Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

指導上の諸問題 文京支部指導会

1956.9.9 「会長講演集」第4巻

前後
1  指導は信心を根本にしていくこと。
 そうすると、こちらも、とても楽で、自分自身がホッとする。錯覚をおこして、頭で考えてやりはじめると苦しい。御本尊様一本で、自分がその立場にたってしまうと、すべてが明るく見えてくるし、受ける側も迷わない。組織がこうで、あの人がああでなどということは第二、第三の問題で、すべて信心一本、御本尊様第一主義でいけば、すっきりする。こうなると、力も出る、余裕も出る、安定した自己を見出すこともできる。そして先輩の姿が、なるほどと、わかってくるのです。
2  座談会は幹部が一兵卒の働きをせよ。
 座談会については、戸田先生が出獄された昭和二十年ごろ、先生は、数少ないなかで、じゅんじゅんと納得のいくまで話してくださった。そのときの先生は、まるで一兵卒のごとき働きで、しかも、そのなかに如来の使いとしての厳然たるお姿があり、私たちは、そのなかに包まれて、安心して闘争したものである。
 座談会に人を呼びに駆け回るのも、しかられてではなく、喜び勇んで夢中で呼び歩いた。呼びに行く人の苦労を考えてごらんなさい。まず私たちが一兵卒になった自覚で、実践の姿をみせてやっていってほしい。そして、末端の人々には、学会精神の浸透を、謗法の人々には、邪宗の害毒をじゅんじゅんと説く、こうして根強い末端の組織をつくりあげてほしい。
3  数学をすべきときは今である。
 灯火親しむ秋でもあり、今後はみっちり数学をやろう。数学は信心を推進し、信心は数学を要求する。
 本部で、グループ制数学という大方針を打ち立てられたことは、まず数学戦線によって信心の復興をめざしていることを示している。幹部自身が、一歩一歩、着実に、数学によって信心の筋金を入れることである。
4  一丈の堀を越せ。
 『一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか』とあるが、一丈の堀は、個人でいえば生活である。支部でいえば組である。着実に一丈の堀を渡っていこう、また渡らせていこうと願おうではないか。
5  『宿習』の乱用はやめよ。
 最近、なんでも指導を受けにきた人に対して、わからぬ現象を『宿習』として片づける悪いクセがあるが、これは指導力不足のゆえであり、数学力不足であり、また不親切な指導である。商売の問題などで、指導しきれないで、ついに『宿習』でケリをつけるのは、まるで信心を利用した形である。指導するなら、真剣に、わからぬことは、はっきりわからぬといおう。偉ぶって知ったかぶって、世法的にやることは厳禁である。
6  罰論をふりまわすな。
 些細なことにまで、なんでも罰だと片づけることは少し乱暴ですね。最近は、こうしたことで、信心に恐怖感を感ずるところまでいっている人が、あちこちにある。これも指導の間違いから起こるもので、恐怖感をおこしては、信心がいやになるのはとうぜんで、詮ずるところ、指導は喜んで信心できるようにしてあげればいいのです。
 指導は単純化、あくまで単純化していこう。これが方程式で『あなた==』と細かく指摘することは、よろしくない。指摘する場合は、謗法の認識を相手にさせるほうが親切な指導で、指導する側が取捨よろしきをえて、慈悲を根幹に行うことである。相手の立場を考えてすれば無理がない。
 やはり、わかっている幹部がどんどん末端に出て実践してみせることが第一であろう。(当時、官房室長・文京支部長代理)

1
1