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日蓮大聖人・池田大作

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中野合同幹部会 折伏の原理

1960.6.17 「会長講演集」第1巻

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2  大御本尊様に照らしてみる場合には、いっさいの因果の理法が、明々赫々とわかるのです。三世の因果の理法が、鏡に照らされてわかってくるのです。そういっても、私どもはよくわかりませんが、いっさいの現象は、いっさいの人生は、因果の理法です。科学です。
 今、私は、大きい問題になっておる、アイゼンハワーのくるべき問題について、その理法から試してみるのですがね。岸総理大臣が、かつて、大石寺にお参りにきかかっていてこなかった。今度は、岸先生が、アイゼンハワーをお呼びしようと思ったのに、きかかってこない。因果の理法ではありませんか。大石寺で、数千の青年が待っておった。今度は全学連という数千の青年がいるためにこられない。このように、いっさいの三災七難、個人の生活、ぜんぶ大御本尊様に照らしてみるならば、明々赫々であると断言しておきます。
 私どもは、日本人として、日本の国を滅ぼして十五年、ますます日本民族の将来は、どうなるのであろうか。寂しい、苦しい気持ちです。わが子のためにも、子孫のためにも、また、同じ同胞である日本民族のためにも、おたがいが、あらゆる分野において、政界、財界、科学界、それぞれ指導者の人々は、一生懸命にやっておるかもしれませんし、また、やってくださらなければならないと念願しますが、今、私どもは、日蓮正宗創価学会の活動により、日蓮大聖人様のお教えを、そのままひろめていくならば、宗教の分野で、根本的に、日本の国が救えるということを知っております。信じております。
 そうであるならば、私どもひとりひとりも、創価学会とか、日蓮正宗とかは別問題にしても、大聖人様のおおせどおりに、大聖哲のおおせどおりに、わが子のためにも、子孫のためにも、同胞のためにも、全世界の人々に、日本民族の優秀性を知らしめて、貢献するためにも、折伏して、折伏して、折伏しきっていかねばならない義務があると思います。
 それ以外に創価学会の前進はありません。どうなってもいいのであるならばやめましょう、おたがいに。自分だけのため、やれ創価学会の幹部がどうのこうの、日蓮正宗のお布施がどうのこうのという考えであるならば、その人はその人で、勝手にやっていけばいいのです。
 現実に、人間として、日本国民として、民族として、私どもは大法を知ったのですから、その熱情と、真心で、人を救っていこうではありませんか。それを学会精神というのです。それ以外ありません。なんにもありません。
3  また、今度は、なぜ折伏をするか、しなくてはならないかということを、理論的に申し上げれば、功徳を受けるために、仏になるためにです。会社にはいって、会社の社長の言うとおりにやらなければ月給をもらえません。クビになります。罰です。働きに行かないで、月給をくれないと言っておこっているのは、道理にあいません。因果の理法にもあいません。どんな場合でも、寒くても、暑くても、ねむくとも、二万円、三万円、四万円の月給、功徳をもらうためには、社長の言うとおりに、その主人の言うとおりに働ききってこそ、安心して生活ができるのです。
 日蓮大聖人様は『末法の仏になる修行は、自行化他である。これだけである。題目を唱えることと、折伏をすることである』と教えられています。その題目と、折伏をしないで『功徳がない、どうも、おかしい』そうはいかないのです。これだけが末法の修行である。功徳をうける直道である。ですから、日蓮大聖人様のおおせどおりにするならば、絶対に仏さまが、ウソをつくわけもありませんし、功徳をくださらないわけは断じてないと、私は信じます。
 もしか、それで功徳をくださらなかったならば、仏さまはウソつきです。そんなのやめましようよ。全学会の幹部の人々が、その証拠です。きちっと十年も二十年も、一銭の給料ももらわないで、一生懸命に折伏をしてきた。結果として、厳然たる功徳の証拠を見せております。
 また、私どもは、人間として、不幸の人を見た場合に、幸福になれる道があった場合には、教えてあげるのは義務です。子供がおぼれて死にかかっている――。『ああ、子供が死にかかっている。どうせ他人なのだから見ていようではないか』そうはいきません。そういう気持ちは鬼です。『救ってあげよう、早く上がりなさい』これが人間としての常です。情です。
 と同じように、大御本尊様を知って、おのおのの立場で、おのおのの功徳をうけております。また、大聖人様の『いっさいの不幸の根源は邪宗教である』ということも私どもは知っております。教わっております。それを知らない人々に教えてあげることは、人間として、当然なすべき義務であると、私は思うのでございます。
 それを教えないのは、利己主義です。個人主義です。よく先生は『それを教えないことは、ネコが、台所のかげに回って、自分だけ一生懸命に、魚を盗んで食っているような心だ』とおおせになっておりました。
4  また、もう一つ申し上げれば、折伏をすることは、まず自分自身の宿命転換ができる直道であるとともに、大福運を積むことです、仏さまのお使いですから。相手の人が反対した、反対しても聞法下種で功徳をうけます。相手の人が信心した場合、今度は相手の人が信心して功徳をうけた、その功徳をまで、また回向されます。
 相手が反対しようが賛成しようが、せんぶ自分の功徳になります。それで悪口を言われた。『なんだ、病気のくせに、貧乏のくせに』と言われれば言われるほど、早く宿命転換できる、罪が消える、一石三鳥ではありませんか。
 これが仏法の原理です。折伏の原理です。せんぶ宿命転換し、功徳をうけ、仏になる最直道の方法が折伏です。したがって、戸田先生は『信心とは折伏なり』とおおせになりましたが、今、私どもは、大御本尊様を拝し、折伏にたって、感激をもって『ああ、最高の人生を生きていけるのだ。過去遠々劫の罪障を消してくださるのだ。大事な一個の人間を根本的に救わせていただけるのだ』という、大御本尊様に向かっても、折伏にたっても、感激に燃えていく信心修行をしたいものであると思います。以上をもって私の話を終わります。

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