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日蓮大聖人・池田大作

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大講堂落慶法要の感激 大講堂落慶大法要後

1958.3.2 「会長講演集」第3巻

前後
1  まず直感的に深く感じたことは、広宣流布が必ずできるということと、広宣流布が非常に近づいてきたという感じですね。
 きのう、日本の有数な名士が数十人きたけれども、学会員の純真な信心のほとばしり、日蓮正宗のゆるぎない伝統の姿をみて、この名士たちも、大きく、日蓮正宗に対し、創価学会に対して、認識をあらたにしたと、私は思いました。
 とくに猊下と会長先生とのあいだに目録贈呈、または賞状の授与、請書の受け渡し等の姿は、ほんとうに僧俗一体の厳粛そのものに感じました。猊下に尽くす会長先生のまごころ、御本尊様につかえる会長先生の信心の清らかさ、また御本尊様に照らされて、猊下より会長先生に対する全幅の信頼を寄せていらっしゃるあのお姿、この点に、とくに私は胸の底から自分自身のしあわせを感じたしだいです。
 広宣流布ということが、いままで非常に遠くのほうに、われわれは考えていたし、理想的に考えがちになっていたのです。それが、今度は事実のうえで広宣流布の第一歩に、お山のお姿ははいっておられると感じたのです。いままでの大折伏は建設期であったけれども、着々と会長先生は広宣流布への仕上げの手を、打ち始めていらっしゃるように感ずるのです。その証拠が奉安殿の建立であり、その実証が大講堂の建立にあったわけですから、正本堂をお造りなさるということも、うけたまわっております。
 それから、大客殿も建立なさるということも、もれうけたまわっておりますが、そうすれば広宣流布の儀式のお山の態勢はまったくでき上がったように推測しますゆえに、今度の大講堂の落慶というものが、広宣流布の実現に、もうはいってきたといっても過言でないような気がするのです。
 もうひとつは、本門の大講堂が実現したことによって、ここで大きく内外ともに日蓮正宗の教学、東洋仏法の真髄の哲学を、日蓮大聖人様の永遠不滅の大仏法をば、ぜんぶ認識しあい、それから、それが大きくクローズアップされて、流布されていくことは必然的な流れです。
 広宣流布に対する大きな拍車になっているから、広宣流布が近いということ、広宣流布にはいりつつあるといっても過言でないと思います。これは私の感想です。
 事実、渉外部の責任者として、だいたい、ほとんどの人と会いました。むかえるほうもまごころこめてむかえました。きた人は事実、いままでの先入観念を脱皮して、かつてないような感激に打たれたことと信じます。帰る場合もぜんぶ送りましたが、皆、喜んで帰りました。ただのおせじだけではないと思います。ひとつの、大きい、これからの日本を背負っていく仏法と、それから、日本の国を救っていく、東洋を救っていく、黎明のような、明るい感じをうけたのではないかと思います。
 はじめは、ずいぶん、政治家ばかりだから、純真ではない、政治性だけでみようと思った方々もいるかもしれないけれども、心の奥では、なんらかの大きい感激にうたれたのではないかと思います。自分自身も反省なさっただろうと思うのです。また、それをしないような名士であれば、ほんとうの名士とはいえない。
 あれだけの純真な青年の姿を見て、感激をしないような名士であり、指導者であったなら、指導者とはいえないと思うのです。『なにか暁の太陽を見るような気がして、うれしくてたまりません』という安井都知事のことばは、政治性だけではなく、真実の実感であると思います。(当時、参謀室長)

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