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日蓮大聖人・池田大作

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第1回女子部中国総会 大御本尊様を抱きしあて

1961.7.2 「会長講演集」第2巻

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1  本日は、たいへんりっぱな総会、まことにおめでとうございました。
 私どもの信心修行するただ一つの目的は、三大秘法の大御本尊様に題目を唱え、そして不幸の人に大御本尊様に大功徳あることを教えてあげる。これだけが私どもの修行であり、信心です。
 したがって、あとのことはぜんぶ枝葉のことばです。今、長い話を私がし、また先生方がしたからといって、べつに功徳はないのです。皆さん方が、ここまで、この会場まで、汗水たらして、和合僧の結集のなかへ、自分もはせ参じていこうというところに、私は、信心があり、功徳があり、修行があると確信するのであります。
 日蓮大聖人様の仏法の極理は『受持即観心』御本尊様を一生涯放さない、これが信心であるという結論なのです。なにか事件があった、人から批判された、では御本尊様を放そう、そういう心のある人は、信心がないというのです。どんなことがあっても御本尊様を放さない。一生涯抱きしめていく。これが大聖人様の信心の極致なのです。
 したがって、日蓮正宗が偉大であるがゆえに創価学会が偉大である。創価学会が偉大であるから御本尊様が偉大であるというのではないのです。あくまでも、大聖人様の出世の御本懐として、末法の衆生を永遠にお救いくださるただ一つの原理、大御本尊様が絶対であり、偉大であるがゆえに、創価学会が偉大であり、日蓮正宗が偉大なる教団であると、私は思うのです。
 この大御本尊様をたもつ皆さん方が仏なのです。偉大なる人生なのです。したがって、大御本尊様をたもったわれわれの行動は、勤行することも、おしきみをあげることも、日常の生活も、講義に行くのも、講義を聞きにくるのも、総会で話すことも、総会に出席することも、いっさいの活動が、いっさいの私どもの日常の瞬間瞬間の活動が、御本尊様を根本とするならば、ぜんぶ功徳になり、利益となるし、また功徳とし、利益に変えていける信心をするのが私どもの信心でなくてはならないと、私は思うのです。
 人のための信心でもない。創価学会のための信心でもなければ、日蓮正宗のための信心でもないのです。
 かつて昭和二十六年、恩師戸田先生が会長に就任をなされた時に、さほど大勢の女子部員ではありませんでしたが、何人かの女子部員の姿を、十年間、私は見ております。
 ある人はまじめに十年間、信心を貫きとおして、偉大なる幸福なる生活を勝ち取りきっている人もいます。また、途中で批判に負けて、虚栄や誘惑に負けて、ずいぶん落後して、今になって悔やんで、もう一回立ち上がっている人も見ております。
 また、当時、まだまだ学会が小さいゆえに、小バカにして、ふまじめな姿で、勉強なんかも、先生が『一生懸命やりなさいよ』と、愛情こめてひとりひとりに御指導があったにもかかわらず、先生の言うとおりやらないで、今になってみじめな結婚生活や、そうして、やはり反省し、猛省して信心をもう一回やり直そうとして、悔やんでいるひとも知っております。
 『十年間』という年限は、短いようであり長く、長いようであり、どれほどか人生の歩みを、ひとりひとりの勝敗を、大きく変えていくものであるかなと、つくづく私は痛感しております。
 きょう集まった皆さん方は、十年先を目ざして、十年先において、結婚なさる人もいるでしょう。子供をおつくりになる人もいるでしょう。
 また、夫が死んでいく宿命の人があるかもしれません。自分自身が、今は健康であっても、病気に、病魔におそわれる人もあるかもしれません。一寸先はヤミですから。
 なんでもいいから、大御本尊様を抱きしめて、十年先に自分自身がどうなったかということを、大きく宣揚してみようという確信をもって、第一歩を進んでいただきたいと、私は思うのです。皆さん方の、十年先を目ざしての御健闘と御健康とを祈って私の話といたします。御苦労さまでした。

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