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日蓮大聖人・池田大作

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第4回本部幹部会 役職に『先生』は不用

1960.8.30 「会長講演集」第1巻

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1  今月もたいへんに暑いところ、御苦労さまでございました。
 先日、九州に体育大会がありまして、その体育大会に福岡の市長と県会議長が見えたそうです。そのときに青年部の勇壮なる姿、統一のとれた総支部員の喜びの姿を目のあたりに見て、創価学会は、十年先を考えたときに、日本の国は大きく変わってしまうであろう、恐ろしいことだと、感嘆して帰ったそうです。
 また、私は中部の体育大会にまいりましたときにも、新聞記者は、創価学会の集まりといえば、必ずといっていいほど曲げて報道します、また、やきもちを焼いて報道され、いじめられてきておりますが、ある一流の新聞記者である記者が、その記者は、りっぱな記者でありましたが、警察の警備課長から『どうしても、いっぺん見てきておいたほうがいいよ』と言われてきたといって、礼儀正しく見にまいったのです。
 その新聞記者は『いままで聞いておった創価学会と、自分が目のあたり拝見した創価学会とは格段の相違である。まったく違っておった』と言っておりました。その夕刊に当然載るべき記事ではないと思ったのですが、載っておりまして、その報道の姿も、非常にりっぱに載っておりました、写真入りで。また『これだけの大勢の人が、喜んで、歓喜をもって、団結をもって進んでいるなかには、なにか偉大なる真理があるように思えてならない。東京の体育大会のときも、ぜひとも行かせてください』と言って帰りました。
 先日も札幌における北海道の体育大会にまいりましたが、そのときには札幌の市長が見えられておって、やはり絶賛をして帰って行かれましたが、姿だけほめるというのは、ずいぶん枝葉のことをほめられておるわけでありますが、もっともっと、根本的な大仏法の原理を知っていかねばならないと、私ども主張しなくてはいけませんけれども、いずれにしても、心ある人は、日本の前途を考えておる人々は、ぜんぶ日蓮正宗創価学会のことについては、偉大なる驚異の目をもって見ております。
 また、私は日蓮正宗創価学会こそは、絶対に日本の潮であり、日本の柱であり、そうなっているということだけは、ぜったいであると訴えておきます。
 ただ、私どもが、このように創価学会が発展し、このように大きい前進飛躍をしておる過渡期において、考えねばならないことは、一般会員に向かってもそうでありますし、それから社会にあってもそうでありますが、おれは信心している人間だ、私は創価学会員だと、さも創価学会員であるということだけを鼻にかけて、他の人々を睥睨していくような、おごりたかぶっていくような行き方になってしまったならば、いけないと思うのです。
 あくまでも、私どもは、邪宗邪義に対しては、毅然たる折伏精神、そして一般会員の人々、社会にあっては、親切であり、信頼と尊敬をされる学会人こそが、真実の学会人であると思うのでございます。したがって、広宣流布のその日まで、私ども幹部のあいことばは『勝ってカブトの緒をしめよ』ということを、あいことばとして、公私ともに、前進していきたいと思うのでございます。
2  また、今、私が申し上げることは、小さい問題といえば問題でもありますし、形式の問題といえば問題でもありますが、将来の学会を考えて、宗教革命の精神のうえから立って、ひとこと申し上げておきたいことは、役職には絶対に先生をつけてはならないと思うのです。
 たとえていえば『会長先生』『理事長先生』『支部長先生』『地区部長先生』そのような呼び方はやめていきたいと思うのです。非常に尊敬してくださって、うれしいみたいでありますが、あくまでも学会は、幹部は、一般会員と直結でなくてはなりませんし、創価学会は全民衆と直結していなくてはなりません。その場合において、役職は役職でいいと思うのです。『支部長、これから行ってきます』『理事長、こういう報告がありますから聞いてください』『会長、こんにちは』というほうが、どれほど庶民的であり、実質的であり、また親しみが深くなるのではないかと思うのです。
 ただ、あまり『会長』『理事長』『支部長』『地区部長』などというと、もう少しアルファをつけたほうがよいと思う人もいるかもしれません、非常に礼儀正しくて。そういう場合には『会長さん』でもいいし、せめて足せばね。それから『理事長さん』『支部長さん』『地区部長さん』おまけして、それまでです。
 これから四代、五代、六代、七代、十代と続く創価学会において、恩師戸田先生ならびに初代の牧口先生は、私は、当然、会長先生とお呼びして間違いないお方でありますが、第三代から、これからの学会は、そういう呼び方でなくして、もっと戦闘的にいきたいと思うのですよ。
 ただそうなると、またそれでは苗字を呼んではいけないかというと『池田』『原島』『小泉』、なんだか裁判所か刑務所に行ったみたいではないか。それもちょっと......当然、親しき仲にも礼儀あり、また戸田先生も教授ならば、教学部員ならば、当然、指導をうける身として、それから仏法の教えからみても、師匠のごとく、自分が教わる場合には、尊敬していきなさいという方程式もありますゆえに、それは親しみ深く呼んでいただければですよ『池田先生』と。めんどうくさくて腹が減っている場合には『池田』でもかまいません。べつに、おこりましませんから、そんなことで。それから『原島先生』『小泉先生』『和泉先生』とか『柏原先生』とか、そういうふうに言ったほうが、非常に、親しみもあるように思うのですけれども、どうでしょうかね。
3  それから、もうひとつは、先々月に、九月は楽しい体育大会、楽しい地区総会をやっていきましょうと、申し上げましたとおりに、もう九月度にはいっております。いままで先生方からお話がありましたが、そのお話、指導はそのままひとつ受け入れて、九月の指針としていただきたいと思いますが、私が折伏をしてはいけないといえば、私は大謗法になってしまうのです。それは言えません。折伏するのは日蓮正宗の信者として、仏になるためには、仏道修行のただ一つの道でありますから、これは自由にひとつおやりになっていただきたいと思うのです。
 ただ七月、八月と、非常に新しい学会人もふえてまいっておりますゆえに、信心指導の徹底ということを、あくまでも根本として、落ち着いて、着実に九月度一か月は活動していただきたいと思うのです。したがって、さきほどから指導がありましたように、ハッパをかけたり、電話でやれやれといったり、そういうような折伏をせよという命令的な、圧力を与えるようなことは、絶対にやめていただきたいのです。
 自然の姿で、折伏を一か月やって、あとは掌握をし、信心指導の徹底をしていくと。それで、公私ともにエネルギーをたくわえて、それから、六、七、八月度の整備をしていただきたい、各支部、各地区の。そして、九月度のまた幹部会に、いま原島先生がおおせになったように、十、十一、十二月の立宗七百八年の総仕上げの態勢をば、きちっとして、集まっていただきたいと思うのです。これだけ申し上げまして、私の話といたします。御苦労さまでございました。

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