Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

沖縄支部結成大会 最高唯一の日蓮正宗

1960.7.17 「会長講演集」第1巻

前後
1  沖縄の同志の皆さん、日夜の闘争まことに御苦労さまでございます。
 沖縄の国土は、アメリカの土地になっているようでもあるし、日本であるような気がするし、法のうえではよくわかりませんが、いずれにしても、住んでいる、居住している民族は、日本民族です。日本人です。われわれと同じ日本民族であり、日本人であります。
 したがって、私どもは、沖縄といっても、なんら遠くには考えられません。同じ同胞として、将来の日本民族のために、大御本尊様を根本として、団結して、いっしょに文化国家の建設に進みたいという念願でいっぱいなのでございます。
 日本の国には、世界に貢献すべき何ものもない、四等国民のような現状です。いっぺんぐらい戦争に負けたからといって、これほどまでに民族が卑屈になり、これほどまでに弱い民族になるものかと、悲しい気持ちであります。
 今、もしか、ソ連とアメリカが戦争したならば、どうなるか。真っ先に原水爆弾を落とされるのは日本の国です。沖縄の国土です。アメリカでも、ソ連でも、または、どの政党でも、うまいことは言いますけれども、自分の国を一番大事にしますし、自分個人を大事にしているのが政治家のあり方です。だれも信用できません。真っ先に阿鼻叫喚地獄のさなかにはいるのは日本民族です。
 このことについて、末法の救世主、日蓮大聖人様は『大御本尊様を信じひろめていくならば、また邪宗を禁じていくならば、必ず日本の国は永遠にしあわせになっていくよ』と、はっきり七百年前に喝破なされております。近くは、創価学会初代会長の牧口先生、また二代の戸田城聖先生が『日本の国は日蓮正宗以外に救えない、邪宗教によって国を滅ぼしてしまう』と、真っ向から軍部に、時の政府に言って戦ったのです。しかし、牢獄にはいり、牧口先生は獄死なされ、戸田先生は二年間、獄の中で戦ってこられました。
 その牧口先生、戸田城聖先生の申されたとおりに、日本の国は敗戦です。同じことを繰り返すわけにはいきません。
 恩師戸田城聖先生は『広宣流布するならば、絶対に仏天の加護によって、日本の国には、日本民族の頭上には、原水爆弾は落ちない』と断言しているのでございます。それが、広宣流布の意義であり、仏国土建設めざし、民族を思い、平和を思う、わが日蓮正宗創価学会のただ一つの根本義なのであります。
 創価学会が大きくなればいいとか、日蓮正宗を繁栄させようとか、そんな小さい考えではございません。日本民族を、子孫のためにも、子供ためにも、繁栄させていきたい、幸福にさせていきたい。また全世界のためにも、ほかに、なにも貢献する道がないけれども、最高の宗教によって、最高の文化によって全世界に貢献をせんとするのが、創価学会の使命なのであります。
2  今、私は、むずかしい話のようではありますけれども、日蓮正宗がなぜ最高の仏法であるかということについて皆さん方により、いちだんの確信をおもち願いたいがために、申し上げておきます。それは御書を拝し、聖教新聞、大白蓮華、折伏教典等によって、よくおわかりであるとは思いますが、なにも日蓮正宗を私どもが信心しているからといって、独断的に『最高の宗教である』と叫んでいるのではないのです。
 仏法といえば、あくまでも釈尊を中心にして、いちおうは考えます。また、東洋は仏法にとくに縁の深い国土です。釈尊を中心にし、伝教大師、天台大師、章安、迦葉、阿難というふうに、一本の、ひとつのれっきとした線の流れがあるのです。その先師らの教えを中心にしていくならば、五重の相対とき、四重の興廃とか、三重秘伝とか、さまざまに宗教の浅深、高下というものが明確にされているのです。
 今、そこにもお寺がありますが、その邪宗の寺の坊主に向かって『法華経と華厳経とどう違うが』『阿含経と方等部とどう違いますか』と聞いたって、何も知らないのです。宗教に、今日の日本民族はまったく無知なのです。坊主は墓番であり、葬式屋であり、そんな非生産的な存在などは、日本の忙しい世の中に必要ないと、私たちは叫ぶのですよ。
 仏法のブの字も知らないのです。宗教のシの字も知らないのです。事実は。知ったかふりをしているのです。ウソであると思ったならば、聞いてごらんなさい。華厳経と阿含経とはどう違うのですか、と。方等部と法華経とはどう違うのですか、と。坊主が知らないくらいですから、ほかの人は知るわけがないでしょう。それであるのに、日蓮正宗の信心をしていると『あんた、あんな信仰なんか。なんだ、創価学会なんか』というふうに、大勢の人は批判をしがちなのです。『では、日蓮正宗という仏法を知っているか。創価学会の精神を知っているのか』というと『知りません』という。それで批判をしている。
 それでは、その人は、ほかに絶対に幸福になる道を哲学を宗教を知っているのかというと、なにも知らないのです。知らないで日蓮正宗創価学会のことを批判しているのです。だから、批判するような人がおっても『ああ、なにも知らないで、かわいそうだなあ』と、このように大きく包容して教えていこうではありませんか。
 まず、日蓮正宗が最高の宗教であるという証拠は、文証、現証、というこの三つによって決定づけられるのです。
 文証とは文献によって、最高であるか、最低であるかを判定するものです。文献は釈迦が説かれた八方法蔵の仏教典は、ほとんど残っております。また天台大師、伝教大師の文献もぜんぶ残っております。日蓮大聖人様の文献もぜんぶ残っております。この文献によって宗教の浅深を決めていくのです。
 そうしますと、釈迦は『四十余年未顕真実』四十余年の間は、真実を説かなかった。そして『法華最第一』法華経がさいこうであると、はっきりと無量義経においても、法華経においても説かれております。その法華経第一ということは、迦葉も、それから天台、伝教もぜんぶ認めておられます。
 今度は、法華経は経文のうえでは、二千年過ぎれば教えの力がなくなって、あとは上行菩薩という方が末法に出現して、そして、こうこうこういうふうなふるまいをするから、その人が末法の仏様なのだよ、これが法華経に予言されているのです。そのふるまいどおりに出現なされたのが上行菩薩であり、文底から拝するならば、末法の救世主日蓮大聖人様になるのです。
 日蓮大聖人様は、今度は、末法の法華経、すなわち三大秘法の御本尊様をおひろめくださるのです。
 したがって日蓮大聖人様は『日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ』『日蓮がたましひを』たましいとは生命と訳すのです。日蓮が全生命をすみに染め流して書きて候ぞ、信じなさいということで、それが御本尊様になるのです。
 したがって、あくまでも、文献のうえ、文証のうえから拝するならば、その究極は、日蓮正宗の三大秘法の仏法を信心することに帰一する、尽きるということだけは断言しておきますから、その確信をもって進んでいただきたいと思うのでございます。
3  したがって、どういう人が、どういうふうに言っても、これから大勢の先生方が、また皆さん方の応援にまいりますから、絶対正しいということをよく知っていっていただきたいのです。これが第一番目です。御書を拝読すれば、明々嚇々です。少し、勉強すれば、もう心配ありません。
 それから、次は理証。道理の理、証拠の証と書きますが、あくまでも宗教は、真実の宗教は、哲学のうえに立っても、科学的な検討のうえからも、微塵も非科学的であってはならないのです。道理正しい宗教でなくてはならないのです。
 人間を神がつくったという宗教、死ねば天国へ行くという宗教、それから水をうんと飲めば病気がなおるというような宗教、死ねば西方十万億土に生まれてくるというような観念的な宗教、そういうような宗教は誤りなのです。ぜんぶ科学的に、ぜんぶ哲学的に、道徳のうえからみて、微塵も狂いのない宗教でなければ、絶対の宗教とは言えないのです。
 日蓮正宗の仏法は、どこからみても矛盾がありません。普遍妥当性があります。科学です。大生命のうえにたった信仰ですから、その確信をもって、邪宗教を破折していただきたいと思います。
 今、大御本尊様は、日蓮大聖人様の御生命です。大聖人様は仏界所具の人間界のお姿、われわれは人間界所具の仏界の生命が、大御本尊様を拝むことによって湧現するのです。この胸中の肉団には、仏界、菩薩界という生命の働きが、地獄界とか餓鬼界とか修羅界と同じように存在しているのです。その最高の生命の力、最高の宇宙の本源の法則、最高の人格の力と申しますか、生命・生活活動の源泉力というものを、大聖人様は御本尊様を拝むことによってその縁に触れて湧現してくるのです。それによって、私どもの物心ともの生活活動があらわれるのです。ですから、あくまでも道理にかなわない宗教は邪教である。科学的でない、哲学もない宗教は邪教であると叫ぶのが、私どもの主張なのです。
 最後に現証。現実の証拠です。論より証拠と申しますが、どんなにりっぱなことを叫んでも、事実、生活のうえに、その証拠が出たか出ないか、幸福の生活になったかならないか、これがもっとも大事なのです。病気がなおったかなおらないか、永遠の生命を獲得したかしないか、絶対の幸福境涯を、安心立命の境地を会得したかしないか、これが証拠になるのです。日蓮正宗の仏法においては、絶対に生活のうえに証拠が出なければならないというのが、大聖人様の仏法なのでございます。
4  他の宗教はりっぱそうなことは言います。言いますけれども証拠は出ません皆さん方も他の宗教をおやりになっておったと思いますが、いくらりっぱそうなことを言ったって、りっぱそうなことを言うからいい宗教ではないのです。りっぱそうなことを言わなければひろまっていかないから、金がもうからないから、りっぱそうなことを言うのです。口などというものは、なんでもりっぱそうなことは言えます。しかし、あくまで日蓮大聖人様は仏様です。政治家でも、ペテン師でもありません。三世永刧の衆生を根本的にお救いくださる仏様です。日蓮大聖人様のおおせにウソはございません。その証拠に、日蓮大聖人様のお残しくだされた御本尊様を拝んだならば、生活のうえに幸福の証拠が出る。この証拠が大事なのです。他の宗教にはこの証拠は出ない。
 日蓮正宗は幸福の証拠がでる。あくまでも皆さん方も証拠をはっきりおつかみになっていただきたい。それは体験です。体験が確信となります。その体験をもって、邪宗教の人々を折伏しきっていただきたいと思うのです。
 因果の理法です。御本尊様を拝む。証拠が出る。原因・結果です。この証拠が出ないような人は観念的なのです。一生懸命信心をしていないということになってしまうのです。ぜんぶ証拠が出るのです。体験が大事なのです。ここから出発するのです。病気がなおったか、なおらないか。金持になったか、ならないか。商売が繁盛したか、しないか。自分の境涯が開いたか、開かないか。信心即生活です。生活のうえに、御本尊様の功徳を燃えあがるほどいただいて、今世の人生を、有意義に暮らしていこうではありませんか。
 それだけ、きょうは申し上げまして、皆さん方の確信の一端でも、強めていただきたいことを切望したします。この次はまた、支部旗ならびに部隊旗の授与式にぜひとも皆さん方のお元気な姿を拝見してきたいと考えておりますから、どうか元気にがんばってください。

1
1