Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

永遠の生命に関する御聖訓について  

1954.6.1 「会長講演集」第4巻

前後
1  一、序(仏法と三世の生命)
 仏法とは、生命の実体、すなわち三世の生命観を、本源より確立したものである。いまだかつて世界の哲学界に、この三世の生命観を確立しきった理論は、まったくないのである。いわんや、永遠の生命を証得した人物においてをや。
 日蓮大聖人様は、世界の一大思想たる儒教の哲学の究極について、開目抄にいわく『其の所詮しょせんは三玄をいでず(乃至)かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり』等云云と、現世のみしか明かさぬ、低き哲学なることを示され、また、キリスト哲学の源流たる、外道の哲学については、同じく開目抄に『其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし、或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる』等云云との御文のごとく、外道は生命の過去八万劫、未来八万劫の生命観を知ることができたが、結局、断常の二見をいでない哲学なのである。死すれば無に帰すと説き、また鳥はいつも鳥、人は必ずまた人に生まれてくるとのごとき、因果を明かさず、有限の生命観しか説いていないのである。
 ならびに、近世西洋諸哲学も、空観の哲理をも知らず、まったく三世の生命観は不完成なものである。唯仏法のみ無始無終の生命観が完成されているのであり、それが会得の直道なのである。
2  聖人知三世事にいわく『委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるにくわしく過未を知るは聖人の本なり』等云云。委細に三世とは過去永遠、現世そして未来悠久にわたる生命観の覚知である。『法華経の迹門(乃至)本門は五百塵点劫』云云とは、釈尊が仏の境涯より観ぜられた永遠の生命観であり、生命の本因本果をば明かしたものである。『委く過未を知るは聖人の本なり』等云云とは、御本仏・日蓮大聖人様の御事であり、大聖人様の生命観は、釈尊よりも一段と生命の存在をば、本源的に明かしきられたものであります。凡夫のこのわれわれ自体が、無始本有の姿であり、この身のまま(三身常住)永遠に続くのであると説かれたのである。三大秘法抄にいわく『教主釈尊此の秘法をば三世に隠れ無き普賢文殊等にも譲り給はずいわんや其の以下をや、されば此の秘法を説かせ給いし儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき、所居の土は寂光本有の国土なり能居の教主は本有無作の三身なり所化以て同体なり、かかる砌なれば久遠称揚の本眷属けんぞく・上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う』等云云。所詮、人類の最高の幸福、根底よりの世界平和は、三世の生命観を基調とせる哲学宗教によって、構成、樹立されねば、有名無実なることは明らかである。
3  二、無始無終の生命
 まず生命は無始無終であるとの御聖訓を引き、次にそれを分けて、過去世より現世までとし、終わりに、現世より未来世への御文を拝しのべるしだいである。
 三世諸仏総勘文教相廃立にいわく『釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し』云云。『五百塵点劫の当初』とは久遠元初のことである。久遠とは、御義口伝にいわく『所詮しょせんは久遠実成なり久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり』すなわち、仏の生命は久遠劫初よりの生命にして、寿量なりとの御文である。『心仏及び衆生是れ三にして無差別』は、仏法の定則である。同じくわれらの生命は、神によってつくられたものでもなく、偶然に発生したものでもなく、久遠元初より宇宙とともに実在し、あるときは熊に、あるときは鹿に、あるときは人間となりたるごとく、生死、生死と連続して現在にいたったのである。
 つまり生命は宇宙より先に存在したものでもなく、宇宙より後から発生したものでもなく、宇宙と同時に存在し、宇宙が流転しゆく限り、宇宙とともに無限に続きゆくものである。
4  十法界事にいわく『迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れことごとく始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るはしばらく迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず』云云。ある人は生命は永遠であると観念的に考えている。しかるに、その永遠であるという根拠はもたぬのである。また、ある人は生命は生まれたときに発生し、死んだときに、この地球上よりアワのごとく消滅していくものと考えている。現今、人類の大半が、この重大かつ厳粛なる生命問題を探究しきらぬことは悲しむべき事実である。
 真の人類愛、国際間の結び合いは、永遠の生命観に立脚した正法によって、自己の生命は永遠に続くものであると自覚していくところから成立するものであろう。そして科学は人類の平和に正しく利用され、政治も芸術も、最高の顕現に発展しきることであろう。それには、本覚本有の十界互具を明かされた日蓮大聖人様の哲学に従う以外に道はないのである。そして、直達正観・事行の一念三千の御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、唯一の永遠の生命の実体を把握する道なのです。
 生死一大事血脈抄にいわく『其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来このかた寸時も離れざる血脈なり
 日女御前御返事にいわく『是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ摺形木たる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり』等云云。
 上の御文は、久遠当初の本姿であり、宇宙の実相であり、南無妙法蓮華経の万法の本源力なりとのおおせである。すなわち南無妙法蓮華経が、宇宙を構成する根源の実在であり、あらゆる変化を起こしてゆく根本の力であり、生命である。この根源の生命たる南無妙法蓮華経は、それ自体、生じもしなければ滅しもせず、ふえもしなければ、減りもしない無始無終、不生不滅の生命そのものである。光、響、エネルギー、引力、成育等、すべて、妙法蓮華経の本源力によってなされているのである、同じくわれらの生命の本質も妙法蓮華経であるがゆえに、無始無終なのである。
 諸法実相抄にいわく『法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし
 久遠劫初に、われらは大聖人様の御生命とともに実在しておったのである。久遠はすなわち末法である。ゆえにまた、いまを去る七百年前に、大聖人様の弟子として法戦に励み、またここに、広宣流布遂行の御命令を受けて、久遠の本姿・御本尊様とともにいますのである。
5  三、過去世より現世
 さきに、生命は無始無終であることを述べた。次に、現世(現在)の自己を中心として、久遠より連続せる生命に関する御聖訓を拝するに、当体義抄にいわく『問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る』云云。
 この御文の、染浄の浄とは、久遠元初の生命の本体であるし、また、わが身の本質の生命(仏)ともいえよう。染とは、過去世より、何千、何万と国土に生をうけ、謗法悪業を積みし不幸のもとである。すなわち生命は永遠であり、過去世の業因が、現世の業果なる証拠である。
 佐渡御書にいわく『山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり
 この地球上に事実、生を受け、賢愚の差、美人、不美人、貧富、病身と健康人、そして、千差万差の性格の相違、また一歩思惟するに、動物界(有情)植物界(非情)等の相違は、必ずや過去世よりの因果により決定されたものである。三世の生命観よりみざれば、納得できえぬ現象である。
 一生成仏抄にいわく『夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし
 『無始の生死』とは、永遠の生命である。『無上菩提』とは、浄にかえることであり、久遠の生命を感得することである。すなわち、大宇宙とともにあるこの身が、大宇宙のリズムに合致しゆくことである。生死とは苦しみのことであり、染浄の染であり、過去世よりの宿業である。所詮、生命は永遠であるがゆえに、過去遠遠劫の罪障を消滅し、未来永劫に我意のままにふるまいゆくことを欲せんと、信・行・学に励んでいるのである。
6  四、現世より未来世
 次に、現世の自己を中心に、死後の生命、すなわち未来世へ流転しゆく生命への御聖訓を拝する。われらが死する時、自殺、あるいは惨殺、病死、焼死、その正反対に成仏等というように、死の原因が違えば、必ずその結果たる生命のあり方が違うわけである。そして来世への状態が決定するのである。因果は科学の法則であり、仏法は生命の三世にわたる因果を明かしたものである。
 死とは、仏法では『方便現涅槃』と説いている。一日の疲れをば必ず寝て心身を爽快にするごとく、生命は、すでに成(出生)、住(生存)、壊(死)、空(死後)と繰り繰り返されるのである。その空(死後)の状態が、現世に見る夢の状態に共通して考えられよう。非常に苦悩しておれば地獄の夢を見ようし、喜びに満ち満ちているときは天上界の夢を見るごとく寝ては起き、起きては寝ていく現世の活動が、今世の宿業となって、来世に連続していくのである。
 三世諸仏総勘文教相廃立にいわく『能く能く秘蔵して深く此の理を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず
 右の御文は成仏した死生観である。大御本尊様を受持し、信・行・学に励みしわれらの死後の生命活動の状態を述べられたものである。死んで霊魂のごとく飛んでいるのでもなく、無に帰するのでもなく、須臾の間に事実は九界生活にはいるわけである。
 しかるに成仏の生命なるがゆえに、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、因縁和合のおことばのごとく、大宇宙のリズムに融合しきった生命であり、いつでも宇宙に遊戯していく境涯となっているのである。すなわち、娑婆世界に帰りきたっても、自由自在にして、無量の福徳をもち、現世安穏の生活となる事実が覚知できるのである。
 次に反対に、今世において、信心弱きわれわれに対しては、
 聖人御難事にいわく『ひだるし空腹とをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、をそろししと・いわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ』云云。また、種種御振舞御書にいわく『此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこ妻子かたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし』云云。
 じつにきびしき、未来世への実情を示された御書である。信心なき人生は、今世によって、来世は、いかなる生命に変化しゆくかは知らぬのである。信心しているわれわれでも、信心憶病にして退転すれば、三千羅列としてきびしき身は『たかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ』の御文とおりに、弱く、ずるい今世の信心の状態が、来世には、一段ときびしく、雉と生まれては鷹に怖えぬき、ねずみと生まれては、猫に追われ苦しむ状態を、繰り返されていくのである。
7  五、結論
 草木成仏口決に『理の顕本は死を表す妙法と顕る・事の顕本は生を表す蓮華と顕る、理の顕本は死にて有情をつかさどる・事の顕本は生にして非情をつかさどる』と。
 いま、ひとりの人が焼死した。その生命は地獄界に宿り、現実に火の中に実在している。その証拠が黒き死体である。寒き世界で凍死した人は、極寒地獄にはいり、その生命は雪の中、氷の中に実在しているのである。生命が永遠であるということが、だれびとが否定しようが、事実はきびしく流転されていっているのである。
 生命は永遠である。その永遠の生命を覚知することを成仏といい、それが、信心の目的なのである。その境地より打ち立てられた国土を、仏国土という。これ真の平和なる世界である。いま、自己の眼前に映ずる世界(生命現象)は、永遠に続く生命の瞬間の状態である。瞬間のなかに永劫は含まれ、瞬間の連続が永遠である。その瞬間の源泉が南無妙法蓮華経であり、寂静とした御本尊様として開かれたのである。
 生死一大事血脈抄に『過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり』と。
 ただただ、弘安二年十月十二日の大御本尊様に題目を唱えきっていくことのみが、永遠に幸福になりきれる法則なのである。(当時、参謀室長)

1
1