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日蓮大聖人・池田大作

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仙北・石巻支部結成大会 常識ある言動で

1961.2.19 「会長講演集」第2巻

前後
1  たいへんにしばらくでございました。恩師戸田先生がおられましたならば、きょうの仙台方面の、この学会人の力強い結集と、折伏精神をごらんになられて、どれほどが喜んでくださると、私はずーっと考えておったのでございます。
 私どもが、信心をしているということは、あくまでも、信心即生活のためであります。観念論でもなければ、精神修養でもございません。大御本尊様に南無し奉り、自分自身のこの生命のなかにある、仏の生命を湧現して、自分自身の生活のうえに、どれだけの力強い生命力と、どれだけの物心ともの大功徳を湧現して、幸福生活をするかしないかというところに信心があると、私は思うのでございます。
 日蓮大聖人様は『一切の法は皆是れ仏法なり』とお説きあそばされております。『みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ』ともおおせでございます。であるならば、私どもの行動は、あくまでも、社会人とし、人間として、第三者の人々が、大衆、民衆それ自体が納得をしていかねばなりません。
 納得をさせる方法においては、一対一の折伏、また、座談会において破折、または指導、教学、いろいろな方法がありますが、もう一つ大事なことは、身をもって、功徳をもって、行動をもって納得せしめる、教えていかなければならないと、私は思うのでございます。
 したがって、私どもは『常識』というのが大事になると思います。非常識な行動は、あいならんと思うのです。信心をしているのだから、どんな行動をしてもかまわない。信心をしている。思いあがった行動をしている。うんと中傷され、批判されるということは法を下げる場合があります。
 正々堂々と、大聖人様のおおせを実践し、悪口罵詈され、批判、誹謗されることはとうぜんでありますが、そうでなくして、わざわざ批判をさせていくような場合もあるのです。それは禁物であります。
 たとえていえば、この方面ではないと思いますが、神社の前や、お寺の前へ言った場合には、必ず右腕を出して、親指を向うにむけて神社、寺院の方へ向けて『邪宗!』と言って通らなければ信心が強くないと。では、それをしない人間は信心が弱いのか。第三者が見た場合に、ああ、創価学会はああいうようにしなければ、創価学会の信心は、日蓮正宗の信心はやっていけないのかなと、ちょっと不思議に思う場合があります。なにも、神社や寺の前を通ったときに、そんなおかしい、おまわりさんが交通整理をするみたいな姿をする必要はないと思うのです。また、そういう前に行って縁に紛動されるような、そんな弱い信心ではならないと私は思います。
 邪宗、悪鬼、悪魔が逃げていくような、強い強い自分自身の信心を確立していくならば、悠悠と、この人生は生きていけると思います。そんな、いちいち神経質になる必要は絶対にないのです。
 また、信心をしていない親類や親せきや友人のところで葬式があった。邪宗の葬式だから行くのをやめよう......、邪宗の葬式であっても行くべき付き合い、行かなければならない立場の場合が、社会人としてたくさんあります。親類、親せき、友人として、とうぜんの道です。
 そういう葬式であっても、そこへ行って、仏の使いとし、自分自身が、事の一念三千の当体の確信をもって、題目をあげてあげること自体が、最高の供養であり、その人のもっとも喜ぶ葬式になると、私は確信するのでございます。
 ですから、どういう場合においても、題目を唱えていけば、強い強い信心であるならば、いっさいの人に縁を結ばせていけるし、また、死んだ方その人自体に、生命に題目をおくってあげることができるのでありますから、非常識な心を捨てて、あくまでも慈悲をもち、その人を思う心で行動していきたいと思うのでございます。
 また、今度は、常日ごろ、何度も指導はうけていると思いますが、夜中に折伏に行ったり、相手の人がもう休むのに、夜の十一時、十一時半、一時ごろ、一生懸命に、仏法の話をする。向こうは眠くて眠くてたまらない。それであるのに、まだ信心しない、まだわからないのですかというようなことは非常識です。
 あくまでも、その人を思うのであるならば、仏法の話をすることは、折伏をすることはとうぜんでありますが、常識のうえにたって、知恵を働かせて、私どもは行動して、大衆に納得をさせていこうではありませんか。
 職場においても同じです。一生懸命に仕事をしている時間に、執念深く、仕事をやめさせて、あなた早く信心しなさい、まだわからないのですか......、これでは仕事なんかできません。そういうような場合に、折伏は絶対してはなりません。
 そのほか、夜中に汽車に乗って、隣の人が一生懸命寝ようと思っているのに『爾時世尊従三昧......』と始まって、まわりの人が、なんとかやめてくれないものか......、本人は、仏縁を結ばせるのだから、功徳を与えているのだから......、それもそうかもしれないけれども、まだ、方法はいくらでもあるわけです。朝、起きてからゆっくり話をしてもいいし、そういう場合でずいぶん創価学会は非常識であるという批判をされてきておりますが、なにを批判されても間違ったことはしていないのですからかまいませんが、あまりにも非常識すぎて、いけない場合には、反省をして、正しく、今度は大衆に納得をせしめるということも大事ではないかと、私は思うのです。
 どうか、新支部長おふたりを中心にして、いよいよ『私こそが日本一の幸福者である。日本一、いや、世界一大功徳をうけている者である』と確信をもって、人々に示していける、ひとりひとりになっていただきたいことを、心からお祈り申し上げまして、私の話といたします。

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