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日蓮大聖人・池田大作

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学生部第4回総会 『語学』で世界に友を

1961.6.20 「会長講演集」第2巻

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1  本日は、たいへんにおめでとうございました。
 いままで、さまざまな革命がなされていまりました。その革命は、一部の階層によってなされてきておったのが歴史の示すところです。ある革命は労働者だけでなされた。また、ある場合の革命は、軍部だけでなされた。また、ある革命は、ある階層の学閥によってなされた。
 その革命の方法、理念のいかんということは別問題として、今、私どもがなさんとする宗教革命即広宣流布という大目的に立った場合には、一部の階層でなすべきものではないのです。あらゆる階層を動員して、そして平和のうちに、無血の革命をもって、最高の文化を築き上げるのが、私どもがなさんとする広宣流布の実体であるわけであります。
 私は、私自身、おろかであり、力がないことも知っております。そこで、私にはできないこと、また、理事にもできないことが、あるかもしれません。これからの広宣流布という大構想の活動、活躍分野において、その場合に、皆さん方に、いろいろとこれからも働いていただきたいし、活動もしていただきたいのです。
 そのひとつの例として申し上げることは、皆さん方は、今、学校で『語学』を勉強しております。私どもは外国人と会っても、なかなか話ができません。本部へも、ずいぶん外国人がまいります。アメリカ人と会う場合には『じつは私はドイツ語ばかり勉強したもので、英語はわからない』といっているうちに、今度はドイツ人がやってくるというようなわけで、仏法のことは絶対にウソはつきませんが、少しぐらいは、そういう場合にはユーモアをもちますから、ウソはつきます。
 それで、ドイツ人がきたら、今度は『フランス語は勉強したけれどもドイツ語のほうはわからない』と。ところが、今度は十月にフランスへ行くわけですので、どうしようか、またウソがバレてしまうと。しかたがないからヤセがまんして『私は日本男子だ!』と『日本語で話そう』と、こういうふうに私の人生観を決めたわけなのです。
 きのうも、遅くまで青年部長や学生部長、学生部副部長と、さまざまな懇談をしておった。あまりにおなかがすいて、渡部君(学生部長)や篠原君(副部長)が、しめっぽい元気のない格好をしているので、私が『もう少しユーモアな、ウエットな話をしたらどうか』というと、篠原君が『会長、ウエットというのは、しめっぽいということで、ウイットではありませんか』『そうそう』と。
 このまえも『バランス』というのを反対に『アンバランス』と言って、えらくおこられてしまった。神尾先生なども、非常に英語がじょうずで『すごいコンデンション』などと言ったら『いや、コンディションです』などと。そういうわけで、格好がつきはしませんよ。
 そこで、諸君にどうしても願いたいことは、これから全世界に日蓮大聖人様の仏法が、大哲学が流布されていくことは自然の流れです。そのときに、外人の方々、世界の人々に、初めからいちいち折伏する必要はありません。これからは、たくさん、皆さん方の語学力をもって大勢の世界の友だちをつくって、交際していっていただきたい。友人をたくさんつくることが、すなわち広宣流布に通じ、折伏に通じ、わが創価学会を認識させていく直道であると、私は思うのです。
 この点は、私にはできませんので、きょうの総会をかりて、皆さん方にお願いしておきます。だから外国人の方は、皆さん方が責任をもつのですよ。いいですね。
 ですから私は日本語でいきます。世界はもう、ずーっと回っていて、ウソはつけませんから、しようがないから『火星語は知っている』と、こういうふうに言おうと思うのです。
 次に申し上げたいことは、大聖人様の開目抄のおことばに、有名なる『種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし』というおことばがあります。
 大聖人様以上の大聖人が現われ、大御本尊様以上の力のある仏法が出たならば、それは信じてもよろしい。だが、大聖人様の仏法以外に、低い哲学であり、思想であった場合には、絶対に用いてはならない。その大聖人様の大哲学が、だれかに破られるか破られないか、これが大聖人様にとっても大難である。佐渡へ流された、または俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢というような三障四魔、三類の強敵は風の前の塵だというおことばなのです。
 その次に『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』でとめていらっしゃるのです。
 大聖人様の、末法の御本仏であるという、人本尊のおことばでありますが、最後は『ちかいし願』この大聖人様の大仏法は『やぶるべからず』絶対に、永久に破ることのできない大仏法であるとの結論なのです。仏さま御自身がおおせですから、もう間違いないのです。事実、七百年の会田、それ以上の哲学はありません。どこを検討してもありません。
 その御文にたいして、日寛上人様は『ひとたび此の文を拝すれば涙数々降る。後代の弟子等心腑に染めよ』とおおせになっていらっしゃいます。
 今、諸君に、しいて申し上げることは、日蓮正宗だけが末法の御本仏日蓮大聖人様の大仏法を受け継いだ、御相伝を受けた正統学派なのです。福運あって私どもはこの御本尊様を奉持することができました。どんなに研究していっても、なかなか到達できないのです。高山樗牛でも、宮沢賢治、姉崎嘲風でも、山川智応でもできなかったのを、私どもは、かんたんに奉持することができました。
 そこで、生意気に批判するまえに、愚痴をこぼすまえに、大聖哲、日蓮大聖人様のおおせどおりに、ひれふして、この大御本尊様だけには、一年間でも二年間でもいい、真剣に、勇敢に大御本尊様と取っ組んでごらんなさい。また、真剣にまじめに大聖人様の仏法を研究しきっていただきたい。このように私は切望するものであります。
 そして、自分のこの体で受けて、大仏法の偉大さを、また大聖人様の大哲学を、この生命で体験し、他のいっさい哲学、思想と相対していただきたいと、このように念願申し上げまして、諸君のいよいよの御健闘とご健康を祈って私の話といたします。
 御苦労さまでした。

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