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日蓮大聖人・池田大作

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桐生支部結成大会 怨嫉謗法

1961.4.20 「会長講演集」第2巻

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1  本日は、支部結成たいへんにおめでとうございました。いままで、原島先生はじめ、多くの大幹部の先生方からお話がありました。それをよく胸に刻んで、実践して、幸福になっていただきたいということを、私は、お話申し上げます。
 それはあくまでも『信心をまっとうしきる』ということが大事であると思います。仏道修行を最後までまっとうしきる、人間革命を、宿命転換を、大御本尊様を抱きしめて、こんなにも自分の生活が、自分自身はしあわせであると、心の奥底からだれびとにも言いきれるまで、信心をまっとうしきっていただきたいと私は思います。
 大御本尊様に題目をあげれば、必ず仏になります。功徳が湧きます。いっさいが『因果の理法』であります。いっさいが科学の方程式です。大御本尊様に反対すれば、反対した結果がでるのはとうぜんであります。信心している人を批判すれば、罰がでるのはとうぜんである。不幸の人を御本尊様のお使いとして救っていけば、しあわせになることも、自分自身が救われることも、とうぜんの理法であると私は思います。
 いま、私どもは、日蓮大聖人様の御金言を拝しまして、大聖人様は、ただ一つ、この三大秘法の大御本尊様に、南無したてまつれば、題目をあげれば、だれびとたりとも仏になれるとおおせです。だれびとたりとも絶対の幸福を獲得できるというおことばです。
 会長であろうが、御僧侶であろうが、組員であろうが、または参議院議員であろうが、女中さんであろうが、工員であろうが、こじきあろうが、ひとたび大御本尊様に題目をあげれば、せんぶの人が仏になるのが大聖人様の仏法なのであります。これほど偉大な仏法はないのです。ただし大聖人様は、大御本尊様をたもっても、こういう人は功徳がない、こういう人は地獄へ落ちるとおおせです。そのおことばは、有名な松野殿御返事(御書全集一三八二㌻)という御抄にあるのです。
 その条件としては、とくに末法今時においては、四つの問題があるのです。一つは、軽善謗法といって大御本尊様を拝んでいる者を、バカにした場合には、功徳が消えるのです。またもう一つは、恨善謗法といって、大御本尊様を拝んでいる者を恨む人は功徳が消えるのです。また憎善謗法といって、大御本尊様を拝んでいる人を憎んだ場合は功徳が消えるのです。また嫉善謗法といって、大御本尊様を拝んでいる純真な人にたいして、なにもいうことをきかない、すなわち怨嫉をした場合には功徳が消えるのです。この四つだけが、私どもの功徳を消す、もっとも悪い条件になるのです。
 りっぱなテレビ、ラジオを買っても、ダイヤルの回し方を間違ってしまえば、スイッチをひねっても、テレビも見えませんし、またラジオも清らかな音響では聞こえてこない。それと同じように、この四つの謗法だけは、大聖人様は『よくよくいましめなさい。もしかそんなことをして、あとで日蓮を恨むなよ。地獄に落ちて恨むのではないぞ』と、きびしく申されております。そういうような心がひょっとでたならば、強い強い信力をいだし、行力をいだして、題目をあげて、人間革命をしきっていただきたいと私は思う。
 そして、私どもは大御本尊様に照らされ、日達上人猊下のもとに、すべて平等であります。法華経にも『当に起こって遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし』(法華経勧発品第二十八)信心をしあっている者にたいしては、仏のような気持ちで、尊敬しあって、付き合っていきなさいという戒めがございます。
 私は会長だからといって、一組員の人をバカにしたならば、罰を受けるのです。支部長だからといって、婦人部の人を女中のように思えば、罰を受けるのです。真の指導者ではないのです。学会は他の団体や教団みたいに、そんな形式的な悪らつな、冷酷な組織ではございません。あくまでも法のもとに平等である。和合僧の慈悲のつながり、信心のつながりが、創価学会の組織であると私は叫んでおきます。
 願わくは、一家族のような気持ちになって、知らない人が知った人にたいしては、尊敬して教えを受け、知った人は知らない人に、にいさんのような、ねえさんのような気持ちで暖かく親切に、知らない人を包容しつつ、教えていくという清らな、そして尊い、美しい和合僧の姿で、わが桐生支部も堂々と一生成仏のためにがんばっていただきたいと思います。

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