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日蓮大聖人・池田大作

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葛飾総ブロック幹部会 憶持不忘

1959.3.18 「会長講演集」第4巻

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1  御書に『大難来れども憶持不忘の人は希なるなり』とありますが、これは、どんな大難がきても憶持不忘、すなわち、おそれないで、日蓮大聖人様のおおせどおりに、大聖人様のおおせを忘れないで、御本尊様を忘れないで、修行しきっていく人は少ないとおおせなのです。
 もうこれだけ知っていれば、いいのです。信心は、これだけなのです。どんな大難がきても、どんな三障四魔がきても、大聖人様のおおせどおりに、大悪は大善の瑞相、悪いことがあればあるほど、そのときこそ大功徳を受けるチャンスなのだ、これさえおぼえていればいいのです。あとは枝葉です。信心の究極はここなのです。聖人、賢人たりとも難はうけるのです。この娑婆世界にあっては、だれびとたりとも、先覚者であるとか、世の中のために一生懸命つくそうとする人とかは、必ず迫害を受ける時代なのです。
 いわんや、宗教革命をしていこうとするわれわれです。永遠の幸福をこの一生涯につかもうと修行するわれわれです。第六天の魔王や鬼神が働くことはとうぜんなのです。したがって、その三障四魔と戦うことが仏法なのです。仏法は勝負なのです。負けてはいけないのです。
 ちょっと難があったり、ちょっとなにか事件があったりすると『学会の信心をしているから、日蓮正宗の信心をしているから、こんなににらまれるのだ、いやになってしまうな』と、すぐ恨むのです。そんなに恨むのだったら、やめればいいのです。
 信心することも、折伏することも、ぜんぶ自分のためである。大聖人様のためでもない。日蓮正宗のためでもない。ただ自分自身を幸福にするために強い信仰をしていくのだという信仰になれば、なにもヤキモチやグチや退転は、私はないと思うのですが、どうです、皆さん。
 ただ、どういう難があっても『憶持不忘の人』御本尊様をたもち続けて忘れない。これだけの四字を『此経難持』この経たもちがたし、難があったら『此経難持、憶持不忘』これだけをぼえておけばいいのですよ。
 『此経難持、憶持不忘』これを身で読み、心で読み、口でいいきる。これが身・口・意の三業相応の大信者の姿なのです。
 口では『この信心は、すごいわよ。この信心をすると、生命力がついて功徳があって、これ以上のしあわせはないのよ』といって、座談会の帰りがけになると『あの人たちは、ずいぶんしあわせそうね』と謗法の人たちがしあわせそうに見えてしまって。それでは、ほんとうの信心ではない。最後は皆さんがしあわせになるに決まっているのだし、すなわち信心しているきょうその瞬間がしあわせなのだ。ほんとうは、これを覚知すれば仏なのです。それを疑っておれば苦しいのです、ヤキモチやくのです。
 そして、この御本尊様は受くるはやすくたもつはむずかしい。受けることはやさしい、しかし経のごとく修行していく、たもちきっていくことはむずかしい。皆さんは信心なさって、御本尊様を受けて、受けることはまずやさしいが、どこまでたもちきっていけるかが、たいへんです。牢にはいる、信心をやめなければ殺すといわれても、たもちきっていけるかどうか。
 『持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』仏ということは、仏の生命を湧現し、仏になるということは、ただひとつ、御本尊様をたもちきっていくことが仏になれる。
 御本尊様をいつも忘れないで、御本尊様のおおせどおりに動いておれば、どんな難があろうが、どんなことがあろうが、題目を唱えておれば、それはもう仏なのです。ほんとうは、仏のふるまいなのですとおおせられているのです。(当時、総務)

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