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日蓮大聖人・池田大作

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山形支部結成大会 迷信打破

1960.11.22 「会長講演集」第1巻

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1  本日は新支部結成、まことにおめでとうございました。
 きのうで、衆議院の選挙は終わりました。代議士の人々は一生懸命に票をかせぐために、汗水たらしてトラックに乗ったり、円タクに乗って動いてきたわけでございます。私どもは、自民党であろうが、社会党であろうが、共産党であろうが、なんら皆さん方の自由で、干渉はしませんが、どの代議士も、どの指導者も、県民のために働こう、尽くそうということは言いきっておったと思います。
 また私どもは、当然、日本国民として、選挙をすべき権利も義務もあります。それをうんぬんするわけではありませんが、私は今、真実にひとりひとりの国民、県民という人々を救いきっていく、票の数の闘争ではなくして、幸福にしきっていくべき人間の生命の数をかぞえている創価学会のほうが、どれほど尊く、どれほど大衆の味方であるかということを訴えておきたいのでございます。
 釈迦の仏法は、おうおうにして貴族仏法でありました。天台大師の時代においても、伝教大師の時代においても、上流階級が中心になって信仰してきております。
 今、末法の御本仏日蓮大聖人様の仏法は、その反対に、もっとも悩める、もっとも苦しんでいる、もっとも貧しい大衆のために、民衆の味方となって、その人々を救っていける大仏法であると、私は信じております。
 したがって、大聖人様の仏法が真実の仏法であり、真実に民衆の味方である、民主主義の大原理の仏法であると、私は思います。
 さきほどもお話がありましたが、信心の目的は成仏にあります。しあわせになることのみが信心の目的です。でありますけれども、いままでの日本民衆の伝統の仏法観、宗教観のうえに立った風俗というものは、風習というものは、死んだ人が仏であると印象づけられております。死んだ人がぜんぶ仏であるならば、なんの宗教が必要であるか、仏法が必要であるかと反論したい。
 そんなバカなことはないわけです。それは、死んだときに、親せきの人や友人たちがいったときに『いや、あなたのむすこさんは......あなたのおかあさんは地獄へ落ちましたよ、その相は地獄ですよ、その相は餓鬼界に落ちましたよ』と言えないために、そういうわけには言えない人情として、仏になりましたねと言う、ひとつの思想が残っているのです。
 また、もう一面は、人々を指導すべき仏法のうえに立って、その坊主たちが、真実に経文を知らず、ただ金もうけをしようと思って、葬式に行ってコビを使って、真実の仏法のあり方、生命のあり方、永遠の生命観等を教えないで、金さえとればいいといううえに立って、なんでもかんでも金さえとればいいのだからという思想が残って、その仏法の真実のあり方を破壊してしまったのです。
 ですから、日本の現状における、いままでの仏法の姿は、ぜんぶ邪宗邪義、坊主のために、こういうふうに攪乱されてしまったのです。
 今、日本において、真実の仏法は日蓮正宗しかないと、私どもは叫んでおりますが、真実の仏法は、信心即生活の原理なのです。
 生活をしていく根本原理が、ほんとうの宗教のあり方なのです。『体曲れば影ななめなり』仏法が曲がった場合に、宗教が曲がった場合には、いっさいの生活が曲がってしまう、不幸になってしまうとのおおせが、大聖人様の御金言であります。
 したがって、御本尊様を拝んでいる私どもが仏であるともおおせなのです。この私どもの生命に仏という命がある。御本尊様を拝むことのみによって、その仏の生命が湧現する、その湧現しきった、清らかな、強い生命力をもって、おのおのの仕事場で、境遇で、商売のうえに、事業のうえに立って、その活動をしていくならば、努力をしていくならば、どんなことでもやりきっていけるとの仏法が大聖人様の仏法なのです。どんなにも努力し、しあわせになろうと思って進んでいる人が百千万人おります。大勢おりますけれども、根本の原理がなければ、その願いはかなっていかないわけです。
 ただ御本尊様さえ持って、そして生活の原理として進んでいくならば、ぜんぶの人がしあわせになれるという仏法であると、私は信じます。
 その確信に立って、生きていくうえにおいても、強い源泉は、また生命は永遠であります。現世安穏、後生善処と説かれております。現世で物心とものしあわせの実験証明を、実証を確認して、また来世も、再来世も、御本尊様のある家に生まれてきて、しあわせになりきっていく、そのため十年、二十年も修行するわけですから、少しぐらいつらいことがあっても、がまんして、永遠のしあわせを、おたがいにつかみきっていこうではありませんか。
 また最後に、ひとこと申し上げますが、さきほど開会の辞をやる人が、一番最初に閉会の辞をやってしまったわけですが、まことにゆえあるかなと思うのです。
 創価学会は、御本尊様を拝んでしあわせになろう、また御本尊様を知らない人に教えてあげよう、これしかないのです。これだけ言えば、もう閉会の辞でほんとうはいいわけなのですから、うまいことを言ったなと、私は思ったのですよ、その意味なのです。皆さん方の、いよいよの強盛なる信心と、お会いするたびに大功徳をうけられる姿を、楽しみにして、私の話といたします。

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