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前橋支部結成大会 貪・瞋・癡・慢・疑

1960.11.4 「会長講演集」第1巻

前後
1  たいへんに支部結成おめでとうございます。
 さきほどからお話がありましたように、前橋の初代の支部長である庭山さんは、人格円満であり、顔も円満であり、頭も円満であり、金語楼さんみたいであるというふうにほめておられましたが、私も、かねがね、非常に庭山さんの人格を尊敬しておりました。あまり円満すぎて、お葬式に行ったときに笑ってばかりいるのではないかと思って心配する。自分が死んだときに笑いながら死ぬのではないかと思って心配するくらいに明るい人です。
 一生涯、御本尊様に照らされて、喜び勇んで、楽しんで、信心をしきっていく、折伏をしきっていく、一家和楽の生活をしきっていく、庭山さんの顔みたいに、明るい人生を生ききっていくことが、私は学会精神であると信じます。こういう意味において、前橋支部においては、他の支部にさきがけて、組の会合であろうが、班の会合であろうが、地区の会合であろうが、支部の会合であろうが、笑いが止まらない、会合に行くと、どんな苦しみも吹き飛んでしまう、楽しくてたまらない、そのような模範的な会合をしきっていく支部であっていただきたいと、切望するものでございます。
 釈迦は末法の衆生の機根を予言して、このようにいっております。それは、末法の衆生は、貪・瞋・癡・慢・疑の機根の持ち主である。貪とは貪欲。瞋恚、おこりっぽい。癡とは愚癡、おろかである。慢とは慢心、ごう慢である。疑とは疑惑、疑い深い。そのような衆生が末法の衆生なのです。ろくな人間がいないというのです。悪い人間ばかりである。釈迦が言うのですから、別に私が申し上げるのではありません。
 たしかに、私ども個人に照らしてみても、あてはまりますし、国にあてはめても、また大きく全世界にあてはめても、仏の予言というものは間違いありません。
2  現状の社会というものは、貪欲の亡者の集まりです。一般の人はさておいて、先日もアリメカならびに南米のほうへ回りまして、サンパウロというところへ行ったときに、百数十人の人が座談会へまいりました。そのなかに仁王様みたいにじっと聞いているりっぱな紳士がおりましたが、新しく座談会にきた方であります。
 その人が最後に『私も信心いたします』というわけなのですが、このときに懇談した話のなかに『ずいぶんたくさんの仏教がブラジルにもきておりますが、みんな金もうけです。宗教といえば、不幸の人を救い、もっとも慈悲をもって人々に奉仕をすべきであるのに、ぜんぶの宗教が、金もうけだけに生きております。自分も戦時中は「生長の家」を信心しておったのですが、たくさん金をあげれば、話をしにきてくれる。少ないといやな顔をしてきてくれない。まったく今の宗教界が堕落し、真の宗教がないということを嘆いておった。また、あなた方も同じような宗教ではないかと、じっと聞いておったのです。しかし、初めから終わりまで聞いておって、ぜんぜんそうではなくして、ほかからも日蓮正宗創価学会の話は聞いておったけれども、はっきりと、きょうで裏付けができました』と。
 この人はこの方面の日本人会の会長なのです。それで『たしかに真実の宗教であるということがわかりました。これから信心をいたします』といって信心したわけなのです。私は信心するといったので『この信心をすれば難がありますよ。此経難持、この経を持てば、必ず難がある。よろしいのですか』と申し上げましたときに『正法を持てば難があるのは決まっている。悪い宗教ばかりなのだから、正しいことを言えば難があるのは当然であると思います。だからこそ、私は信心いたします』というわけなのです。
3  このように、政治家であろうが、世の指導者であろうが、皆、利害、損得を考え、貪欲を、追求だけをしておるような国情であり、世界なのです。民衆のしあわせということは考えていないのです。いくらりっぱな政策があっても、いくら科学が発達しても、それだけでは人類のしあわせ、個人のしあわせ、民族のしあわせということは、確立できない。
 その次の貪・瞋、瞋恚。怒りの衆生といいますか、たしかに私はじめ、皆さん方の顔をみてもおこりっぽい顔をしています。円満な支部長みたいな顔している人は少ないですよ。なにも夫婦仲良く暮らせばよいのに、朝から晩まで、けんかをはじめたり、自民党でも社会党内でも、工場においても、国と国との仲においても、ケンカばかりしている。そういう衆生です。釈迦の予言どおりになっています。
 もう少しユーモアでももって、楽しく話し合ったり、尊敬しあって『しあわせに暮らしていこうな』というふうに考えればいい。もっともかんたんな方程式なのですけれども、そういうふうにできない衆生なのです。へたすると、ちょっと、電車の中で足を踏まれた、それから大東亜戦争になって人を殺したり、それほどおこりっぽい衆生なのです。おこってはいけないという意味ではありませんよ。怒りは善悪に通じます。正法を持つ者が邪宗邪義を怒ることは正しいのですから。
 また貪・瞋・癡、おろか。あすのいのちもわからない、どういうふうに生活し、どういうふうに事業をやれば、生活が向上するのか。そういうこともわからないような、じつはバカなのだというのです。皆、りこうそうなことを言いますけれど、おろかなのだ。どんなりっぱな人であろうが、頭のいい人であろうが、仏さまからみれば、三世を通観された大聖人様からみれば、御本尊様からみれば、足もとにもおよびません。あすの命、五分先の命がわからない人類ばかりです。人生ばかりです。それであって慢、増上慢である。
 御本尊様の話をし、大聖人様の話をすれば、なんだ日蓮が、なんだ釈迦が、なんだその総理大臣がというふうに、なんでもかでも人をけなすのです。自分が偉いと思っているのです。そういうことは、皆さん方も、自分の胸に手をあててみれば、よくわかるでしょう。なんだ会長が、なんだ理事長が、なんだ金語楼がなんて......そういうふうな衆生だというのです。
 そうであって疑、疑惑、疑い深い。だれも信用できないのです。もっとも御本尊様は信ずべきであるのに信じられない。で、正しいものを信じないで、間違ったものを反対に信じていってしまう。自民党は社会党を信じられない。社会党は自民党を信じられない。学者は民衆をなかなか信じない。民衆は指導者を信じない。隣近所の人も、おのおのが信じ合うことができないというふうに、せんじつめれば、皆、利己主義で個人主義で、人のことを、幸福を考えないで、しあわせにさせていく理念という、確信というものをもんていないのです。
 そういう貪・瞋・癡・慢・疑の衆生であるがゆえに風前のともしびみたいな前途暗たんたる世界であり、日本の国情である。したがって、だれも信じられない、尊敬しあわない、自分が一番偉いと思っている。それで疑いばかり起こしている。そういう世界が、機根の衆生のなかにあって、ただ一つ、そういう衆生、そういう人生、そういう人類をば救う大良薬は何か、それは日蓮大聖人様のお遺しくださった三大秘法の南無妙法蓮華経なのです。
4  重病人にはペニシリンとかマイシンとかいう高価な力のある薬を用いなければならないと同じように、悪世末法、五濁爛漫の今の世界においては、最高の力のある仏法、絶対の、矛盾のない哲学、それであって信心すれば、即座に、生活のうえに厳然たる証拠のでる科学である仏法、また即座に人間革命のできる大生命哲学を存した仏法、そういう最高の大仏法によらなければ日本の国も世界も救えない。その根本の原理が大御本尊様でありますゆえに、だれびとがなんと批判しようが、どんな偉い人が批判しようが、一念三千の大仏法の大原理を知るわけがないのです。わかるわけがないのです。ただそれを言いきり、現実のうえに知りきっているのは、日蓮正宗創価学会以外には断じてないと私は確信するのです。
 願わくは、支部長のもとにしっかり団結して大御本尊様の功徳を燦々と受けきって、こんなにも信心の功徳はすごいものか、いっぺんぐらいは、貧乏してみたいとグチを言えるような、だれびとがみても、ああしあわせそうだ、私にも信心させてくださいといってくるような、そこまで功徳を受け、人間革命しきるまで、忍耐強く、水の流れるような信心をしきっていただきたいことを切望いたしまして、私の話といたします。

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