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日蓮大聖人・池田大作

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岩手支部結成大会第二会場 従順と違背

1960.11.24 「会長講演集」第1巻

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1  皆さん、たいへんしばらくでございました。また、きょうは遅くまで御苦労さまでございます。
 御書のなかに『一念随喜の功徳』というおことばがあるのです。御本尊様をいただいて、随喜ということは喜んでいるという意味です。喜んで御本尊様に題目をあげ、喜んで御本尊様のお使いをしていったときに大功徳が湧いてくるという意味と拝します。
 従順の義、違背の義といって、従順の義とは、功徳を受ける道である、大聖人様のおおせどおりに、すなおに信心する。ここに成仏がある。
 違背の義とは、大聖人様のおおせどおりに心をもっていかないで、おれは学会を好かない、おれは御本尊様を拝まない、おれは向こうのほうがいい、これは違背の義です。それは地獄に行く道であると説かれておりますが、御本尊様、御本尊様と、それだけを、私どもは強調しております。御本尊様以外に仏になる道はないのです。したがって、私どもが持っておる御本尊様は、八万宝蔵といういっさいの経文の終極の本体です。
 また、たくさんの思想家、哲学者、マルクスであろうが、カントであろうが、ソクラテスであろうが、いっさいの全世界の哲人も、いろいろな哲学を説きましたが、ぜんぶ御本尊様のところへ行くべき途中の哲学なのです。ですから、御本尊様は絶対の哲学であり原理なのです。また御書全体を拝しましても、御本尊様の功徳を説いている。御本尊様になぜ力があるか、功徳が湧くかという原理を説かれているにすぎないのです。
 日蓮正宗の哲学においては、富士宗学要集という、膨大なる哲学があります。それも、御本尊様のことなのです。それから、六巻抄も、法華経も、ぜんぶ御本尊様のことのみを、絶対である、これ以外の究極はないのである、ということを説いてあるのです。
 釈迦も、もちろん、天台も、もちろん、また、伝教大師も妙楽大師も、ぜんぶ御本尊様を賛嘆し御本尊様によって仏になっているのです。その御本尊様を、なんにも勉強しないで受けているのですから、これほどしあわせ者はないのです。
 世の中の人々は、なにやかやと、日蓮正宗の私どものことを、創価学会の私どものことを、とやかく言いますけれども、宗教には無知なのです、哲学には無知なのです。何も知らないのです。そういう人たちに、皆さん方が、ひとりひとりが功徳を受けて、生活のうえにはっきりした確証をにぎりつつ、知らない人々に、慈悲をこめ、情の心をもって、知らせてあげたいと思うのです。これが折伏です。

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