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宇都宮支部結成大会 世の誤った宗教観を破る

1961.1.18 「会長講演集」第2巻

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1  本日はたいへんにおめでとうございました。また当地には、私は初めてまいりまして、したがって、初めてお会いする同志の方々、お友たちの方々が多いと思いますゆえに、私のほうからこそ、今後ともよろしくお願い申し上げますと願うしだいであります。
 具体的に、ただいま、原島先生はじめ、理事の先生方からお話がありましたもので、違った角度からひとこと、私は申し上げます。
 非常に、冷えこんでおりますからカゼをひかないように、もう少しあいだ、がまんして聞いてください。ちょっとむずかしい話になるかもしれませんが。
 それは、今の指導階級、または知識階級が論ずる宗教観にたいして、二つの問題があるのです。一つは宗教は害毒を流すから必要でないと論ずる人々、また、宗教の存在は必要でないと否定する知識階級、この二通りがあるのです。
 第一番目の、宗教は害毒を流すからいけないという問題については、私どもも同感です。真実に宗教というものを世の指導者が勉強し、体得しているかどうかという問題になりますが、よっぽど日蓮正宗創価学会員のほうが勉強しているわけであります。
 私どもは、いっさいの宗教は邪宗教であり、邪教であると断じております。あまりにも人人を不幸にし、世の中に害毒を流すゆえに、根本的に撲滅をしようというのが日蓮正宗創価学会の主張でありませんか。
 実際問題、いくら宗教のことを論ずる指導者たちが、どれだけのことを知っているか。ぜんぜん知らないのです。概論しか知らないのです。
 では、華厳経と阿含経とどう違うのか、法華経迹門と本門とどう違うのか。劣応身と勝応身とどう違うのか。応身昇進の自受用身、法身、報身とはどう哲学的に違うのか。仏法のうえで違うのかというふうに、ちょっと専門的にはいれば、なにも知っておりません。
 したがって、私どもは第一問題である。邪宗教は世の中に害毒を流す、そのとおりである。したがって邪宗教はやめさせていかねばならない。また第二番目の問題の、宗教の存在を否定する、宗教はこの世に必要ないという、そういう考えの指導者にたいして、では、なにをもって、絶対の生命観を、社会観を、世界観を、宇宙観を樹立するのか。では、あなたは、なにをもって、真実の平和と真実の幸福をも与える理念、哲学をもっているのかと聞きたい。実際問題もっておりません。
 真実の生命観、社会観、宇宙観、世界観というものは、仏法の真髄である日蓮大聖人様の大生命哲学以外に、即大御本尊様以外には、絶対に私は解決ができないと断言いたします。
 いままでの邪宗教の坊主が、また、なまはんかな宗教学者が、その時代における真実の宗教というものを求め、かつ教えてこなかったところに、今の知識階級や指導階級から、いっさいの宗教がバカにされ、同じように、日蓮正宗創価学会が真実であるにもかかわらず、同じような心をもって、認識をもってバカにしてきているのです。
 したがって、真実の宗教は、生活の根本原理であるし、だれが勉強しようが、だれが信心しようが、追究しようが、微塵も矛盾がなく、追究すればするほど、探究すればするほど、なるほどなと道理にかない、また、実践活動である信仰すればするほど、真実の生活のうえに功徳を体験する、その宗教こそが、世界最高の宗教であり、即日蓮正宗であると断ずるものでございます。
 したがって、皆さん方はだれびとからバカにされようが、批判されようが、絶対なる確信をもって、論より証拠、このようにしあわせになったではないかという姿を示していただきたい。また、理論のうえにおいては、皆さん方も勉強していただきたいと思います。
 また、わからない点がありましたならば、先輩の方々にどんどん教わっていただいて、けっして、どの思想界にも、どんな知識階級にも、指導階級にも一歩もひかない、悠々とその人々を指導できるだけの力をもっていっていただきたいと、私は思うのでございます。
 釈迦在世において、インドにおける最高の知識階級の代表者は、有名な舎利弗尊者であります。その舎利弗も、いちばん頭は利口であったけれども、最後は釈尊の法華経にはいって信伏随従し、信心をもって初めて永遠の生命を会得して絶対の幸福を感得しております。
 また、大聖人様御在世においては、やはり大学者であった四条金吾、富木常忍も、同じく世の知識階級の代表者でありましたけれども、大聖人様の仏法に信伏随従し、信の一字をもって仏になっております。
 現在においても、牧口常三郎先生、恩師戸田城聖先生は、今の指導者、知識階級と比べることのできない大学者であります。私は無学でありますけれども。また、学会においても、理事長をはじめとして、理事室、支部長級においては、どれほどの知識階級がいるかもしれません。しかし、ぜんぶ、最後は、大聖人様の大御本尊を信ずる以外に、幸福になる道はないという姿を示しております。釈迦在世も、大聖人様の御在世も、また今日においても、また、方程式は同じであります。
 したがって、どんな学校を出て、利口そうな人があったとしても、その人の言うことに、縁に粉動されないで――その人自身は、ひとつもしあわせではないのです。いくら、へりくつを言ったとしても、論より証拠で、絶対に幸福であるかないかということが問題ですから――むしろ哀れに思って、教えてあげましょうと言いきれる、大確信をもった大信者の歩みをしていただきたいと、私は重ねてお願い申し上げて、私の話といたします。
 今後とも支部長を中心にして、仲良く楽しく、功徳に満ちて、お会いするたびに、こんなにも功徳をうけたか、お元気になられたかと、私どもがびっくりするようになっていただくことをお願い申し上げまして私のあいさつといたします。たいへん御苦労さまでした。

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