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日蓮大聖人・池田大作

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長野支部結成大会 学会組織のあり方

1960.11.11 「会長講演集」第1巻

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2  大聖人様の仏教は、本因妙の仏法とも申し上げますが、今、私どもは、宿命によってこの人生を生きております。ある人は、人間をつくったのは神さまである。ある人は、この世かぎりである。またある人は、偶然にできたようなものであるというふうに、さまざまにこの人生、生命に対して論じております。いずれも間違いです。ぜんぶ因果の理法です。いっさいのものがぜんぶ科学です。これは少し頭が冷静であれば、当然わかるわけでなのです。
 もしか、神が人間をつくったならば、みな同じように金持ちにつくってくれればよかったと思うのです。皆いい顔に、女の人であったならば、山本富士子みたいにつくればよかったし、カタワや、不美人をつくる神などというものは、無慈悲です。そんなバカなことは、ないわけです。
 偶然にこの世きりであるならば、なにもまじめに働き、良心をもって、修養していこうとか悪いことをするのをやめようとか、などということは必要なくなります。うんと悪いことをして、それでこの世でおしまいだ、パーだ、さようならです。それなら、これほどかんたんな人生はありません。であるならば、哲学もいらなければ、宗教もいらなければ、道徳もいらなければ、親子の仲もいらないのです。
 永遠にこの生命は続くと大聖人様はお説きです。天台大師も、釈迦も説かれております。信じようとしない人も、ウソという人もいる。バカなことはないと論ずる人もおりますけれども、なんと言おうとも、永遠の生命は厳然たる事実なのです。その因果の理法、因果によって、今世の私どもの人生があるわけです。ある人は病気で苦しみ、ある人は貧乏で苦しみ、ある人は子供が不良であり、ある人は早く主人に別れるというふうに、さまざまの苦しみをもっております。ぜんぶ過去世の業因です。業果です。
 その苦しみが不幸となって、生活のうえで私どもはおののいてまいりましたけれども、それをどういうふうに打開して、しあわせにさせようかというところに、仏法の、宗教の発生があるのです。あらゆる先哲の哲人の悩みがあったわけなのです。また、私どもの努力があるわけなのです。なんとかしあわせになりたい、幸福になりたい、営々として人類始まっていらい、そのことだけをすべての人が悩んできているのです。政治家もそうです。思想家もそうです。教育者もそうなのです。だが、ある程度の宿命の打開、方向転換ということはできるけれども、努力によってできうるけれども、根本的な打開はできないのです。その根本的な打開をしてくださるのが御本尊様です。
 すなわち、私どもが、病気がなおりたい、新しい原因です。しあわせになりたい、新しい希望です。金持ちになりたい、事業が発展してもらいたいという、これからに対する原因、希望というものを、ぜんぶ成就してくださる仏法が大御本尊様であり、本因妙の仏法であると、私は思うのでございます。
3  ですから、偉大なる大御本尊様です。だれびとたりとも、絶対に大御本尊様に、南無妙法蓮華経を唱えなくてはならない。政治家はりっぱな政治をしようとするために、科学者は偉大なる科学をつくって、発見、発明して、人類のために、貢献するために、教育者もしかり、事業家もしかり。いっさいの民衆が幸福になり、おのおのの立場で、最高に、社会のために貢献するためにも、その源泉になるものは、大聖人様の仏法以外にないと私は信ずるものです。
 『信心と申すは別にはこれなく候』と大聖人様はおおせです。子供が、親にすがりきっていくように、また夫が妻をしたうがごとく、妻が夫に離れないように。利害とか、観念的に考えて、信心というものはあるわけではないのです。つらいときでも、楽しいときでも、ただ、南無妙法蓮華経、御本尊様を思い浮かべて、南無妙法蓮華経と唱えることが、信心の究極なのです。ひとつもむずかしくないのです。力を入れて話すから、力を入れて題目を唱えるから、信心が強いとか、弱いとかという問題ではありません。
 子供が親に、どんなときでもついていくように、また、武士がいつも刀を持って戦っていく精神、すなわち、邪宗教はぜんぶだめだ、正宗しかない。また、奥さん方が、いつも鏡をもっているごとく、ほかのものはだめだ、この鏡で一生懸命照らしてみれば、自分の顔形がきれいになるというふうにいつも御本尊様を浮かべて、お題目を唱えていけば、それが信心なのです。これさえ、通していけば、私どもは自然のうちにしあわせになります。仏になります。絶対なる幸福をつかんでいくわけでございますから、どういうことがあっても、御本尊様を放さない、御本尊様を胸に刻んで、楽しく、力強く、この人生を生ききっていこうではありませんか。これを、これだけを教えるのが、創価学会の指導なのです。あと、学会の指導はなにもないのです。
 御本尊様を離れて、いずこに行っても、しあわせになる道はありません。これだけは、もうくどくどと申し上げておきます。いままで何百人、何千人が離れていったのをみておりますが、ぜんぶ三年たち、七年たち、十年たち、十五年たち、皆あやまって、御本尊様のもとに帰っております。その二の舞いをさせたくないために申し上げるのです。

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