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日蓮大聖人・池田大作

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関東第四総支部結成大会 折伏の精神

1960.9.12 「会長講演集」第1巻

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1  政治のことを、私はうんぬんしたくはありませんが、現実に政治のあり方を考えたときに、自民党は社会党、共産党と相いれない。相手を負かすことはできるけれども、根本的に幸福に満足させきっていけるかどうか。共産党は自民党に対して勝っていくことはできるでしょうが、根本的に、永遠に、これからの人々を幸福にしきっていけるかどうかと考えたときに、非常に将来の日本民族ためにも、また大きく考えたときに、世界の民衆の前途においても、いつまでたっても争いが続くのではないかなと......。
 しかし、生きていくためには、その時の政治は大事であります。それをうんぬんしたくはありません。しかし、私どもは、永遠にぜんぶの人々が満足しきっていく、幸福に、平和になるためには、どうしても、根底に大仏法がなくてはないということを主張するものなのでございます。
 かつて、有名なマルクスは『宗教はアヘンである』と言いました。私は、共産主義が、唯物史観がうんぬんということを論じません。彼が言った『宗教はアヘンである』ということは、七百年前に日蓮大聖人様は、もっと痛烈に、本源的に、邪宗教は、いっさいの衆生を無間地獄に落とすと喝破されております。
 かのマルクスが言った『宗教はアヘンである』ということは、私どもは同感です。むしろ、もっと恐ろしい毒薬であり、青酸カリであると叫びたい。
 知識階級はその宗教観をもって、いっさいの宗教も同じようにみているし、論じてきております。では反問するが、マルクスが唱えた、主張した『宗教はアヘンである』ということを、与えていうならば、どの宗教をさして言ったのか。キリスト教かマホメット教か、それは私にはわかりませんが、マルクスの言った『宗教はアヘンである』という、その宗教観のなか、日蓮大聖人様の仏法がはいっているかいないか。マルクスは日蓮大聖人様の、真実の、世界最高であり、仏法の真髄である、この大仏法を、研究したかどうかということを、私は反問したい。
 研究もしないで、検討もしないで、世界最高である日蓮正宗をうんぬんすることはできないし、たとえ、マルクスが『宗教はアヘンなり』と言って、われわれの仏法をみる人があったとしても、私どもは、あくまでも日蓮大聖人様の弟子でありますゆえに、末法の御本仏日蓮大聖人様の大御本尊様を信じきって、証拠をもって、功徳をもって示しきっていこうではありませんか。
2  折伏ということについて、戸田先生は『折伏の「祈る」ということは、悪い心を折る。そして、折伏の「伏する」ということは、良い心に伏せしむる』と説かれましたが、親が子供に対して、悪い心をもち、悪い行動をしたときには、良い心にさせるために、きびしく、しかる場合があります。厳愛です。この姿が折伏です。いっさいのことに折伏の姿はあるわけです。
 釈迦は、爾前経はもう信じてはならない、法華経を信じなさい、法華経へくるための方便である、爾前経では地獄におちてしまう、したがって、小乗経ではいけない、権大乗経ではいけない、不幸になる、実大乗経に帰しなさいと教えるのが折伏です。
 法華経は、あくまでも日蓮大聖人様の出現の予言書です。上行菩薩即日蓮大聖人様、すなわち末法においては、日蓮大聖人様御ひとりが仏様です。その日蓮大聖人様のおおせどおりに信心しなさい。他の宗教は、釈迦もいけないといった、天台も、伝教も、また日蓮大聖人様もいけない、不幸になると言ったから、それを教えるのです。そして『これを信じなさい』と大御本尊様に伏せしめていく。これは当然のことです。
 華厳経には『恩を知らざるもきは、横死すべし』、死に方がよくない、大集経には『阿鼻の因をつくる』、仏の恩を報じないものは、阿鼻大城に落つると説かれております。したがって、いっさいの不幸の根源である邪宗邪義は、仏の言うことをきいていない。先祖代々であるからと慣習的に考えるだけである。真実の仏の言うことをきかない。これを教えきっていくのが折伏であり、無間地獄に落つると釈尊もいい、日蓮大聖人様もおおせになっておる。その道をふさぎ、幸福の道に帰せしめていくことが折伏であります。ゆえに、これがほんとうの最高の善の行為であると、私は信ずるものであります。
 けっして、だれびとが誹謗しましょうとも、永遠に救う道はこの折伏行しかないのです。末法においては、衆生は邪智、謗法の衆生と申して、弱い説法の仕方、弱い心では、言うことをきかないのです。強い仏法、大仏法、それからきびしいその方法として、折伏の方法を日蓮大聖人様はお示しくださったのです。勇敢に折伏をしきっていこうではありませんか。
3  ただし、ここで考えねばならないことは、なんでも折伏というと、相手をやりこめて、自分が勝てばいいという心ではないのです。すぐに感情的になって、修羅場を現ずるような折伏もなりません。また、青すじをたてて、まるで第三者がみて、慈悲があるのだか、道理をつくしているのだか、わけがわからない、むしろ、折伏されている人のほうへ同情したほうがいいというような、そういう姿の折伏もあやまりです。
 戸田先生は、あるときに『折伏はおだやかに』と、ひとこと申されたことがあります。その『おだやかに』ということばを、ヘタに解釈すると『弱くともいいのだ』、摂受になるような姿に聞こえますが、そうではありません。ゆうゆうと、功徳を示し、順序正しく、明るい心で、だれがみても『なるほどな』と、そのように納得のできる折伏をしていきたいものであると思うのです。
 ただし、御本尊様に対し、日蓮正宗に対し、創価学会に対し、バカにし、誹謗するやからがあるならば、毅然たる態度で、師子王のごとき心をもって、破折をしきっていこうではありませんか。
 また、今、先生方からもお話がありましたが、ずうっと旅行をしている最中に、ある有名な方ともお会いして、学会の話が出たのですが、そのときに『自分も、創価学会は仏壇を焼き、位ハイを焼き、墓をぜんぶ、ぶちこわすと思っておった』というのです。過去において、新聞等に誹謗記事が出て、それをそのまま、大衆の人々は信じてきている人もあります。いろいろと話をしたときに『そんなことをしておったら、こんなに大勢の人が入信するわけがないでしょう』と言いましたところ『そうだ、自分もずいぶんおかしいと最近は考えてきた』と、こういうわけなのです。
 熱心のあまり、ほんとうの大聖人様の教えを、創価学会の指導を、自分勝手に解釈し、踏み間違えて、一、二ずいぶん狂言的なかっこうをした人があるかもしれない。そういう人がおっても、そういう人が言ったことも、学会全体が指導しているのだと言われる場合もあります。
 学会は、いまだかつて仏壇を焼けとか、位ハイを焼けとか、それから石塔をこわせとか、いっぺんも言ったおぼえはありません。牧口先生も、戸田先生も、私も、また大幹部の先生方も、むしろ墓地問題などは、こちらがえらい被害を受けております。
 そういうようなわけで、大衆の人々は、ずいぶん曲解をしているむきがありますが、私どもは一般会員の人々に対しても、あくまでも、信心指導の根本的徹底をしていかねばならないし、曲解している大勢の人々に対しても、まことの日蓮正宗創価学会のあゆみ方は、前進の仕方は、主張は、どこからみても、間違いないということを知らしめていこうではありませんか。以上申し上げまして本日の話とします。

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