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日蓮大聖人・池田大作

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戸田先生一周忌を迎えて  

1959.3.20 「会長講演集」第4巻

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1  昭和二十六年五月三日、戸田先生は創価学会会長に就任された。先生は獄中で、すでに湧出品をお読みになり、御自身の内証を覚知され、人類救済の御決意を固めておられた。しかし、昭和二十年七月三日出獄以来七年間、内心ではどうしても会長に就くべき使命を知りながら、良き人材を求めて理事長の位置で、法華経の講義、人材の育成にあたっておられた。
 この間、先生は就くべき位置に就かなかったゆえに大難をうけられた。その理由のひとつとして、先生は立正佼成会は小さな教団であった。しかるに七年のときを経過して、大なる教団になし、邪宗の臭気を世にばらまかせたのはだれの罪か。『これ創価学会を率いる者の罪である』と、先生は証をえて、敢然と立たれ、会長に就任されたのである。
 かくして、戸田先生は折伏への大号令を下されたのである。学会の各部の組織はつぎつぎとつくられた。支部、青年部、婦人部、教学部、また聖教新聞の発行等、だれもが考えおよばないようなことが指示された。
 翌年はあたかも立宗七百年、先生は寝食を忘れて広宣流布の基礎建設の闘争に突入された。七百年登山で宗門問題の解決、教学部の御書編纂、全国布陣の地方折伏と、全邪宗がまったく気づかぬうちに、つぎつぎと先手をうたれた。先生の叱咤激励は深夜にも電話の指令が飛んだ。学会は、理事も、部長も、一会員も、講義に、折伏に、一丸となって火の玉のごとき状態であった。
 先生は身をもって総本山に対する忠誠と猊下をお守り申し上げる真心を示された。五重塔の修復、奉安殿、大講堂の建立、各坊、各寺院の増築、新築をはじめとする御供養のかずかず。また、御僧侶に対する尊敬を教えるとともに、法に違反することがあれば、断固呵責され、信心による僧俗一致を示された。
 またあるとき、御供養について、こんな話をされた。『水戸光圀が大日本史を編纂するとき、その費用を藩民に負担された。貧しい人たちから出資させる心苦しさに泣いたという。光圀の心がよくわかる。私も貧しい学会員に御供養をすすめるが、これをしなければ、皆も功徳をうけられないし、広宣流布はできない。そのたびに私は泣いているよ』と。
2  北海道指導への飛行機のなかで、こんな話があった。『おまえたちの孫の孫の代までの構想は教えていくからな』先生の弟子に対する指導は、きびしかった。そのためには昼夜をわかたず指導しきっていらっしゃった。ほんとうに一分の余裕もない毎日であった。
 教学については、とくに力を入れられた。学会は広宣流布という目的と教学があることが最高の誇りであると、つねにおおせられていた。婦人には家庭生活から教養、お化粧の仕方まで教えられた。とくに青年部に対しては、そのすべてを教えていくと、水滸会・華陽会を設けて将来の構想を語られたのである。
 昭和三十二年十一月、牧口先生の法要の翌朝、おからだの具合が悪いのをおして本部へこられた。あすの広島の入仏式へ行くとおっしゃるのである。だれの目にも無理なのはわかっていた。皆が止めるのに対して、先生はこうおおせられた。
 『法主猊下がお出ましになるのに、私がお供しないわけにいかない。広布途上で死ぬなら本懐である。もし行かなければ弟子がそれを見習ってしまう』
 きびしい訓練のなかに、弟子を思う先生の御慈悲は親にもまさるものであった。
 会長に就任されたとき、戸田先生は『七十五万世帯ができなかったら、遺骸は品川沖に捨てよ』と宣言された。そして『題目の流布は終わっている。いまは御本尊様を流布して広宣流布するのである』と、おおせられていた。この七十五万世帯も遂に昭和三十二年に達成した。
 この意味について、堀米法主上人猊下は、総会で次のように明示あそばされた。『すなわち妙法蓮華経の五字七字を、七十五万として地上に呼び出したのが、会長先生である』
 戸田先生のこの七年間のおふるまいを拝するとき、それは何千年にも通ずるものであり、ただひとりのまことのよき檀としてのおふるまいであった。われわれ凡夫にはわからないが、身をもって幾多の苦難を悠々とほほえんで乗りきっていく偉大な生命を拝するとき、まことの賢王としてのお姿であったと感ずるのである。
3  昭和三十三年四月二日――この日、われわれ学会員が親とも慕い、師匠とも仰ぐ会長戸田城聖先生が、御去あそばされ、霊山浄土の日蓮大聖人様の御もとにおかえりになられたのである。その痛恨きわまりないひと月を思い起こすとき、先生の教えの偉大さ、先生の大慈愛、広宣流布への熱情をしみじみと感ずるものである。
 先生が一生の願業とされた七十五万世帯を達成しようという直前、三障四魔は粉然として競い起こり、先生のお身にふりかかった。とくに三十二年の十一月、牧口先生の第十八回忌の翌日からは、先生は、病魔、死魔におそいかかられて、非常な重体であり、動くことさえできぬ御容体であった。医者もサジをなげたとき、先生は堂々と病と戦われ、闘病八十日にして、その病に勝ち、明けて二月十一日の第五十八回目の御誕生日には、すっかりお元気になって、全快祝いをあげられたのである。
 このことは、先生のおからだを通して『どんな重病人でも御本尊様を拝む以上、いったんは、きちっとなおってから死ぬ』という方程式を示してくださったものと考えられる。
 御誕生祝いの席上の先生の御指導はきびしいものであった。『幹部みずから指導し、幹部みずからが自己を磨いていけば、会員は育っていく』と、幹部の信心に峻厳な反省を求められたのである。
 三月の法華本門大講堂落成の総登山には、一か月にわたって親しく最後の指揮をとられた。先生は御自身の死期については、すでに十一月に、家族の方に『四月』ともらされていたのである。総本山での先生は、三月一日の講演をはじめ、理境坊でも『これでおれの仕事はぜんぶすんだ。あとは用がないから死ぬんだ』と繰り返しておおせられていた。側近の人たちが否定すると『お前たちは、自分のつごうばかり考えているが、そうはいかない』と笑っておられた。そうした話を聞いていながら、弟子としては絶対に信じたくなかった。
4  総本山における戸田先生の最後の一コマ一コマは、皆、先生なきあとの学会の針路をひとつひとつさししめされるものばかりであった。
 ある幹部に『これからの学会は外部からくずれることはない。内部の団結が大事だ』『学会は大幹部が協力してつくったものだから、仲良くやっていけばいい』ある学会秘書には『学会は気分でいけ。皆の楽しい気分をこわすようなものは敵になる』と団結の大切なことを話された。
 また『最後の敵は、キリスト教や天理教ではない。最近の思想に対して戦わなければならない』とか『日本の広宣流布は、あとは自然にできる。レールの上を走っていけばよい。だが、東洋広布のときには、東洋各地を開発すれば、東洋文化は必ず繁栄できる』と繰り返し繰り返し教えられたのであった。
 その一方では、弟子たちには最後の最後まで『勉強しろ、勉強しろ』と申されていた。当時、先生が読みかえされていた『十八史略』を読んでいなくて、しかられた思い出のある青年たちも多いことだろう。ある青年の問いに応じられて、御重体の床のなかでさえ、末法相応抄を教えられていたこともあった。
 二十四日、先生の御意思によって、総本山で理事室、参謀室連合会議が開かれ『信心純化』へ大英断が下った。幹部のうちで信心を誤るもの、仏法と世法を混同するもの、まじめに働かず借金するものなどを対象に、解任の命が下ったのである。戸田先生は非常に考慮された末の結論であった。『学会発展のため、広宣流布のため、人事の更迭をせねばならぬ。あとは御本尊様にみていただくのだ』と先生の御指示はきびしかった。
 こうして、三月三十一日、総登山は無事終了した。先生はなすべきすべてを終えられた。三月後半からは、おからだの具合もことに悪く、食物もほとんどおとりにならないような状態になっていたが、一日早暁、夜行出雲号で下山なさり、朝六時五十四分東京駅へ到着され、ただちに日大病院におはいりになった。
5  四月二日、この日は、学会員にとって永遠に銘記されるべき日となった。この日午後五時、総登山も終了後の打ち合わせに、理事長、参謀室の連合会議が本部で行なわれている。また、六時半からは、微力ながら先生の回復の一日も早きを願わんと、全男女部隊長が本部に集合していた。また、午後には文化部員が集合して先生お留守中の決意を固めあっていた。不思議にも、この日は、こうして中枢の全幹部が本部へ集まっていたのである。
 連合会議は六時半少々前に終了して、雑談にはいったとき、会長先生の死を御子息よりお電話でうけたのであった。皆の驚きと嘆きは筆舌につくせぬものがあった。
 その夜一夜は慟哭のうちに明けた。しかし、先生の死を嘆くばかりでは真の弟子の道ではない。いまこそ先生の御遺命となった戒壇建立へ、怒濤のように進軍しなければならない時がきたのだと、涙のうちに思い定めたのである。
 先生のなきがらは、御遺言にしたがって、一週間そのま安置され、従容たる大将軍の威容をそなえて成仏の相を、まざまざと示されていた。八日、戸田家のお葬儀、二十日には全国から集まった学会員二十五万が先生をお送り申し上げたのであった。
 戸田先生が御逝去あそばされてから一年。短いといえば短かったが、これくらい長く、重く感じられた一年はなかった。しかし、戸田先生の御生存中とまったく同じように、先生の思想、先生の声、先生の心をまざまざと感ずるのである。その間、学会は先生の残された広宣流布のレールの上を、堂々と歩みつづけた。そして、この姿こそ、戸田先生が死してなお学会を指導なさっている姿と信ずるのである。
6  昭和三十三年五月三日、この日、第十八回春季総会が、両国の国際スタジアムで行なわれ、全国から三万二千の学会幹部が参加した。
 五月三日という日は、戸田先生が第二代会長に就任なさった記念の日であり、この日奇しくも、まる七年目に当たった。そして、この思い出の日、幹部一同は戸田先生をしのび、先生なきあとの広宣流布の決意を新たにし、新たな段階に勇ましく船出したのであった。
 総会は大成功であった。
 本部総会が終わると、引き続いて関西総会、六月には九州総会、七月には北海道総会が開かれ、想像に絶する学会員の広宣流布への力を示したのであった。また青年部としても、関西、九州、北海道の地で青年部総会を開き、学会青年男女の意気を日本全国に示したのである。
 『団結』の合いことばは、学会ぜんぶに広まり、こうして微動だにすることなく、広宣流布へのあゆみは続けられたのである。
 八月の夏季講習会には、戸田先生の残された一大原論、王仏冥合論の実践を目ざして真剣な講義が、幹部を集めて行なわれた。引き続いて、新支部結成への前提として夏季地方指導が北海道から九州にわたって繰り広げられた。これは、戸田先生の御構想であった地方拠点の育成が花を開き、実を結んだということができよう。
 九月には、国立競技場を埋めつくして、若人の祭典が繰り広げられた。若き青年男女の力強い姿、それを応援する七万の大観衆『次代をになうものは、いまここにつどう学会青年部しかない』と安井都知事が賛辞をささげたのもとうぜんのことであろう。
 十一月の第十九回秋季総会は、この半年の間、学会があゆんできた姿を明瞭に内外に明らかにしたものといえよう。このとき、十支部旗、五十六本の部隊旗が授与され、組織の一大発展と充実が行なわれたのである。
 折伏成果は上昇の一途をたどった。ことに御去のあった四月には、二万九千を記録し、伝統の八月には四万六千を越し、かくて十一月には年間目標であった百万世帯をゆうゆうと達成したのである。
7  こうなってみて、あてがはずれたのは邪宗団である。会長先生なきあとの依然として変わらぬ学会の前進の姿に、ひとたびは驚嘆し、ふたたびは断末魔の悲鳴をあげた。全邪宗団が結束して、学会に敵対をはじめた。これが墓地問題である。裏には全日仏の策動もうかがわれ、学会では仏法のうえからも法律のうえからも、断固たる正義の鉄を加えてきたのであった。すでに判決として懲役四か月の刑をうけた坊主もあることは、三類の強敵を破ったおおいなる証明であろう。
 昭和三十四年元旦、黎明の年は静かに明けた。学会本部ではこの日、戸田先生の録音テープをうかがって、重大段階に対する決意を新たにした。(1)学会世帯百三十万(2)各支部会館の充実(3)全国十か寺の建立、政界へ有能な人材の推薦を目ざして、新年への前進は始まった。すでに支部会館は過半数が決定し、各地の市会へ送られる学会員の数も多い。
 戸田先生は『信心は日蓮大聖人様の時代に帰れ』と申された。信心の方程式は、もったいなくも大聖人様がお示しである。しかし、われわれの行動は日興上人が教えられている。遺誡置文のなかに『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』とあるが『身命を賭して』のおおせを忘れてはならない。これを実践の移されたのが日目上人である。日目上人は七十四歳にいたるまで、国家諫暁を続けられ、粛然、エリを正さざるをえぬ最期を遂げられた。師命の実践に生き、実践に倒れたこの姿こそ、残された弟子の道であると信ずる。
 大聖人様の時代は法体の広宣流布、したがって信心一本で、今日のような組織はなかったものと思われる。しかし、いまは化儀の広宣流布、組織が要求される時代であって、学会の組織ほどりっぱにつくられているものはない。したがって、組織の上に立つものが『自己の信心がりっぱである』という錯覚が生ずるとき、学会の組織は動脈硬化する。ゆえに幹部がつねに師匠の教えを厳然と守り抜く信心、峻厳なる仏道修行の信心がなくてはならないと信ずる。
 われら遺弟一同は、一周忌を迎えるにあたって、名誉と確信をもち勇敢に前進していきたいものである。(当時、総務)

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