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日蓮大聖人・池田大作

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富山支部結成大会 仏法と証拠

1960.11.12 「会長講演集」第1巻

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1  たいへん、しばらくでございました。
 仏法は証拠なのです。論より証拠と申しますが、りっぱなことはだれでも、いくらでも言えます。じょうずなことはだれびとたりとも、何時間でも、何百時間でも言うていくことはできます。大事なことは証拠です。
 しあわせになるか、ならないか、なったか、ならないかというこの現実の生活の証拠ほど、私は大事なことはないと思うのです。
 なぜ、それでは御本尊様を信じた場合に幸福になるか、病気がなおるか、人間革命ができるか、宿命転換ができるかということについて、一念三千という大理念、また大聖人様の御書を通して、甚深なる大聖人様の御書をとおして、甚深なる大哲学が説かれております。
 むずかしいことは、だんだんこれから勉強し合うことにしまして、絶対に御本尊様を拝めば幸福になる。今、私どもは大御本尊様をあおいだとき、大御本尊様に向かって左肩に『供養するもの有らば福十号に過ぐ』とおしたためでございます。
 御本尊様を信じていくものは、仏様の持っておられる、十の福徳以上の福運をいただける、湧現することができるという厳然たるお文字があります。仏様の金言であります。その反対に向かって右肩には『若し悩乱せんものは頭破作七分』、御本尊様を誹謗し、信心している私どもを批判をするならば、頭破作七分、すなわち、阿鼻叫喚地獄に落ちるというのです。その罪は無量劫に続くというおことばなのです。絶対に生活が悪くなる、不幸になるというおしたためなのです。
 したがって、私ども御本尊様を純真に信心しているものは、仏になることは当然、一生の人生が三世十方の仏、菩薩に守られ、諸天善神の加護をこうむり、安心しきった人生をば、生活をばしていけるという確信をもって、信心を貫きとおしていこうではありませんか。
 また、反対に皆さん方をいじめ、創価学会を批判するものは、それが縁になって、いつか救われるのですが、憎むわけにはいきませんよ。しかし、この世で大御本尊様を誹謗した罪が、どれほど恐ろしいものかということばをば、この目で私たちは厳然と見ているではありませんか。これが仏法は証拠であるという御金言なのです。
 けっして憶することはありません。堂々たる人間革命に、人々を救う折伏行に立ち上がって、大御本尊様の御ために、仏さまの御ためにお使いとして働いている私どもに、仏さまが、うんと、御ほうびをくださらないわけがありません。
 日蓮正宗のために働くのでもありません。創価学会のために皆さん方が働きなさいということも、ただのひとことも申し上げません。いわんや、会長のために、支部長のために、地区部長のために仏道修行をするのではなくして、皆さん方が絶対の幸福をつかむために仏道修行しきっていただきたいと思う。そうして、長い十年、二十年、一生の信心修行に立って、しみじみと大御本尊様の功徳を感じ、ともに、今、誹謗し、批判している人々を、ああこんなにも不幸になってしまったか、かわいそうなものだと見おろしていけるような、また救ってあげようという心をもてるような、そういうひとりひとりになられんことを心から念願し、きょうの話とさせていただきます。御健闘をお祈りいたします。

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