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福山支部結成大会 功徳と罰

1961.4.24 「会長講演集」第2巻

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1  福山の同志の皆さん、たいへんにしばらくでございました。また本日は新支部の結成、まことにおめでとうございます。
 私どもは、なぜ信心するか。申すまでもなく、それは、仏になるためです。永遠の幸福をつかみきっていくために信心をいたします。その証拠として、この世で物心ともに、こんなにも自分はしあわせか、こんなにも家庭が明るいという、家庭革命、人間革命をしきるために信心をいたします。いま、お金もたくさんある。健康である。なにも不幸はないという人があるならば、別に信心をすすめる必要もないかもしれません。だが、世の中を見た場合に、どれほど不幸の人が多いか。私も不幸でありました。大幹部の皆さん方の先輩も、みんな不幸でありました。また、今、申し上げましたように、自分はしあわせであると言いきっている人があったとしても、あすはしあわせであるかどうか、あさってはしあわせであるかどうか、人間は一寸先はヤミです。
 そのように、現実に幸不幸ということを考えた時に、仏さまからみるならば、三世をお知りあそばされている大聖人様の御目からみるならば、地球上にいる全人類は、ぜんぶ不幸であると私は思うのであります。
 したがって、だれびとたりとも、一生涯、安心しきり、どの国の人であっても、絶対に幸福に生活をしたいと思うならば、だれびとたりとも三大秘法の大御本尊様を受持しなければ、私は幸福になれないと絶叫するのであります。
 今、私どもは、大御本尊様を日夜拝しております。大御本尊様をじっと拝してごらんなさい。大御本尊様のなかに『若し悩乱せん者は頭破作七分』その反対に『供養せん者は福十号に過ぐ』御本尊様にたいして、純真に信心していくものは、仏さまのおもちあそばされている十の福運以上の福運をいただくことができるとおしたためであります。その反対に、御本尊様を誹謗していくならば、御本尊様を拝んでいる者、創価学会員を誹謗した者は、頭破作七分、必ず大罰を受けて、地獄に落つるとおしたためなのでございます。
 したがって、皆さんが仏になることはとうぜんであります。しあわせになることは絶対であります。なんでもいいから、学会員として三年、七年、十年、二十年と信心していってごらんなさい。振り返ってみれば『こんなにも、しあわせになったか』と、自分ながら不思議になる境涯を会得できます。私どもがその証拠です。
 その反対に、皆さん方が貧乏のドン底から信心して、不幸の人々を救ってあげようと、仏さまのお使いとして、日夜折伏をだれからもほめられず、一銭の金ももらわず、その人のために折伏しきっていく。その反対に、あらゆる悪口雑言をされ、バカにされ、そういうことは、たくさんあったと思いますけれども、皆さん方をバカにした人は、皆さん方を軽べつし、批判した者は、信心をしている者であっても、信心をしていない者であっても、だれびとであっても、大罰を受けるのでありますから、私は勇敢に仏道修行に進みきっていただきたいと思います。
 大聖人様のおことばを拝しますと『功徳の「功」とは、さいわいということなり、または悪を滅するということなり。「徳」とは、善を生ずることなり、すなわち功徳とは即身成仏なり、六根清浄なり』(御書762㌻、通解)というおことばがあります。
 功徳の『功』とは悪を滅する。『徳』とは善を生ずる。非常に深いおことばのように拝します。今、私どもの信心は、魔と仏との闘争です。自分自身のなかの不幸をつくっていく第六天の魔王と、最高のしあわせの生活をしきっていける源泉の仏の命を出すこととの闘争です。また、いっさいの人々を不幸にせしむる邪宗教との闘争です。したがって、題目をあげることによって、魔との闘争をして、悪を滅して功徳がでてくる。善が生ずる。すなわち仏の命が湧現する。と同じく邪宗教を撲滅する、折伏をする、悪を滅するという行為によって善を生ずる、功徳が湧いてくるとの大聖人様のおおせの方程式どおりに、大功徳に浴するために、おのおのの境遇で、題目をしっかりあげ、また、自分自身のために、折伏行に励んで『私は日本一の幸福者である』と、胸を張って、この人生を生ききっていただきたいと思います。
 また最後に、どうか、たびたび福山の地にはおじゃますることはできませんが、楽しく信心されんことを、重ねてお願い申し上げまして失礼申し上げます。御健闘を祈ります。

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