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志木支部幹部会 法華誹謗の罪

1960.6.24 「会長講演集」第1巻

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2  その信・行・学を実践しきった場合はどうなるか、今世において厳然たる物心とものしあわせの証拠が、今皆さん方の前にすわっておられる大幹部の先生方の姿であると、私は訴えておきます。
 理事長の原島先生のお姿を見ても、御一家の姿を見ても、幸福にみちみちております。信心なさって二十年になられていますけれど、その時のお姿はどうか、十年前のお姿はどうか、私も存じております。写真の姿を見ても、今とぜんぜん違います。それから御一家の姿を現在から見た場合、天地雲泥の差です。幸福にみちみちておられます。
 それから和泉先生のお姿をみても、どうみたって力道山以上です。それが十年前の姿を見てごらんなさい。考えられません、貧相なお姿で。そのとなりの北条副理事長さん、やはり七年、八年前の姿と比べてみた場合はえらい違いです。生活のうえでも、名誉のうえでも、それから家庭のうえでも、いっさいの社会的力のうえでも。七、八年前のお写真をみると、坊ちゃんみたいな写真ですよ。今みたいにこんな、聡明な力強い相ではありません。
 それから相原先生もそうです。信心した当時は非常に泣き虫で家を追い出されること何遍、十何遍でしょう。今では世界の名士のひとりでおられます。それから辻先生も、七年、八年前のお写真をみると、それはまた貧相で考えられない姿だったのです。それが、今は参議院議員となられ、法務委員となられて、生活も厳然たる功徳にみちみちて、内外の人々にうらやまれるような生活をしております。
 こちらにおられる竜先生だって同じですよ。七、八年前には職工さんだったのです。それで、その日その日を、いろいろな、その鉄クズをかついで、なんとか生活革命をしていこうというように、御本尊様にすがりきっておった信心の姿を、私は拝見しております。今では都会議員となって、それこそ大勢の議員さんを向こうにまわし、堂々たる王仏冥合の姿をとっておられます。
3  これらの姿を見ればわかるでしょう。ただ、学会の大幹部の先生方の家は、非常に質素なのです。
 このことなどは、ある意味からいえばうれしいし、ある意味からいえば、もう少し、りっぱな家に住んでいただいたほうがいいのではないかと思うこともおるのですよ。原島先生の家へたまたま行くのですが、恥ずかしくて前に車をとめられないというのです。
 それから。和泉先生の家は、十階建の鉄筋コンクリートの家にはいっておりますが、九階のアパートの一室なのですよ。
 北条先生の家はですね、表札は、衆議院議員か大臣級の大きな表札ですけれども、だんだん、だんだんはいっていくと、オンポロの二階建なのですよ。
 辻先生のおうちも同じですよ。それから柏原先生も、自分では、いい家を造ったと思っていますが、バラックみたいなうちなのです。
 そういうようなわけで、しかし姿はそうですけれども、生活内容はそれこそ、もう福運にみちみちております。その家だけは、あんまりよくしてしまうと、私の家も同じですよ、なるべくうちの前へ車をとめないで、一軒か二軒か先にとめようと思っていますけれどもね。その家の姿はそうでありますが、内容は幸福です。なにひとつ不自由しないように、それだって質素で、それが大幹部の生活でございますから、皆さん方は、家まで大幹部の何倍、何十倍の構えをもっていけるような、充実しきった幸福生活をしていただきたいと念願するものでございます。
4  大御本尊様をいただいたということは、それこそ言語に絶する福運なのです。
 高山樗牛、宮沢賢治は、一生涯、全精根を投げうって法を求めて、やっと法華経にきているのです。だが、文上しかわからず、文底秘沈の大法の三大秘法の大御本尊様にお目にかかることにできず、早死にしたのです。高山樗牛も宮沢賢治も三十代です。それで死んでいます。苦しい生活、苦しい病魔にとらわれ、死魔にとらわれ、それで法華経を賛嘆しきって死んでいるのです。不幸な人々であります。
 『かかる日蓮を用いぬるともあしうやまはば国亡ぶべし』今、私どもは『無上宝珠不求自得』求めずして大御本尊様を拝み、大御本尊様を信じたということは、全人類、全世界にさきがけて、これ以上の幸福者はないということを、しみじみと感ずる時が、私はこなくてはならないと訴えるのでございます。
 往々にして、初めのうちは『こんな信心してたいへんだな。ほかの信仰と同じではないか』というふうに考えがちになるのが凡夫のつたなさなのです。そうではありません。いっさいの宗教は、幸福にさせてくれません。釈尊の本懐、天台大師、そして伝教大師の本懐、せんぶ日蓮大聖人様の三大秘法の大御本尊様に要約されているのです。したがって他の宗教は邪教で、日蓮正宗の大御本尊様は絶対に宗教の根本であり、いっさい、仏法の本髄であり真髄であり、これ以外に私どもの幸福も、全世界の人々に訴える幸福の直道はないということだけは、声を大にし、確信をもって人々に伝えていただきたいと思うのでございます。
 これが日蓮正宗創価学会のただ一つの確信なのです。要約すれば、それしかないのです。なぜそうかということについては、御書を拝読し、六巻抄を拝読し、そしてまた、富士宗学要集をひもといていけば、また法華経をひもとき、天台大師、伝教大師の経巻をぜんぶひもといていくならば、そこに帰着するのです。心配ありません。いくらでも、これから勉強する機会がありますから。その裏付けは、いくらでも先輩の幹部の方々に、おそわっていただきたいと思うのです。
5  もうひとつ、なぜそれでは大御本尊様を信心しなくてはならないかという問題なのです。今私どもは、生活も裕福であり、健康である。なにも悩みがないというならば、信心する必要はないのです。
 だが、そういう生活や健康状態は、今はそうであるが、三年、五年、十年先はどうなるかわかりません。そうすると、やはり信仰が必要になってくるのですけれども、だが裟婆世界における一切衆生は悩みがないという人は絶対ないのです。悩みがないみたいにすました顔をしている人がいますが、心のなかでは、われわれ以上に悩みがあるのです、ほんとうは。それで、法華経の勧発品第二十八にその原理があるのです。たとえていえば『地によって倒れるものは地によって立て』法華経誹謗の報いによって、こうこうこのような罪業に苦しむのだ。したがって大御本尊様を賛嘆する以外に罪障消滅、仏になる道はないという原理があるのです。
 『若しは実にもあれ、不実にもあれ』大御本尊様を誹謗した原因によって、今この世に生まれて、このような苦しみをもつのだ。いくら努力しょうが、いくら勉強しようが、いくら名誉をもとうが、その三世の因果論のうえから立ったならば、御本尊様を拝む以外に、賛嘆する以外に、その悩みは解決できないのです。
 たとえて言うならば、目が悪い人『世世まなこなかるべし』めくらである。今の医学では解決できません、これは。解決できうるみたいに見える分野も、たくさんありますが、法華誹謗の遠因、遠くの原因です。本質、根本原因というものは、今の医学では解決できないのです。
 その根本の原因の解決、遠因の解決、これが仏法になるのです。目の悪い人、やぶにらみ、御本尊様を拝む者を、この目で誹謗したから目を悪くしているのです。または、この目で邪宗教を信心したから、この目を悪くするのでしょう。因果の法則です。近眼もそうでしょう。
 それから、平鼻といって鼻が低い人です。前から見ると鼻の存在はわかるけれども、横から見るとホッペタのほうが高いというような人、これは誹謗する場合に息がかかるのでしょうね、やっぱり。
 牙歯き欠け、歯がバラバラである。いつもいつも歯が悪い、胃をこわして長生きできない。やっぱり誹謗する息がかかるから、ここをやられるのではないかと想像つきますね。それから、この唇が非常に厚くて、それで色が悪くておかしい格好の人、誹謗する息がかかるがゆえに、みにくい唇になる。このようにも考えられるというふうに、たくさんの姿があります。
 手脚繚戻しゅきゃくりょうらい、びっこである、かたわである。ほんとに『御本尊様を拝んでいる者はなんだ、このやろう』といって、それがやっぱり原因になって、手が曲がり、足が曲がるのではないかと想像もつきます。
 それからライ病、短気、ゼンソクです。『ゴホン、ゴホン』と非常に苦しい息をしなくてはならないのは、やはり御本尊様誹謗の報いだと考えられます。水腹、水ぶくれ、それから身体臭穢にして膿血、からだがくさい。悪性の臭病、せんぶそれらは経文に出ております。それでそのほか、もろもろの悪重病、このなかにバカもはいるでしょうし、根性曲がりもはいるでしょうし、どんなに自分で努力してもなおらない。そのために一生が不幸である。生活が不幸である。離婚しなくてはならない、ずいぶんあります、こういうことは。また金欠病などというのも、もろもろの悪重病のなかにはいるのではないかと思われます。ペニシリンを打ってもなおりません、これだけは。
 こういういっさいの解決、苦しい不幸の生活、それらを、宿命転換して、幸福生活をするためにも、大御本尊様を信じ、大御本尊様を賛嘆し、大御本尊様をわれわれは拝まねばならない宿命ではないかと思うのです。
6  人のためにでもなく、日蓮正宗のためでもなく、志木支部のためでもなく、地区のためでもなく、班のためでもございません。自分自身がそうしなくては幸福になれないという宿命のために、私どもは御本尊様を拝むのです。
 ある宗教では人間は神がつくった。この世の中は神が生んだのだ。天理教、キリスト教ではそう説いておりますが、もし神さまが人をつくったならば、もっとりっぱな人間にしてつくってもらいたかったと思うのです。長谷川一夫みたいにつくってもらいたかったです。女の人は山本富士子以上の人間の顔につくってもらいたかったと思うのですよ。そんな無慈悲な神、そんなことは考えられません。それだけでも神は無慈悲である。神が人間をつくったなどという非科学的法則は否定される問題です。せんぶ因果の理法であり、永遠の生命であり、それが生命科学であり道理であり、われわれの頭脳で、科学観で考えた場合でも納得のできる生命観です。
 その生命観に立った場合でも、私どもは、どうしても御本尊様を拝んで、そうして仏界を湧現して罪障消滅して、幸福生活をしていくことが正しい宗教観であると信じます。
 しっかり御本尊様を信じて、仲のいい、楽しい、明るい志木支部であられんことを、心から切望して私のお話とさせていただきます。
 最後に、きょうお見えになれなかった志木支部の同志の皆さん方に、くれぐれも、会長からよろしく伝えてくれと、こういうふうに言っておったことをお伝え願いたいことを、重ねて、お願い申し上げまして失礼いたします。

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