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日蓮大聖人・池田大作

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豊城支部結成大会 学会活動は礼儀正しく

1961.2.16 「会長講演集」第2巻

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1  最初、御注意といいますか、またはお願いと申し上げますか、そのことを一つお伝えします。
 それは、私どもは折伏に行く、座談会に行く、または指導に行く、毎日、毎日、おおぜいの学会人、または信心をしていない人と接しております。戸田先生は、邪宗邪義については一歩も、しりぞかぬ勇気をもって戦いなさい、しかし、暴言は慎んでいく、礼儀をもっていきなさい、暴言を吐いてはいけませんというきびしい指導をくださっておりました。
 座談会場に行く、まるで自分の家みたいに、その家の家族のふんいきも礼儀も忘れて、それでずいぶん批判をされたり、その家庭が、家庭が困るような場合も、たまにあるのです。そういうことはいけないと思います。
 あくまでも、社会人とし、人間とし、また、親しきなかにも礼儀あり、その一家、その人々を尊敬して、私どもは、座談会においても、折伏においても、指導においても、行動をとっていくべきであると思うのです。
 また、さも自分自身が大御本尊様をたもって、偉くなったつもりで、人をバカにして暴言を吐く、生意気な言語を吐いて、第三者がみても、いったい、なにを言っているのだろう、まるで自分自身がしかられてばかりいて、部下か手下みたいにされているような、たまに、そういう悪い幹部も出る場合がある。そういうことはいけないと思います。
 あくまでも、私どもの行動においては、絶対の御本尊様にたいする大確信を根本として、礼儀正しく、また暴言を吐かず、親切に、だれびとも納得のできるような信心指導、修行をしていこうではありませんか。
 次に申し上げたいことは、少し話がむずかしくなると思いますが、日蓮大聖人様は、私ども全衆生は等しく仏であると、おおせであります。一応は仏である。だが再応は、御本尊様を拝んだ者だけが仏になれる、自分自身というものは、自分自身でどうしようもないものなのです。
 その自分というもを解決せんがために、何千年来、多くの哲学者、多くの思想家、多くの宗教家が解決しようとしてあらわれてきているのです。ソクラテスも『汝自身を知れ』と言っております。おおぜいの哲人、思想家たちといえども、どうして自分自身のことを解決できないでいるのです。自分自身が解決できないから、絶対の幸福も、世界の幸福も、平和も、根本的に樹立することができないのです。
 そこに絶対の解決方法は、こういうこれしかないのだと大御本尊様をお遺しくだされ、そこに、末法の御本仏日蓮大聖人様の一大事の因縁をもって、御出現された、その重大なる意義があると、私は思うのです。
 仏さま以外に、解決の道はないのです。そのことについて、戸田先生は、電気学、電気の学問の、それを機械化したものは電灯である。いっさい学問がある。必ず具現されているものがある。実体がある。と同じように、大聖人様の大仏法を約されたもの、応用がきく、もったいない論じ方でありますけれども、機械化されたものが御本尊様であると戸田先生は申されております。
 また、戸田先生は、宇宙それ自体が空諦の本尊である。今、私どもが拝んでいる御本尊様は、中道法相の御本尊様であり、われわれ自身は、仮諦の本尊であるという説き方もなさいました。
 宇宙、大御本尊様、われわれも等しいのだ。だが、われわれが仏であるという、また宇宙それ自体が本尊であるということをわかるもわからないも、中道法相の大聖人様の御図顕あそばされた御本尊様を拝まなければ、信じなければわからない。あくまでも根本は、大御本尊様になるのです。
 したがって、大御本尊様を拝むということは、自分自身の仏の境涯を湧現することにつきるのです。御本尊様から、棚からのぼたもちみたいに、なにかが降ってくるのでは、けっしてないのです。
 そういう神がかり的ないきかたではないのです。ぜんぶ、大御本尊様の裏づけとして大哲学があり、論理的であり、科学的な裏づけがあるのです。
 だから、御本尊様に題目をあげるということは、大聖人様ののおおせどおりにわれわれの肉団のなかに本尊がある、別に本尊を求めるのではないのだ。自分自身のなかに本尊がある。戸田先生は、仮諦の本尊がある、われわれの肉団のなかに御本尊様がかかげてあるのだとのおおせと同じように、われわれ自身のなかにあるのです。
 また、大聖人さまは『妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや』妙覚の釈尊といい、また因果の功徳といっても、ぜんぶ、われわれのこの血肉であり、骨髄である、自分自身が仏なのだとお説きであります。
 また、大聖人様は、阿仏房に与えたことばに、阿仏房が質問をしたその答えについては『阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房』阿仏房、あなたそれ自体が本尊なのだ、妙法蓮華経の当体なのだともおおせになっていらっしゃいます。
 したがって、御本尊様を拝むことは自分自身の仏を湧現するのである。だが、染浄の二法と申して、過去遠々の罪業によって、その仏の生命が陰蓋されて、どうしても染まって出てこない。そこに、われわれの不幸があるわけであります。
 その罪障が、御本尊様に題目をあげることによって、どんどん消滅されて、そうして、仏の湧現がされきって、この世が、それぞれの境遇で、立場で、楽しみきり、そうして幸福に生ききってゆける、これが大聖人様の仏法であり、大御本尊様を絶対に拝まなければ、仏になれないし、永遠の幸福をつかめないという論理であると、私は思うのであります。どうか一生涯、大聖人様が『この御本尊様をたもちきってゆけ』と申された御本尊様に、ありがたくもお目にかかったのでありますから、これをはずして、どこにもしあわせはありません。
 どんな宗教を捜しても、ぜんぶ、今の時代にあっては、大御本尊様以外は邪教になるのです。これだけは、大聖人様のおおせを、目をはっきり開いて拝読すれば、また、御本尊様を拝んだ証拠から申し上げれば、厳然たる事実でございます。 どうかひとつ、大御本尊様を拝み、仏の境涯を、仏の生命を湧現しきって、この一生涯を楽しみきっていこうではありませんか。

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