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日蓮大聖人・池田大作

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3 教育の使命と青年への期待  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

前後
1  池田 私たちの対談の締めくくりとして、未来を展望し、教育と青年の使命をテーマに語りあいたいと思います。世紀末から新しい世紀へ――時代は今、大きな過渡期を迎えています。
 この二十一世紀を「平和の世紀」にできるか否かは、あくまで「人間の意志」にかかっています。
 これまで悲劇が繰り返されるたびに、人類が贖ってきた代償はあまりにも大きかった。「戦争と暴力の世紀」と呼ばれた二十世紀の教訓を無にせず、強い決意をもって、悲劇の流転史を終わらせなければなりません。
 クリーガー 同感です。人間が変わらなければなりません。私たちは、もっと勇敢な人間にならねばなりません。平和に生きる勇気を持たねばなりません。そして、「核時代」に終止符を打たねばならないのです。では「核兵器のない世界」を、どうやって築いていけばよいのか――そうした努力の一環として、焦点となったのが、世界百八十七カ国の代表が集い、二〇〇〇年四月から五月にかけてニューヨークの国連本部で行われたNPT(核拡散防止条約)の再検討会議でした。
 私ども「核時代平和財団」では、会議の開幕日にあたる二〇〇〇年四月二十四日の「ニューヨーク・タイムズ」紙に、われわれは何をなさねばならないかについて、意見広告を掲載しました。
 これは「人類に対する核兵器の脅威を終わらせるためのアピール」と題するもので、元アメリカ大統領のジミー・カーター氏、「パグウォッシュ会議」のロートブラット博士や、コスタリカのアリアス元大統領など、世界を代表する五十六人の指導者の連名で発表したものです。
 池田 会長にも賛同をいただいたアピールの中では、「核兵器が二度と使用されないことを確かなものにする唯一の方法は、核兵器を廃絶することである」と述べています。このアピールを私は、NPT再検討会議のバーリ議長に、「アボリション二〇〇〇」の署名の目録と一緒に贈呈しました。
2  "脅威の本質"を見つめ直せ
 池田 今後の核軍縮の進展に大きな影響をあたえる、重要な意義をもつ会議でした。
 残念ながら、私たちが求めていた核廃絶への具体的な実施計画は打ち出されませんでしたが、最終文書で「核保有国による核廃絶の明確な約束」が初めて謳われるなど、一定の成果を得ることができたと思います。とくに、核兵器能力を開示する「透明性の強化」や、削減した核兵器をふたたびふやすことを認めない「不可逆性の原則」の適用、アメリカやロシアだけでなく「すべての核保有国の核廃絶プロセスへの関与」を盛り込んだことは、特筆すべき点ではないかと思います。
 クリーガー 会議では、予想されたとおり、核保有国と非保有国との間で厳しい意見の対立がみられました。一時は最終文書の採択さえ危ぶまれましたが、こうした状況を乗り越え、百八十七カ国が全会一致で合意した文書には重みがあります。
 かなりの項目で、具体的な措置や期限が定められていないなど、今後に課題を残した内容ではありますが、核保有国は、この合意を誠実に履行する責任があることを自覚すべきでしょう。
 保有国が、今までと同じように抑止論に固執する限り、「核廃絶の明確な約束」も、いつ実現されるともしれない"空手形"になりかねないのです。
 池田 同感です。事実、NPT再検討会議の成果を受けて、多国間交渉の舞台となった国連の「ジュネーブ軍縮会議」では、審議の前提となる作業文書さえ合意できないまま、会期が終了しました。こうした状況は一九九九年以来、二年連続で続いており、まことに憂慮すべき状況といえます。
 その現状をまねいたのは、NPTや軍縮会議の制度上の問題よりも、核廃絶への明確な政治的意志が保有国に欠けていることが大きいと思います。
 NPTの会議で「核兵器完全廃棄への明確な約束」という文言を核保有国が最終的に認めたのは、非保有国が主導する「新アジェンダ連合」とこれを支援するNGOの働きかけがあったからこそですが、この流れを後退させないためには、"民衆世論の包囲網"をさらに強めながら、核保有国に「約束」の誠実な履行を迫っていく必要があります。
 クリーガー 私どもの財団が、先ほどの「人類に対する核兵器の脅威を終わらせるためのアピール」への賛同署名を世界で幅広く募っているのも、そのためです。
 池田 長年の交渉を経てようやく合意を得ても、核兵器の脅威は減ることはなく、新たな形で軍拡が繰り返される――まるでギリシャ神話の"巨石を押し上げては落とされるシシュフォス"のような悲劇は、二十世紀で断じて終止符を打たねばなりません。
 そのためにもまず、二〇〇一年から二〇一〇年までの十年間を「核廃絶への実行の十年」と位置づけ、NPT六条にもとづく軍縮プロセスを速やかに開始すべきではないでしょうか。
 二〇〇〇年の国連総会でも、CTBT(包括的核実験禁止条約)の二〇〇三年までの発効や、カットオフ(兵器用核分裂物質の生産禁止)条約の二〇〇五年までの締結など、明確な年限目標を盛り込んだ決議が採択されました。
 こうしたさらなる軍拡を防ぐ枠組みの確立とともに、米ロだけでなく全保有国が核兵器の削減を現実に推進させる必要があるでしょう。
 具体的には、NPTの再検討会議では、ジュネーブ軍縮会議に核軍縮をあつかう下級機関を設けることが合意をみましたが、この機関でスケジュールの立案のための協議を継続的に行い、履行の確認を行っていくことが望ましいと思います。
 クリーガー 全面的に賛成です。全世界の民衆の声の高まりによって勝ち取られた合意を、誠実に実行するよう、核保有国の指導者たちに迫っていく必要がありますね。
 そのためにも、国益の壁に阻まれて、遅々として進まない核軍縮の状況を打開するためには、私はまず、核保有国の指導者たちが核兵器が人類ならびに自国にもたらす"脅威の本質"をあらためて見つめ直す必要があると考えています。
 核兵器の誕生は、歴史を一変させる出来事でした。人類は今後も、利用可能な科学技術のすべてを戦争に用いる危険性があります。戦争によって紛争の解決を求める政策が続けられるならば、間違いなく人類の未来は暗い。恐らく、人類の未来はないでしょう。
 現代の人類が"生物種"としての自分自身を絶滅しうる地点に到達したことは、実感するにも、由々しいことです。
3  核戦争後は"生"がないから"死"もない
 池田 核戦争によって、人類という"種"そのものが絶滅してしまう世界――かつて『地球の運命』(斎田一路・西俣総平訳、朝日新聞社)で全面核戦争に警鐘を鳴らしたジョナサン・シェルは、これを「死の死」という言葉で表現していましたね。つまり、核戦争後の世界は"生"がないのだから"死"もない、と。
 クリーガー 人間がいなくては、歴史もありえません。過去を解釈して未来に伝える可能性もなくなります。人間の死とは、すなわち人間の英知の死であり、創造性の死――皮肉なことに、科学技術の死をも意味するのです。かりに他の知的生物が宇宙に存在するとすれば、地球を訪れた彼らは、われわれが科学技術を制御する意志を発揮できずに、みずから滅びてしまったことを発見するでしょう。
 私たち人類が失敗にいたった理由を彼らが特定できないとしても、二十万年以内に地球を訪れるならば、そこに散見されるプルトニウムの痕跡から、いかなる形で私たちが過ちを犯したかを知り、核の脅威を認識することだけは間違いないと思います。
 もちろん、これは仮定にもとづいた話であり、私たちが直面する共通の脅威に関する想像上の可能性にすぎません。しかし、この「想像力」こそ、人類が直面する歴史的挑戦に対処する"カギ"ではないでしょうか。すべての人間がいなくなってしまう未来の姿を想像できるならば、そのような未来を防止する行動を起こせるはずです。
 池田 自分たちの生活が、じつは、そうした危険とつねに隣り合わせにある――その厳しい現実を認識することが、すべての出発点になりますね。イギリスの哲学者バートランド・ラッセル氏は、こう表現しました。「私たちの世界は、安全保障についての奇妙な概念とゆがんだ道徳心を芽生えさせてきた。兵器は財宝のようにシェルターに守られ、子どもたちは焼却の淵にさらされている」と。ラッセルは、「核時代」にみられる、こうした倫理的な崩壊を、鋭く告発したのです。
 未来の宝である子どもたちを危険から守ることより、核兵器の保持に腐心する――そんな転倒を許しては、絶対になりません。こうした状況を見すごせば、人間性の敗北につながってしまう。人間は、破壊のために生きているのではない。人間には、平和と幸福を創造する精神の力が備わっているのです。
4  人類の勇気と協力で核兵器と戦争の廃絶を
 クリーガー 要は、そのような力を活用するかどうかの問題です。人間には、善の面も多いのです。愛する心、慈しむ心、思いやる心、分かちあう心、他の存在を歓ぶ心、創造する心、感謝する心が、人間にはある。それらは、人間性そのものと同じく保持すべき価値があります。
 われわれが道義的に正しく生きていく未来を想像できるなら、そのような未来を創出する可能性が、われわれにはあるのです。しかし、そのためには、まず種の生存そのものを脅かす科学技術を制御することが必要になります。そして、暴力によらずに紛争を解決する、新しい方法に関して合意に達しなければなりません。
 つまり、まず核兵器を廃絶し、次に戦争を廃絶することです。核兵器の廃絶は「未知なる状況への一歩」ですが、「絶滅の淵から退く一歩」でもあります。戦争の廃絶は、戦争原因の解決方法の発見を必要とします。これらは、人類のための新たな一歩――それは、月面着陸の最初の数歩よりも、はるかに大きな歩みといえるでしょう。
 月面での歩みは、科学技術がなしとげた"離れ業"でした。しかし、人類が「絶滅の淵から退く一歩」となる、核兵器の廃絶と戦争の廃絶は、過去に人類がなしとげたどんなことにも増して、勇気と世界中の人々の協力が必要となるのです。
 池田 私どもSGIも、人類共闘のための連帯をつくりあげるために、行動を続けてきました。世界各地で巡回展示を行ってきた、「核の脅威展」や「戦争と平和展」などの活動は、その一環です。
 国連本部での「戦争と平和展」(八九年十月)に寄せたメッセージの中でもつづりましたが、座して地球の危機を看過するのではなく、「志」を同じくする人々の連帯の輪を広げ、人間の「勇気」と「英知」は、なにものにも屈伏しないことを示したい。それが、私どもが次の世代に贈ることのできる最高の「財産」ではないでしょうか。
 クリーガー そのとおりだと思います。池田会長が主張されているように、私たちにとって必要なのは、
 現在の"歴史的な行き詰まり"を乗り越えて、新たな一歩を踏み出すための「人間の合意」です。そのためには、リーダーシップと不屈の忍耐が必要です。
 変革への政治的意志をつくり出すには、変革への民衆の支持基盤をつくりあげることが先決となります。
 問題の重大さを民衆が認識するとともに、解決は可能であることを認識するには「教育」が必要です。有害な政治的欺瞞を見破るにも「教育」が必要となります。
 未来はみずからの手中にあり、変革への政治的意志をもたらす力もみずからにあること、変革は手品師によってもたらされるものではないことを、人々は認識しなければなりません。危機の重大さを認識した人々が「連帯の輪」を広げ、さらに多くの人々を行動へと奮起させていく――これが、私たちが進める「アボリション二〇〇〇」運動、そして、世界中のNGOの課題といえましょう。
5  歴史創造の原動力は、じつは民衆にある
 池田 まったく同感です。SGIの平和運動の立脚点は、「地球上から悲惨の二字をなくしたい」と訴えた戸田第二代会長の言葉に象徴されます。人間の尊厳を脅かす、あらゆる社会悪を打ち破り、すべての人々が平和と幸福を享受できる社会の建設が、私たちの目標なのです。そして、クリーガー所長が強調されたように、SGIの運動もまた、「歴史創造の原動力は、じつは民衆にある」との強い信念と確信に根ざしています。
 これまでSGIは、
 さまざまな形で平和運動を行ってきましたが、その一つの柱が、意識啓発を目的とする展示活動でした。先に言及した核廃絶や不戦をテーマにした展示をはじめ、人権や環境問題など地球的問題群を取り上げたものもあります。
 このほか、「世界の少年少女絵画展」など、親子が楽しく鑑賞し、未来を見つめることができる展示も行ってきました。同展は、世界各地で好評を博し、二百万人以上が訪れています。
 クリーガー 私は、SGIが開催してきた、すべての展示会を拝見したわけではありませんが、「核の脅威展」をみるにつけ、きわめて貴重で、得るところの大きい展示内容であると感じました。
 その展示は、いかに核兵器は恐ろしいか、その危険性をさまざまな形で、また包括的に示すもので、その危険性をなくすために、われわれには、まだまだ大きな仕事が残っていることを示唆するものです。
 できるだけ多くの人々が、依然として続いている核兵器の脅威を認識するように、展示会を世界中に巡回することは、とても重要なことだと思います。
6  「行動への決意」を促すSGIの展示活動
 池田 ありがとうございます。私どもの展示には、多くの方々が共感を寄せてくださっています。アメリカでの「環境と人間展」では、スタンフォード大学のドナルド・ケネディ元総長が、次のような言葉を寄せてくださいました。
 「すべては『知ること』から始まる。"無知"ほど危険なものはありません。私たちは、環境問題の意味を把握するとともに、人々に『変革』への理論的根拠をあたえなければなりません。それは、時代の要請となるでしょう。この展示は、訪れた人々に理解とともに決意を促すものです」と。
 たんに問題に対する「正しい理解」を深めるだけでなく、人々に「行動への決意」を促していく――ここにSGIの展示活動の主眼があります。
 クリーガー 生命の未来への脅威といったような、危機が重大である場合は、「勇気ある主張」を行うこと自体が重要だといえましょう。しかも、その主張は、"人々を行動に向かわせるもの"でなければなりません。たとえ、その行動が自国の政府の立場に反対することにつながったとしてもです。
 グローバルな問題には、グローバルな解決が求められます。だからこそ、人々がグローバルな行動の必要性を理解するような教育が大切なのです。
 展示会の長所は、時代の急所となる課題を集中的に取り上げることにあり、この点はじつに大きな意味があると思います。これを一過性のものにとどめることなく、最終的には、人々がみずから考え、賢明な結論に達する能力を得ることが重要となります。
 しかし、この能力の獲得は、初等教育の段階で多くの人々が"服用"させられた、多量のナショナリズム――「正しかろうが、邪であろうが、わが国家」といった教育に、長らく邪魔されてきたと、私は見ています。
 池田 確かに、人間に、"国益への忠誠"を植え付けるのも教育であり、反対に、"人類益への忠誠"を育むのも、教育です。教育こそが、未来の方向性を決めるのです。
 この教育の重要性について、クリーガー所長はかつて、こう述べられていましたね。
 「民衆に力をあたえていくには、教育しかありません。権力やマスコミの言うことを鵜呑みにせず、それが本当に真実なのかどうか、一人一人が問いかけていく『教育』こそが重要となる。
 こうした真実を正しく見極める『英知』を磨いていくところに、教育の本義があり、何も考えない民衆をつくるのではなく、批判力をもって政治や社会を監視していく民衆を育てなければならない」と。
 至言だと思います。牧口初代会長が提唱した「創価教育学」のめざす最大の目的も、その一点にあるといってよいのです。
 クリーガー 心強い思いがいたします。私は、教育という名のもとに、人々を"洗脳"することに強く反対します。教育を、人々を"従順"にするために利用するのではなく、批判的な思考をする能力をやしなわせる教育こそが求められるべきと思うのです。
 その能力を各々が持ち、自身の判断力を信じるならば、人類のグローバルな普遍的利益をさしおいて、私利や国益を優先するのは、政治指導者たちにとって今よりもずっと困難になるでしょう。
 私たちは、平和教育を、文化に浸透させる道を見つける必要があります。"歴史とは、勝ち負けに終始する戦闘の連続である"といった概念や認識を、それ以上のものに高めねばなりません。
 それには、平和をテーマに高らかに謳う、映画や書物、演劇や舞踊などが必要です。
 池田 SGIが青年部を中心に、世界各地で開催してきた文化祭の目的も、まさにそこにあります。文化祭では、合唱など、各演技を通じて、平和の大切さ、平和のすばらしさを、表現してきたのです。
 と同時に、「平和の文化」を地域に社会に根づかせるために、一対一の対話を地道に続けてきました。
 目立ちませんが、草の根の大切な運動と思っております。
 こうした運動を通し、平和を自分自身の問題としてとらえながら、「生命の尊厳」と「平和の大切さ」を周囲の人々にも問いかけていく――つまり、「ユネスコ憲章」が謳っている、人々の心の中に"平和の砦"を築く「平和の内実化」に挑戦してきたのです。
7  平和教育推進の政策を
 クリーガー 私たちが初めて会ったのも、横浜で行われた世界青年平和音楽祭の時(一九九七年九月)でしたね。戸田第二代会長の「原水爆禁止宣言」四十周年を記念する式典でもあり、「平和の心」を受け継ぐ青年たちの決意が、演目を通し、心に伝わってきたことを覚えています。
 音楽祭が平和の尊さを謳いあげていたように、"平和は、戦争のたんなる幕間のことではなく、それを遙かに超えるものである""平和はわれわれの生活のあらゆる場面に表現される協力のプロセスである"との認識を、人々の間に深めさせていくことが必要です。そのために政府は、国民の税金を軍拡のためにさらにつぎ込むのではなく、平和教育を支え、推進するための政策を考えるべきだと思います。
 私のアイデアとしては、高校と大学での「グローバル・サバイバル」講座の開設――つまり人類の直面する危険を認識するとともに、これらを終わらせるには何をすべきかを学ぶ講座を設け、全学生の必須科目にすることを提案しています。若い人たちが、自分の住む共同体に責任があること、
 その共同体は今では地球を一つの単位とした共同体となっていることを、学んでいく必要があるのです。
 池田 「世界市民教育」ですね。その重要性は、私も主張してきたところであり、「国連世界市民教育の十年」の制定などを呼びかけてきました。
 名称は異なりますが、二〇〇一年から二〇一〇年までを、「世界の子どもたちのための平和の文化と非暴力のための国際の一〇年」と国連が定めたことは、大きな意義があります。
 ユネスコを中心に、平和教育を推進するためのキャンペーンが行われますが、SGIとしても積極的に協力し、支援していきたいと考えています。
 クリーガー "文化と非暴力のための国際の一〇年"は、まことに意義深い取り組みであると、私も評価しています。
 人間は暴力的手段を用いずとも、直面する課題を解決できるはずです。その可能性、希望の源泉は、教室の内外で行われる平和教育だと思います。平和教育は、人間の創造性を生みだすものです。市民社会団体は、人々の心に届く最良の教育方法とは何かについて、知識を交換しあい、協力しあう必要があるでしょう。それを充実させることによって、創造的で献身的で行動的な青年が陸続と育ち、"真にあるべき変化"を世界にもたらすことができるはずです。
 平和教育にとって大きな役割を果たすのが、学生間の交流です。若い人たちが国外に留学したり、旅行したりして、他国の文化のなかに生活しますと、文化の多様性について、じかに学ぶことができます。
 また、国や文化は違っても、人間という存在には変わりがないことを実感できるでしょう。
 これらは大切な「体験的学習」です。
 他の文化をひとたびでも体験すると、その文化に属する人々を、抽象的に敵視することは困難になります。「文化間の対話」は平和に通じる道なのです。
 池田 そのとおりです。仏法では人間生命の絶対的尊厳と平等を説きますが、「世界市民教育」といっても、それは結局、一人一人の心の中に、他者の存在を、心から尊敬し慈しみゆく"共感の心"を、薫発することから出発すべきではないでしょうか。私は、そうした人間への限りない"信頼"と"友情"の心こそが、社会を分断する、あらゆる「差別」や「憎悪」を超克していく、大いなる力になると確信しております。そのためには、所長が述べられたように、胸襟を開いた民衆交流が、今後ますます必要になるでしょう。
 人類は、「心」と「心」の対話を通して、異なる民族や文化との「差異」を、おたがいを隔てる"障壁"ではなく、社会をより豊かに創造していく、"多様性"の表れとして感謝し、尊重することを学ばねばなりません。
 これまでSGIでも、文化交流を重視し、とくに青年同士の交流に力を入れてきました。また、私が創立した創価大学でも、世界の諸大学との交流を積極的に推進しています。私も、大いに青年に期待しています。なぜなら、未来は、すべて青年に託すしかないからです。
 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」――私は、師である戸田第二代会長の、この獅子吼を胸に刻み、平和の二十一世紀を開くために今日まで戦ってきました。とともに、戸田会長と同じ心で、次代を担う青年たちに接し、その成長を願い、
 期待を寄せてきました。
 クリーガー SGIの青年部の活躍は、目を見はるものがあります。
 私たちが推進する「アボリション二〇〇〇」に協力し、千三百万というじつに多くの人々の署名を集めてくださったことは、その一つの証明といえるでしょう。
 青年たちは、自分の時間とエネルギーを割いて、人類の直面する重大な問題を直視して、署名運動に取り組まれました。運動を続けるなかでは、人々に拒絶されたり、嘲笑されることも少なくなかったと思います。しかし、それを乗り越えて、署名を一つずつ集めてくださった。
 私は、二つの意味で、青年たちに感謝の意を表したいと思います。一つは、署名を集めてくださった青年たちの努力に対する感謝であり、もう一つは、「核兵器のない世界」をめざす私どもの財団の目標は達成できるとの希望をあたえていただいたことへの感謝です。
 池田 あたたかなお言葉、ありがとうございます。核廃絶は、かなりの困難がともなう作業ですが、絶対に不可能なものではない。立ち上がる人が一人でもふえれば、核廃絶への道は確実に広がっていくのです。
 そのためには、「自分には何もできないのではないか」という無力感と戦い、行動の第一歩を踏み出す「勇気」を必要とします。厳しい現実に真正面から立ち向かう「勇気」こそ、私たち世界市民が「武器」として持たなければならないものです。
 「勇気」とは人から人へと確実に伝わるものです。青年が正義の声をあげれば、世界は必ずや良い方向へと向かっていくはずです。
 クリーガー おっしゃるように、青年が平和運動の主役にならねばなりません。私どもの平和財団でも「青年諮問理事会」を発足させ、「青年支援・交流担当者」を採用しました。
 私は「希望」をいだいております。民衆の力が現状を変える鍵であるなら、青年たちを啓発していくことが将来のために民衆の力を強める鍵となるはずです。核兵器を保有して生きること、環境を破壊すること、他の人々が飢えているのに自分は金を貯めこむこと、紛争を相互の殺戮によって解決すること、地球の一部分を国家と呼びその周りに人工的な国境をめぐらせて人類を分断すること――これらすべてのことが、いかに愚行であるか、いかに狂気であるかを、一人でも多くの青年が認識してほしいと念願しています。
 こうした現代の愚行と狂気を終わらせるためには、青年たちが国境を越えて力を合わせ、年長の人たちをも巻き込む勢いで、時代の流れを大きく変えていくしかないのです。
8  時代の扉を開けるのはつねに青年の挑戦
 池田 現実の泥沼に埋没せず、大いなる理想に生きぬく――そこに青年の証があります。新しき時代の扉を開けるのは、つねに青年の挑戦によってなのです。
 私たちの対談のタイトルは、「希望の選択」ですが、「希望」とは「青年」の異名ともいえましょう。
 対談を締めくくるにあたり、所長と私がこよなく愛する、チリの民衆詩人ネルーダの、「希望」にちなんだ詩を、青年たちに贈りたいと思います。
   希望の一端を
   自分の肩にになわずして何ができよう?
   おれたちの長い闘いの流れのなかで
   手から手へと継がれておれのところにきた旗を
   握って進まずして何ができよう?
   (『ネルーダ詩集』大島博光訳、『世界の詩集』20所収、角川書店)
 クリーガー ネルーダの詩には、責任感と持続の精神、そして青年の理想的な魂が満ちあふれています。歴史の転換点には、必ず青年の行動がありました。しかし、過去のいかなる世代も、現代の青年たちが取り組むべき課題ほど、大きな挑戦には直面してこなかったでしょう。今日ほど、「勇気ある行動」が絶対的に必要とされる時代はなかったと思うのです。
 世界の青年たちが、人間を分断している危険な境界を認識し、分断に橋を架け、すべての人間のためにより良い未来を築くよう、私は強く念願しています。
 そして、最大の敬意をこめて、私も、対話を終えるにあたり、青年たちにエールを贈りたい。これは、二〇〇〇年三月に来日した折、創価学園の卒業生に贈った、詩の一節です。
   君は奇跡なんだ
   君は 君自身への創造の贈り物なんだ
   君には 目的がある
   だからここにいるんだ
   君は それを
   見つけ出さなければならない
   君が ここにいることが尊いんだ
   そして君が世界を変えていくんだ!
 池田 新たなる世紀を、「共生の世紀」へ、「希望の世紀」へと転換できるか否かは、「人類意識」に目覚めた世界市民が、グローバルな連帯の輪をいかに広げ、活躍しゆくかにかかっているといってよいでしょう。
 大切なことは、民衆一人一人が賢明になることです。「生命の尊厳」に根ざした確かな哲学に生きることです。民衆が、戦争という"権力の暴走"を止める力を持たなければ、地球上から「悲惨」と「不幸」の二字を消し去ることは、永遠に不可能です。
 この世界を、「戦争」と「暴力」の論理が支配する社会ではなく、皆が幸福となり、勝利者となる「人間共和」の社会を創造するために、断固、闘いぬいていかねばなりません。私は、その決意と勇気をもって行動することこそ、「人類の希望を選択する道」であると思っております。運命や環境に負けるのではなく、みずからの力で歴史を拓くところに、人間の証があり、真価があるのです。
 その意味からも、クリーガー所長の運動が、今後、さらに広がり、人類をリードしゆく、大いなる平和の潮流となりゆくことを祈っております。
 私どもSGIも、「平和」「文化」「教育」を基調とする民衆運動によって、人類の未来に貢献していけるよう、全力を尽くしていく決心です。
 尊敬するクリーガー所長と、このような有意義な語らいを持てましたことを、心から感謝いたしております。まことにありがとうございました。

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