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青年と教学 第1回男子部総会

1953.4.19 「会長講演集」第3巻

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1  いままでも、たびたび、教学のことについては、申してまいりましたが、『青年と教学』と題して、総括的に所感を述べることにいたします。
 まず一般学問と生命哲学について思索してみますに、一般学問の発生は『生きる』『生活すること』ということより出発しております。古をふりかえるに、さまざまな生活活動のなかに、たとえば病気のときはこうすればよいとか、生活の向上にはこうすべしとか、天文の変化によって生活を推察するとか等々、原始時代の古老、先輩等は、成文でなく、口伝をもって後輩に教えてきたのであります。そして、それらが分業化し、体系化して現在の学問、つまり医学とか、経済学とか、科学とか、天文学に一貫されてきたのであります。
 されど、これらすべての学問の根本は、宗教的崇拝思想より流れたものであります。これらの学問は、生きるためへの必然的な法則であり、その源泉は生命学であり、生命哲学であることは、絶対的事実なのであります。
 次に、その根本たる生命哲学を基盤とせる世界の潮流を考えてみることにいたします。
 生命哲学の見解は、大別して、現在は人および精神を基準にして出発した哲学、つまり唯心主義があり、また肉体および物体を基盤とした哲学、いわゆる唯物主義があり、および個人と全体との関係により出発した道徳哲学等があります。
 しかし、これらは、誤れる哲学観であって、末法御本仏・日蓮大聖人様のたてられた御義口伝にいわく『帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智にもとずくなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり』とおおせの大哲学こそ絶対無二の全衆生を救出する大原理なのであります。
 また、ここで、われら青年が考えなくてはならぬことは、古今を通じて、すべての学問の中心たる哲学を打ち立てた人は、必ず、ひとりより発生しているとい事実であります。
 たとえば、キリストの哲学はキリストひとりより出発し、またソクラテスの哲学はソクラテスひとりより出発し、儒教の哲学は孔子ひとりより打ち立てられ、共産哲学はマルクスによって説かれてきております。
 またインドの釈迦も、深遠なる仏法哲学をひとりによって打ち立て、そして末法万年、尽未来際まで、大慈悲をもって救出くださる生命哲学も、日蓮大聖人様おひとりによって打ち立てられたのであります。しかして、師匠より弟子が、社会のためにその哲学を実践し、流布してきたのであります。
 そしてまた、不思議なることは、弟子は必ず師匠と、親と子のあいだのごとく約二十数歳の年齢の相違をもっており、また、その哲学を弟子が受け継いで勇敢に戦ってきている。キリストは弟子一二人の使徒に、孔子は顔回等に、ソクラテスはプラトンに、マルクスはレーニンに、そして日蓮大聖人様は日興上人様に……、いま、われわれ青年は、師匠戸田先生より大哲学の教学を受け継ぐ重大任務あることを忘れてはなりません。
 考えまするに、世界のあらゆる実践の裏づけは、哲学であり、思想であります。
 現在は仏の予言のごとく、末法五濁の現証は、哲学の低級性により科学を指導できず、思想の混迷により不幸な世相を現出しているのであります。われらの戦いは、ひとつに、誤れる哲学との闘争であり、間違った思想との戦いであります。
 そこで大聖人様、開目抄にいわく『種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』との、絶対に永劫に破れざる大真理、大哲学、根本思想の仏勅を護持して、聖鐘を打ち鳴らすの進軍であります。
 教学なき戦いは感情であり、無意味であり、末法本因妙の哲学の真髄たる教学を学ぶことによってのみ、ひとりひとりが真の人生観、宇宙観を生み出すことができるのであります。
 戸田先生が私たちに『勉強せぬものは、わが弟子でない』といわれる意味を、しみじみ感じます。青年訓にも『行学に励み、御書を心肝にそめ大聖人の仏法に通達して迷いなく、今はいかなる時かを凝視して』うんぬんと申されております。
 世界のだれびとも、いまだ知らざる甚深悠遠にして、大慈悲にあふるる世界最高の哲学を学ぶことに、歓喜と、燃え上がる向学心をもたねばならぬと思います。
 最後に、具体的な問題としては、われわれは大聖人様が一切経を三度読破されたようなことは必要なく、戸田先生の御一生涯の血の体験を繰り返すことも必要なく、ひたすら大聖人様の仏法を学び、仏勅をこうむりし戸田先生の申されるままを教学していけばよいのであります。
 それには、折伏教典をそらんずるごとく、御書、大白蓮華、聖教新聞等を、くまなく勉学することであります。そして暇あらば、いつでも、先輩、先生方に教えを受ける熱心さと自覚とをもつべきであります。それが折伏の源泉となり、信心を増す一歩となるのであります。『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず』とおおせのごとく、あくまでも信心が根本であります。教学は信心の肥料であります。
 日本民族および世界民衆を指導することは、ひとえにわれら青年部の双肩にあり、そして、それらを指導する指導原理、つまり日蓮大聖人様の仏法を、いまのうちに勉強せずんば、いつの日にかできるであろうか。
 青年部諸君! 現在までの日本国の指導者は『ああ玉杯』の一高の秀才等で牛耳られていたのであります。いま、ここにつらなる諸君は、天下の大秀才であります。
 しかし、今後の世界を指導する教学と確信とに立たねばなりません。(当時、青年部教育参謀、男子第一部隊長)

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