Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

熊谷支部結成大会 生命力の湧現

1961.4.19 「会長講演集」第2巻

前後
1  本日は支部結成まことにおめでとうございました。
 私どもは幸福になりたいのです。幸福に暮らしていきたいのです。人生の目的は、これだけです。ではどうしたならば幸福になるかということをつくと、これまた、めんどうなのです。
 今、私どもは、結論だけ先に申し上げているのです。日蓮大聖人様が遺されたこの御本尊様を拝みきっていけば、信じきっていけば、必ず幸福になると叫ぶのです。事実、私どもも幸福になっております。
 同じような、たくさんの宗教があります。本尊があります。立正佼正会には庭野日敬の書いた本尊、また、身延や霊友会が、大聖人様と同じような恰好に見せた魔の本尊もたんさんあります。知らずに、そういう本尊を拝んで、幸福になろうとまじめに修行している人々は、ほんとうに不幸であると思います。ふしあわせであるなと、私どもは哀れに感じます。
 今、日蓮大聖人様の遺された御本尊様は、八万法蔵の、全仏法の究極の本尊であると、大聖人様はおおせです。また、日寛上人様は『今、日蓮大聖人様の遺された弘安二年十月十二日の私どもの信じまいらせている御本尊様は、究竟中の究竟、本懐中の本懐、全仏法の究極の御本尊様である。この御本尊様を拝めば、だれびとも仏になれる、功徳がある』と申されております。
 その功徳がある、仏になるという哲学、経典、理論にたいしては、これはまた、たくさんの裏づけがありますが、これはあとでもけっこうです。事実、私どもが、今、拝んでいる御本尊様によって、実践しきって、幸福になりきっていけば、私は、それが絶対の勝利であり、証拠であると思うのです。
 その反対に、邪宗教の人々の生活が今後どういうふうになるかということを、じっと見ていればわかります。反対に、私たちは、一日一日、月々しあわせになっていきます。一年間、三年間、十年間、今、一生涯という年限において、どっちがしあわせになるか、この証拠をもって論じていくならば、その正邪、善悪というものは、おのずから明らかになりますから、絶対の確信をもって、汝自身の宿命の転換のために、絶対の幸福の確立のために、私は、まじめな真剣な仏道修行をされることを切望うるものであります。
 創価学会のために信心するものでもありません。日蓮正宗のために信心するのでもありません。皆さん方が、こんなにしあわせになったと、だれびとにも、大手を振って言いきれるひとりひとりになっていただくことだけを、私は祈るものであります。
 十里の道を、生命力の強い人は、悠々と歩んで行きます。桜の花を見、または桃の花を見、途中でおいしいおにぎりを食べ、楽しみきって、十里の道をピクニックできます。反対に生命力の弱い人は、同じ人生であり、同じ十里という距離であっても、汗をたらし、疲れきって、あたりの風景なんかは、なんら眼中にはいらず、苦しみきって、やっとの思いで、十里の道を歩んで行きます。
 今、大聖人様は、私どもの人生の目的は、この地球上において、この娑婆世界に、楽しみきって生きていくために生まれてきたのである。その原動力は、この御本尊様を拝め、そうすれば、だれびとたりとも最高の人生にあって、生活にあって、生命力が湧現していく。こんこんと湧きいずる生命力が、清らかであり力強い。どんな時代でも、どんな境遇をも支配していく生命力が湧現するのである。その生命力によって、楽しい人生まが生きていきけとおおせであります。
 まず、皆さん方は、大功徳を受ける源泉さして、題目をしっかりあげきって、だれが笑おうが、批判しようが、だれも幸福にしてくれません。御本尊様だけです。その御本尊様に、大聖人様のおおせどおり、題目を唱え、唱えきって、偉大なる生命力を発揮しきって、悠々と、そして楽しい一家、事業、人生を生ききっていただきたいことを念願申し上げまして、私の話といたします。
 どうか、今後、支部長を中心にして、壮年も婦人も男子部も女子部も、一家の家族のような仲のいい支部になっていただいて、御本尊様に照らされて、だれが見ても、ああ楽しい学会である。楽しそうな支部である。ほんとうにうらやましい会合であると、賛嘆されきっていけるような支部になられんことを、重ねて切望して失礼いたします。おめでとうございました。

1
1