故なり』とおおせの弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊様を受持し、その大功徳をば、いまだ知らざる不幸の人々に知らしめんがための折伏行のことなのである。
 釈迦の予言は、なにを意味し、天台・伝教の指針はどこに。すべて、日蓮大聖人様の御出現に帰しているのである。おもえらく、宗教革命こそ『大聖人様の時代に帰れ』『久遠の生命を知る仏法に帰れ』と叫ぶものである。したがって、わが創価学会の本尊流布への大闘争が、すなわち、過去にも未来にもありえぬ、宗教革命を断行しつつあるのである。
6  四、宗教革命と世界平和
 戦争の残虐・暴動の非なることは、だれびとといえども欲せざるところである。革命は必ず戦争と直結されておった。しかるゆえに、人類の歴史は、個人の幸福、家庭平和、世界の平和と、ひたすら希求してやまなかったのである。
 御書に『汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方はことごとく宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し』と。しかるに右の御書に反し、現実の生活、現実の社会はいかに。
 政治界をみれば、各党派の醜い闘争に終始している。そこには、調和も秩序もない、貧困と腐敗しきった政治のみがあり、白亜の堂は正しく修羅界と化しているのである。
 経済界をみれば、資本家のみが、わが世の春を謳歌し、中小企業者は、事業不振と重税、いな悪税におののき、いつ倒産するやもしれぬのではないだろうか。それにともない、また労使との対立、ストライキ、失業等、その他数えあげれば際限のない現状である。
 政治の貧困と経済界の不況に、国民生活は、年を追うごとに苦に没在していく。
 新聞紙上に目を点ずるとき、一日として陰惨な、凄惨な記事が、ない日があるだろうか。真実の世界平和とは、国土世間、衆生世間、五陰世間ともに確立しきった平和をさすのである。
7  御書に『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』との御宣言は、正しく宗教革命の宣言であり、日本国、世界平和への大宣言でなくして、なんであろうか。
 御書に『天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨つちくれを砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり』と。
 まことに、日蓮大聖人様の仏法による広宣流布、戒壇建立の暁こそ、宗教革命の終幕であり、世界平和の直道に通ずるものなのである。
8  五、結語
 世界の最大の思想、思潮とするところは、民主主義革命を理想とし標榜としている。しかし民主主義革命といえども、その根底も、宗教革命(平和革命)によらなければ成就できえぬものと確信するものである。
 『自由』と『平等』と『尊厳』とは、民主主義の原理である。第一に『自由』といえども、一念三千・一心法界の仏法の哲学によらなければならず、色心不二の自由こそ真実の自由といえよう。第二に『平等』といえども『凡夫即諸法実相の仏』と説かれし、全民衆等しく十界互具の生命観より出発せる『平等』こそ、真の平等とえいよう。そして永遠の生命に立脚せる『常楽我浄』の自己に生きんとするとき、いかに『尊厳』であること。
 いまや世界の焦点は、宗教革命を成しつつある日本国にあるといえるのである。
 日本国こそ、日本一国を第一歩として、東洋、世界をば指導していく国なのである。その中心が、わが創価学会であることを断言するものである。
 『当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり、所化とは日本国の一切衆生なり修行とは無疑曰信の信心の事なり、授与の人とは本化地涌の菩薩なり』云云。
 創価学会の出現は、宗教革命の仏意である。地涌の菩薩の棟梁であられる戸田城聖先生の獅子吼、言々句々は、宗教革命実現への源泉であられる。おもうに、革命への道は平坦でありえぬ。『結句は勝負を決せざらん外は』云云の御金言を瞬時も忘却することなく、いよいよ勇猛精進の信心に励むものである。
 学会員のひとりとして、悠久の歴史に残る未曾有の宗教革命に列なりし、歓喜と襟度と勇気とを持して進まんものである。(当時、参謀室長)

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