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日蓮大聖人・池田大作

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文京合同幹部会 上根・中根・下根

1960.6.21 「会長講演集」第1巻

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1  文京の同志の皆さん方、なにとぞ今後ともよろしくお願いいたします。
 世の中を見ますと、ぜんぶ自界叛逆難、メチャクチャです。たしかに、真剣に、まじめに日本の将来を考えてみるならば、恐ろしい将来です。団結をしているのは創価学会しかありません。あとは、ぜんぶ自界叛逆難、私もこういう立場になって、ずいぶんいろいろな世界の話も聞きますし、そういう社会の人とも会っておりますが、信頼できません。かわいそうなようです。信念も理念も、何ももっておりません。
 私どもは、日本民族のためにも、東洋民衆のためにも、またこれからの日本民衆の後輩のためにも、大御本尊様を中心にして、第一にも創価学会は団結、第二にも団結、第三にも団結して、これ以上の楽しい、これ以上の力強い団体はないと、内外に言われるとともに、それしか日本の柱になっていく道はないと確信して進みたいと思うのでございます。
2  仏法に、上根じょうこん中根ちゅうこん下根げこんという話があります。また、有名な話では、親孝行に上品の親孝行、中品の親孝行、下品の親孝行があると同じように。その親孝行の三種について、ある幹部の人が、ジョウヒンの親孝行、チエウヒンの親孝行、ゲヒンの親孝行と一生懸命に指導しておりましたが、中古品ちゅうこひんではあるまいし、そういうみっともない指導の仕方はまずいと思うのです。
 上根・中根・下根について、やはり、だれだか、女のー人なのですけれども、ジョウネ、チユウネ、ゲネなどと言って、非常にその、値段をまけさせようというみたいな話しっぷりで指導しておったこともあるのですがね。われわれの機根を三種類に分けてあるのです。
 上根というのは、今、私どもが大御本尊様を拝んでいる立場から拝すれば、考えるならば、御本尊様を受けて、一生懸命に信・行・学に励んで、功徳をうけ、人のためにも進んでいける人は上根なのです。上等なのです。
 それから中根、大根ではありません、中根です。ちょうど御本尊様をうけ、非常にまじめに
 やっているが、なかなか大確信が湧いてこない。で、二年たち、三年たち、四年たち、五年たって、初めて大御本尊様を、すごく大好きになり、大御本尊様のお使いとして一生懸命に、信・行・学に励んでいく階級の人なのです。こういう人もたしかにおります。
 下根というのは、これは一番下になるわけなのです。ここにはいないと思うのですが、そういう下根の人は。ほかのほうの支部、ほかもまずいですね、これは。インドネシアのほうです。来年の一月には、もったいなくも猊下様とごいっしょに、インドへ行く予定でございますから、よろしくどうぞ。向こうのほうはなかなか信心しないから、下根ですよ、それは。下根というのは、今度は学会人の立場から考えた場合ですね。それは、御本尊様をうけた、だが、ああだ、こうだ、どうだと、なかなか一生懸命やらない人なのです。批判したり、それから勤行しなかったり、折伏しなかったり、たまに三遍お題目をあげたり、そういうふうにしていく信者ですね。
 いずれにしても、上根の人は間違いなく成仏はできます。中根の人も間違いなく成仏はできるのです。下根の人はどうか、下根の人であっても、死ぬまぎわに、必ず目ざめなければならなくなっているのです、仏法では。そこで目ざめて、ざんげし、御本尊様に題目をあげて死んでいくことになっているのです。
3  今世に御本尊様を受けて成仏しなければ、来世も辞難世も、成仏するまでは、御本尊様を拝み、折伏をしきり、勉強しきっていかねばならないよ少な宿命になってしまうのです。なるべく今世で、一生成仏の南無妙法蓮華経ですから、今世で早く卒業をしたほうが、トクだと思うのです。
 ここで申し上げたいことは、上根でも、中根でも、下根でも、大御本尊様の偉大なる御慈悲に浴するならば、最後はみな仏になれる、功徳をうける、こういう大聖人様のおおせでございますから、いままで、いろいろな、上根の人も、中根の人も、下根の人もあったと思うのです。
 なにも、批判しようが、退転しようが、べつに私どもは、損得はないのです。自由です。しかし、それではかわいそうだと思いますし、大御本尊様は非常にそういう人に対しても、なんとか、題目三遍唱えても、福運を与えてあげたい、永遠に御本尊様を放さないようにしてあげたい、その大慈悲をこめていらっしゃるわけです。
 そういう意味において、私は、どんなことがあっても、どういう事態に立ちいたっても、どういう境遇にはいっても、御本尊様と離れない、御本尊様にすがりきっていけば、御本尊様を忘れなければ、最後は仏になれる仏法でありますから、御本尊様とは離れないという自覚に立っていただきたいのでございます。
 指導する場合においても、この三つの上・中。下枝の原理を忘れないで、信心を、その人が今、退転しそうになったから、その人が折伏しないから、だからあなたはダメなのだとして御本尊様を返させるような行き方がこわいのです。御本尊様さえ持っておれば、今申し上げたごとくに、仏になれるし、必ず最後には目ざめてくる。私どもも、それを自覚し、指導する場合にも、その方程式を忘れないように、大御本尊様の大功徳につつまれて、激励しあって、がんばっていきましょうね。
4  また、私どもは、いちばん三障四魔にあい、三類の強敵にあい、強く、自分自身にいましめていかねばならないことは、御本尊様を放してはならない、題目さえ唱えきっていけば、必ず春がくるのだ、幸福になれるのだという、その一念なのです。『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』というのは、暴力で強く戦えとか、人々を圧迫し、圧力を与えるようなことばで指導しろとか、折伏しろとか、そういう意味ではないのです。御本尊様を拝む、御本尊様を持つ、その一念の臆病がいけないのだという意味なのですね。もしか、難があり、三障四魔があったときに、どんな強そうなかっこうをしても、肝心かなめの、その御本尊様を慕う一念がなくなってしまったならば、強いかっこうなどというのは形式なのです。一番、その人は弱い人なのです、実際は。臆病者なのです。
 そのことについて、大聖人様は、『今世は大御本尊様を捨てる、信心をやめることができても、その臆病の心は、永遠につながる。タカにあえるキジ、ヘビにあえるカエルを他人のことと思うことなかれとおおせです。いずれの時代にきても、やはりいじめられ、圧迫され、苦しんでいく、その三世の生命観なのです。ですから、御本尊様を捨てる、離れることは絶対にやめて、これだけは、最後の最後まで、一生涯、強い心をもって持ちきると、こういう信心でいこうではありませんか。
 なにとぞ、きょうお見えにならなかった文京の同志の方々に、くれぐれもよろしくお伝え願いたいことを申し上げて、私の話といたします。

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