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人材は見つけるもの 男子部幹部会

1958.1.20 「会長講演集」第3巻

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1  生きていくということは、根本的な問題です。大聖人様は御書のなかに『ある生物は火を食べて生きている。ある生物は水を食べて生きている。ある生物は鉄を食ろうて生きている。われわれの言語音声を食べていく鬼神もある。そしていま、菩薩であり、三世の諸仏であり、また人間は、何を食ろうて命を養っていくか。これは南無妙法蓮華経を食べて、題目を唱えて生命力の源泉とする以外にない』というおことばがございます。
 いかなる活動をしようと、その根本は題目です。ことしは全青年部員が、去年にまして、仏になる根源たる題目を唱えていきたいと思うのです。
 信心は、観念でも理論でもなく、実行が第一であるということは、自分は、このように職業を開拓したい、勉強を一生懸命したいと、ある願いをたてたならば、全力をあげて生活のうえで実行することです。御本尊様にお願いしたから大丈夫だというのでは、信仰ではありえない。大きい宿命の転換はできない。今度は講師になろう、助教授になろうと、御本尊様にお願いしたから、一時間でも三十分でも時間をさいて努力していこう、そこにほんとうの結果が出てくるのではないかと思うのです。
 ことしは『観念的な信心の幹部』ではなく、信心とは実行なりと目覚し、『実行第一としていく信心の幹部』でありたいと思う。
 とくに諸君らの分隊員、班員に対する指導の大事な点は、隊長なり班長なりが、あまり確信が強いので、自分が御本尊様になってしまう場合があるのです。これは危険です。あくまでも御本尊様を指さして御本尊様の功力を賛嘆し、御本尊様が信仰の対象であるという、御本尊様第一義の指導をしなければならない。
 幹部が『自分についてこい』という姿は、自分の確信としてはよろしいでしょう。しかし、自分が御本尊様ではない。御本尊様と直結させていくことを忘れないでいくならば、どこまでいっても指導は限りがない、つきない。自分も疲れないし、苦しまない。御本尊様一本の指導でいこうではございませんか。
 次に申し上げたいことは、ことしは、とくに人材を見つけていたきだたい。人材は育てていくものではない。見つけだしていくものです。人材を育てていくほどのりっぱな人材は、まあいるかいないかわからないが、自分自身に聞いてみればわかります。あくまでも見つけてから育てるのです。だんだん育てていって、よくなっていくという考えではない。
 分隊長、分隊員のなかに、非常にいい人材がおります。若い経験のない班長にしかられて、いささか倦怠ぎみになっている分隊員の大学生等、優秀な人材を見つけだしたこともあります。したがって、自分より優秀な人材を捜し出していく、そして育てていこうという、謙虚な気持ちをもっていただきたいと思います。
 指導者になると、横着になってくる。ひとこと、隊長は班長にいえば、班長は分隊長にいえばいいのだというのでは、命令主義です。指導主義ではないのです。自分はもったいなくも如来の使いとして、若き地涌の菩薩の先覚者として、大勢の人を指導していくべきもったいない境遇にあるのだ、部隊員よりも何十倍も何百倍も、より以上おつかえ申し上げなければならないという自覚に立って、この一年闘争していきたいと思うのです。
 横着な幹部は、その班、その際をくずしていきます。というのは、あくまでも御本尊様の大事な仏子に、功徳を妨げ、学会精神、会長先生の御意思をきちっと通じさせていかない魔の存在になるのです。そういう幹部は、学会の前進をはばんでいく悪者です。願わくは、そういう幹部にならぬよう。
 会長先生の言々句々は、ぜんぶ実現されております。不思議にも会長就任七年目をむかえて七十五万世帯も実現されたのですから、国士十万の会長先生の予言も、まさしく本年度実現されなければならないと私は信じます。
 『青年部を語らずして創価学会は語れない』と、ある雑誌に出ておりましたが、私も、とうぜん、そうであると思っています。どうか、ことし一年間、男子部長を中心として、たゆまざる信仰をして、なんらかの境地をば開き、なんらかの自分自身の力をば養っていただきたい。(当時、参謀室長)

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