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組座談会のありかた 文京支部組長会

1956.8.27 「会長講演集」第4巻

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1  これからの座談会では、組長さんという存在が大事であります。学会で『末端、末端』といわれていますが、一国についてみても、国境線がいちばん大事です。国境線が弱くては国も敗れてしまいます。組長さんは謗法との接近度が大きいので、末端の長である組長さんの信心が弱ければ、謗法に負けてしまいます。花にたとえても、茎は幹部でしょうが、その先端である花の部分が咲きほこってこそ、その使命をまっとうできるので、末端というのは大事なものです。
 そういう意味で、今度の組座談会は、もっとも大事な会合であると思います。組座談会では大勢の人がきませんから、折伏、指導の徹底かできるわけです。指導も折伏もしきれなかった、いままでの形式的な会合では、その人が信心をまっとうできないのはあたりまえです。あくまでも、その人を救ってあげるのだ、わからせてあげるのだという慈悲を根幹にして、まごころと真剣さをもって指導にあたるときがきたと思います。
 あるときは、組座談会に幹事や地区部長が行くと思いますが、組長さんが中心なのはとうぜんです。組員がなかなか集まらなかったとか、新来者かりなかったとかいうことが、はじめあったとしても、行った幹部の人は、組長さんをどなりつけるようなことはやめていただきたい。あくまでも、組長さんが一本立ちになって堂々とやっていけるようになるまで、包容し、指導してやっていただきたい。
 具体的にいうなら『信心の目的』とか『座談会の目的』とか、そういうことは必要ありません。お茶でも飲むときのような気持ちでやっていい。きた人が目の色を変えて逃げだすような折伏が、確信のある折伏とはいえません。その人を助けてやるという目的を忘れてはならないと思うのです。
 もしも、体験を中心に理路整然と話しても、しかも、それでも、こちらに食ってかかるようなら、堂々と折伏するのはけっこうです、仏法は勝負ですから。ところが『帰れ、罰あたり』なんて、そういう事態になるのは、当人にも、連れてきた人にも、かわいそうです。わからないとき、相手にも『また、いらっしゃい』と、こられるようにしてやり、連れてきた人に、また話してあげるようにいってあげるというふうに、後始末が大切です。和気あいあいたる座談会で、すべての人が、きてよかったという会合にしてあげていただきたいのです。
 折伏についてですが、幹部の人は折伏をしなくてもいいような錯覚をおこす。組座談会こそは、幹部はもちろん、すべての人が個人折伏をしていこうとするところに、真実の組座談会の使命が達せられると思います。組座談会が主体であるということは、個人折伏を、ぜんぶの人が心がけることであり、こうした努力によってこそ、組座談会もうまくいき、戸田先生の御真意にそえると思います。折伏のない座談会はありません。組座談会へ、支部の団結の力を発揮していただきたいと思います。(当時、参謀室長・文京支部長代理)

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