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日蓮大聖人・池田大作

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歴然たる法罰の現証 第7回女子部総会

1959.11.29 「会長講演集」第4巻

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1  本年は、たいへんに忙しい年でございました。選挙といい、総支部単位の体育大会と申し、また皆さん方の最後の結集である総会といい、その陰で、いつもいつも、皆さん方の活躍を大幹部は拝見しておりまして『ああ、よくやっておられる』というふうに、敬意を表しているしだいでございます。
 あるとき、先生に『先生、本山へ行ってまいります』といいましたら『そうか、大御本尊様に一年間、一生懸命に信・行・学に励みます。そうして、十二月三十一日の勤行のときに、自分はこれだけ成長しました。これだけしあわせになりましたと報告できる一年間でありなさい。それを願っていらっしゃい』と申されたことがございます。
 千里の道も一歩から、大海の水も一滴からです。
 大聖人様は『月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし』とも申されております。
 一日一日、月月、一年一年を、ひとつの区切りとして、毎年十二月三十一日の総決算のときに、大御本尊様に『これだけ幸福になりました』と御報告のできる一年間でありたいと思うのでございます。
 皆さん方の先輩の方々をみましても、七年間、十年間と御本尊様を信じ、学会についてきた方々は、ぜんぶ幸福になっております。反対に信心をやめ、学会を批判した人々は、ぜんぶ不幸になっております。
2  ここで、私は『信心すれば必ず諸天善神に守られるし、幸福になれる。反対に御本尊様を誹謗し、学会を批判し、われわれをいじめるものは仏罰がある』ということについて、大聖人様のおふるまいのひとつとを通して、お話しておきたいと思います。
 大聖人様がいちばん迫害をうけたのは平左衛門尉頼綱によってでございます。平左衛門尉はもったいなくも大聖人様に対し奉り、法華経第五の巻をもって顔を打たせております。その平左衛門尉には、ふたりの子供がおります。ひとりは長男の宗綱、もうひとりは二男の安房守宗資です。
 平左衛門尉を中心に、その安房守が大聖人様を首の座へ引導し、また長男の宗綱が佐渡の国へ流した張本人といわれております。こうして大聖人様の滅十二年目、また神四郎はじめ三人の犠牲者が殉死した熱原の法難から十四年目で、平左衛門尉一族は滅亡しております。
 日寛上人様はこのことについて『大聖人様の面を打ったがゆえに、平左衛門尉頼綱は首を切られた』と申されております。反逆の罪です。頼綱は、北条幕府の時の執権貞時(時宗の弟)を打たんとした密議が暴露、還着於本人で自分が首を切られた。また二男坊の安房守は大聖人様を竜の口へ引っぱった張本人であったがゆえに、同じく父といっしょに殺された。そして長男である宗綱は、大聖人様を佐渡の国へ流した張本人であるがゆえに、佐渡の国へ流されております。
 このように仏罰は厳然としております。御本尊様を拝むものは福を安明に積まん、仏になる、必ず幸福になる。学会を誹謗し、信心しているわれわれを誹謗する人々は、必ず諸天善神の治罰をこうむると確信して、私どもは戦っていきたいと思うのでございます。
 どうかひとつ、会長先生の教えどおり、若い人らしく信心し、若い人らしく活動し、若い人らしく生ききって、そして皆さん方ひとりひとりが幸福になってください。以上をもって、あいさつといたします。(当時、総務)

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