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日蓮大聖人・池田大作

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第1回男子部東北総会 猶多怨嫉

1961.7.9 「会長講演集」第2巻

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1  本日は、たいへんにりっぱなる総会、まことにおめでとうございました。
 『如来の現在すら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや』(法華経法師品第十)という経文が、御書を拝読いたしますればたくさんございます。如来の現在とは釈迦在世であります。三十二相を帯びた釈迦の時代であっても怨嫉があった。況んや釈迦滅後、末法においては怨嫉があることはとうぜんであるという釈尊の予言の経文であります。
 創価学会では、仏壇を焼けとか、位ハイを焼けという指導は、ただのいっぺんもしたことがありません。しかし、現在まで、新聞にも、それから、指導階層にも、まるで創価学会が仏壇や位ハイを焼かせて、もっとも悪い暴力の宗教のようにされきってしまっております。すなわち小さい事件があっても、あれは創価学会員であると大きく宣伝されてきております。
 自動車にちょっとひかれた、創価学会員が折伏の帰りにひかれたというようなぐあいに怨嫉をされてきております。また、されております。他の人がなにか事件を起こして、世間の人や、また新聞に、あの人は念仏である、共産主義者である、社会党員である、または立正佼成会の信者であるというような報道は、ただのいっぺんもありません。それほど不思議な世の中であります。ということは、釈尊の予言どおり、私ども日蓮正宗の大聖人様の弟子だけが、真実に末法において仏の金言を、まっしぐらに実践し、猶多怨嫉である経文をば、身をもって読んでいる、たった一つの大宗教であるという証拠を立てていると、私は思うのであります。したがって、いろいろと悪意をもち、無認識のうえに、それから、ヤキモチをやいて、このように大御本尊様の絶対の力には、批判するわけにもいかない。また創価学会の統制のされきったこの姿には批判する余地もない。なにかで批判しようと思っている大勢の人々がいると思いますが、私どもは、柔和忍辱の衣を着て、仏の使いとして、真実に人々を幸福に、社会を平和にするために、一対一の闘争をもって、不幸の人々を、また無認識の人々を完全にしあわせに、認識をさせるために戦っていこうではありませんか。
 恩師戸田城聖先生は、私ども青年部にたいして、弟子にたいして、つねづね申されたことばのなかに『後生恐るべし』というおことばを賜っております。先生にたいして、弟子の立場を後生というのです。これは仏法以外の中国における哲学思想のなかにあることばでありますが、戸田先生は『自分は愚かである。しかし後生、弟子は偉くなっていかねばならぬ。師匠が偉いと言われることは、後生すなわち弟子が偉くなったことが師匠が偉くなったことに通ずるのである。』との先生のお話であります。戸田先生のような偉大なる大師匠であられても、師弟不二の原理をば私ども弟子、青年にたいして、このように激励をくださっておりました。
 いわく私は、愚かのなかの愚か者であります。ただ願うことは、後輩である諸君が、私の何十倍、何百倍の力を出して、社会の、世界の指導者になって、そして学会を守り、大仏法を守り、世界の指導者に育っていただきたいことだけを、私は祈るものであります。
 像法年間における天台大師の戒壇は坊さんの戒壇場であったのである。往々にして末法以前の仏法は貴族仏法といって上流階級だけを指導していく仏法でありました。今、大聖人様の仏法は、本門の戒壇、坊さんだけのものではなくして、いっさいの民衆、偉い人も、位の低い人も、平等にしあわせになり、そして、いずれの国も、いずれの民族も、平等に、永遠に平和を築くことのできる仏法であり、戒壇建立を目ざしていくのが、私ども創価学会の使命なのであります。
 この大聖人様の仏法を根本として、あと、いかなる思想、主義主張をもっても民族の幸福、世界の永遠の平和を樹立することができないことはとうぜんであります。
 願わくは、かの大東亜戦争のあの無謀なるいくさをなした人も、結末をとっていった人も、ぜんぶ、大半が東北より出た指導者でありました。その悪雲は去って、おおいなる真実の広宣流布の黎明の幕が切って落とされ、広宣流布の最後の仕上げは、大東亜戦争は地獄の世界でありましたが、次の世紀の広宣流布の世界は仏の世界、すなわち仏国土を建設する最後の仕上げは、きょう集まった東北健児によって仕上げをしていただきたいと、私は念願します。
 最後に、世間の人は往々にして枝葉のことで学会を批判し、また論じてくるようなことがあると思いますが、あるりっぱな人が、先日も『大聖人様の大精神は、立正安国論、守護国家論、その他御書に歴然とおしたためである。世の中の人は学会を誹謗するために枝葉のことや一般の言うようなことを中心にして取り上げて、いろいろと批判をしているけれども、それはおおいなる間違いである。大聖人様の御書を根本とし、即それが創価学会の精神であるならば、その大聖人様の御書を根本として、創価学会を見るべきである』と言って、入信をした人がおります。
 皆さん方も『信心第一』に、そして大聖人様の御書を心肝に染めて、学会内においても、学会以外においても、間違いのない、りっぱな指導、また指導者となって、大勢の人々を指導しきっていただきたいと思います。
 東北健児の今後の御健闘と御健康とを心からお祈り申し上げて、私のあいさつとします。

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