Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 地球的問題群とNGOの役割  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

前後
2  NGOに門戸を広げた「地球サミット」
 池田 確かに、地球サミットは、旧来の国連の会議とは異なり、NGOに大きく門戸を開いたものでした。会議の準備段階からNGOが参加しただけでなく、政府代表による本会議と並行する形で、NGOによる「グローバル・フォーラム」も開催されました。
 このような運営方式は、会議の正式名(国連環境開発会議)の略称にちなんで「UNCEDプロセス」と呼ばれていますが、きわめて画期的なものだったと言えます。
 以来、こうした運営方式が、同じく九〇年代に行われた、「人権」「人口」「女性」「居住環境」をテーマにした一連の国連会議でも踏襲されるようになったのです。
 クリーガー 「地球サミット」は、国際社会におけるNGOの力を気づかせる上で、大きな役割を果たしました。NGOの多くはそれまでも、重要な成果をあげてきました。しかし実際のところ、いくつかの例を除けば、国内においても国際社会においても、NGOは各国の政府から、おおむね無視されてきたのです。地球サミットは、こうした状況を打開する一つのきっかけとなりました。
 池田 地球サミットで事務局長を務めたモーリス・ストロング氏は、会議の開催を前にNGOの役割について、こう述べていました。
 「民衆を啓発し、民衆に情報を提供するNGOの役割は重要です。政治指導者が行動に移るのは、民衆のいい意味での圧力がある場合だからです」と。
 この点、クリーガー所長も、「政府の力を頼っていたのでは何もできない。逆に、民衆が連帯して政府を動かすことによって、平和も人権も築かれていく」と、鋭く主張されていますね。
 クリーガー ええ。私は、それを強く確信しております。そもそもNGOは、世界をどう見るかという視点が、政府とは異なります。政府は、この世界を「国益」というレンズを通して見がちですが、そうした制約にNGOは拘束されません。「国益」は「人間の安全保障」と一致する場合もありますが、どちらかと言えば、一致しない場合のほうが多いでしょう。
 それとは対照的に、NGOは概して、より幅広い視野に立ち、より人道的な観点から行動するのです。NGOのめざす利益は、国境にも国益にも制限されません。このことが、NGOに、より大きな自由をあたえ、道義的でグローバルな立場をとらせます。
 NGOには、貧困者や持たざる者、さらにはまだ生まれていない未来の世代をさえ代表する能力があるのです。私は、この能力こそが、国際社会における道義を実現する上での大きな力をNGOにあたえるものだと考えているのです。
 池田 重要なご指摘です。所長がおっしゃるように、「国益」だけを追い求める姿勢では、社会的な弱者への視点は二の次、三の次になってしまう。ましてや、未来の世代に対する配慮など、眼中にないといった状況をまねきかねない。やはり、民衆の"声なき声"にも耳をかたむけていくためには、草の根レベルで活躍するNGOの存在が不可欠です。
 たいへんユニークなNGOの存在として、クリーガー所長がアドバイザーを務められる「フリー・ザ・チルドレン」という組織がありますね。世界の恵まれない子どもたちを、強制労働や大人の搾取から救うために、青少年の手によって運営されているグローバルなNGOです。子どもたちが本当に必要としている支援を、同世代の視点から行おうとするもので、世界各地で成果をあげ、大きな反響を呼んでいます。
 私たちは、こうしたさまざまな立場に置かれた人々の声を、拾い上げ、代弁し、行動を起こしていかねばなりません。また、政府は、NGOの主張に、謙虚に耳をかたむけていくことです。それが結局、その国の民主社会の成熟度を高めることにもつながっていくのです。
3  「国家」でなく「民衆」に忠誠を誓う
 クリーガー 私は「フリー・ザ・チルドレン」とかかわっていることをたいへん誇りに思っております。このNGO組織は、クレイグ・キールバーガーとマーク・キールバーガーという二人の傑出した若者が創設し、彼らのリーダーシップのもとで活動しています。彼らは兄弟で、子どもたちのニーズに応える、偉大な"子どもたちの組織"を創り上げました。彼らの人間性には、無限の広がりがあります。
 NGOは、国家がもつ権力に"対抗する力"を提供できる存在といえるものです。ほとんどの政府はこれまで、国民に信託された以上の権利を握ってきました。
 ときに政府は、民衆から主権を奪い、それを民衆の幸福や福祉を損なうような形で行使することがあるのです。政府は、民衆の利益と一致しない、企業の利益のような強力な経済の力に左右されます。民主政治の根幹が企業献金に支えられている間は、政治家は民衆の利益以上に企業の利益を支えねばならない理由がつきまとうでしょう。これは、危険な状況であり、今日、多くの国々で起こっている現象なのです。このような状況のなかで決定されている政府の政策に対し、NGOは一つ一つの問題に即して代案を提示します。ある懸案事項に対して、個人が「国家」ではなく「人類」に忠誠を向ける場を、NGOが提供することもあります。
 今では、「人権」「軍縮」「開発」「平和」「環境」「人口」等々――重要な問題解決のためにNGOが提示する代案のほうを選択する人々がふえているのです。
 池田 よく、わかります。もはや、国際社会の重要な意思決定プロセスも、NGOの存在を抜きにしては語れない時代になったと言っても過言ではないでしょう。事実、所長が挙げられた分野においては、国家よりもNGOのほうが、より柔軟に、より適切な形で貢献できることが指摘されています。
 何よりも、こうした活動に取り組むNGOには、「人間の尊厳を、なんとしても守りぬきたい」との共通の感情が脈打っていると思うのです。人間が真に人間らしく生きられる社会を建設するためには、まず第一に、民衆自身が主体的に力を発揮する必要があります。"同じ人間として見すごすことができない"という、やむにやまれぬ思いこそが、「人間の安全保障」を地球上で等しく確立する基盤になると、
 私は考えるのです。
 クリーガー 私も、NGOの出発点はそこにあると思います。実際、NGOの多くが、苦しんでいる人々に直接、手を差し伸べるために、献身的な活動を行っているのです。NGOといっても、最初は、ごく少数の人々が政府の取り組みが不十分であることに気づき、みずから問題に取り組むことになって誕生したものが少なくありません。現実には、政府が人権侵害や環境破壊を許したり、「人間の安全保障」を脅かす政策を実施することもあり、政府自体が"問題の元凶"となっている場合さえあります。
 そんな状況に対して、"何か行動をしなければ"と身を乗り出して活動を始める――そういう少数の献身的な人々が核となり、NGOが組織化されていくのです。
 そして、これらの人々が発言し、行動するようになると、他の人々もその問題を聞きおよぶようになるのです。このように、ほとんどのNGOの組織は、人々の口伝えによって大きく成長していくのです。
 池田 やはり、原動力となるのは、一人の人間の「勇気」であり、「行動」であるということですね。それが、水面に石を投げた跡のように、共感の輪を幾重にも広げていく――。
4  「勇敢さ」と「連帯の力」こそNGOの強さ
 クリーガー そうした過程を経て、NGOは育ち、しだいに大きな民衆の支持を得ていきます。
 もちろん、大半のNGOの財源は決して豊かでありません。当然のことながら、政府に太刀打ちなどできない。
 しかしNGOは、何よりも「献身」「思いやり」という人間の心によって動いているのです。NGOの力を政府のそれと比べると、ダビデとゴリアテの比よりも大きな格差です。NGOは、しばしばこうした大きな不利にもかかわらず、よりよい世界をめざして奮闘しているのです。
 国際司法裁判所による核兵器審理の実現や、対人地雷全面禁止条約の発効など、すでにNGOは、いくつかの目覚ましい成果をあげています。けれども私がもっとも評価するのは、みずからが正しいと信じることのために、強大な力に対抗して戦う人々の「勇敢さ」です。
 こうしたNGOの活躍は、私にとって、「われわれは人間のために、世界に大きな変化をもたらしうる」という希望の源泉なのです。
 池田 対人地雷全面禁止条約の成立に大きな役割を果たしたのは、NGOの連合体「地雷禁止国際キャンペーン」でした。その代表を務めたジョディ・ウィリアムズさんは、こうしたNGOがもつ力について、次のように述べていました。「われわれが力を合わせれば、『スーパーパワー』になるのです。これは、『スーパーパワー』の新しい定義です。われわれのなかの特定の一人の力をさすのではなく、われわれ全員をもって『スーパーパワー』というのです」と。
 私は思うのですが、この「新しいスーパーパワー」の本質は、何も超大国に匹敵する力という"量的"なものにとどまるものでは決してない。むしろ"質的"な意味での新しさではないでしょうか。つまり、他の人々を支配するための「覇権的」な力ではなく、人々を結びつけていく「連帯」の力であるという点こそが、最重要のポイントであると思うのです。
 クリーガー 私も、彼女の言葉に強い感銘を受けました。
 私どもが推進している、核廃絶のためのキャンペーン「アボリション二〇〇〇」も、同じ志向性をもっています。民衆が団結すれば、超大国にも負けない力が生まれるのです。「アボリション二〇〇〇」も、その力を"草の根"から得ています。われわれは、たった一人で闘いを挑んでいるわけではないことを知っています。心を同じくする人々が力を合わせることによって、「人類史上もっとも強力な地球規模の草の根運動」を作り上げることができると思うのです。
 池田 以前(九五年十二月)、スウェーデンの「平和と未来研究のための脱国家財団(TFF)」代表のヤン・エーベリ博士と会談しました。博士は、「政府が主であり、民衆は従である」といった思考は改めねばならないと主張されていました。NGOの名称についても「非-政府組織」といった否定的な表現でなく、積極的に「民衆組織」と呼ぶべきであると提唱されていました。私も、そのほうが新しい時代にふさわしい呼び方だと思います。
 最近は、NGOという呼称にかわって、CSO(市民社会組織)という呼称を用いるケースもふえてきていますが、各国の政治指導者たちも、謙虚になって、時代の大きな変化を受け入れていくべきでしょう。
 クリーガー 私も、エーベリ博士の考えと同感です。民衆こそが「主」であるべきです。
 実際、私は主権は一人一人の人間から始まると思っています。世界のすべての人間が、善悪の判断力としての"良心の主権""良心の統治権"を持っているのです。
 ここでいう「主権」とは、私たち人間がもつ、もっとも重要な資質というべきものです。
 個人は、自分が正しいと信じることを表現できます。また、そのために戦うこともできます。一個の人間として、自分が悪と思うことに屈服するのを拒絶できるのです。私たちは、自分の主権の一部を共同体や国家に信託することはできます。しかし、善悪の判断力としての"良心の主権"を、国家や集団に譲渡してしまえば、本当の意味での人間ではなくなってしまうのです。
5  「希望の力」は人間の生命の中にある
 池田 まさに、そのとおりです。イギリスの詩人ミルトンの詩に、次のような言葉があります。
 「常に善をもって悪に打ち勝ち、――一見弱そうに思えるものをもってこの世の強大なものを破り」(『失楽園』平井正穂訳、岩波文庫)と。
 「この世の強大なもの」、すなわち、戦争やあらゆる悲劇を生みだす"権力の魔性"を打ち破るのは、人間精神の力です。平和の時代を開く無限の「希望の力」は、人間の生命の中にあります。
 仏法は「一念三千」といって、自分自身を変革し、さらに人間社会を変革し、そして国土までも変革していく根源の力が、生命の「一念」に秘められていると説きます。
 その力を一人一人から引き出し、結集していくのが、私たちSGIのめざす「人間革命」の平和運動です。
 それはまた、時代が要請する「新しいスーパーパワー」の源泉となる、
 民衆の広範な連帯を築き上げる運動でもあるのです。
 クリーガー 池田会長の指摘は、たいへんに重要なポイントだと思います。
 人間に内在する可能性は無限ですが、このことを一人一人が認識するには、意識啓発が必要となります。ほとんどの人々は、まず何よりも生きるための闘争に、あるいは自分の生活をよくするための闘争に追われているのが現実です。
 ですから、みずからの生命に内在する途方もなく大きな力を認識している人は、そう多くはいませんし、その力を現実に開発している人は、さらに少ないのです。
 こうした人間が内在する力を例証した人物として、私が思い浮かべるのは、やはりマハトマ・ガンジーです。ガンジーは、その力を開発し、偉大な勇気をもって生きぬきました。みずからの信念のためには死をも辞さず、目標を達成するために、しばしば生命を危険にさらすほどの長い断食を行い、自身に苦しみを課したのです。その結果、ついには大英帝国さえも、この一人の人間の力には対抗しえませんでした。
 もちろん、ガンジーの力は、全インドと全世界の人々が、彼の目標の正しさを認識し、イギリスによるインド支配を終わらせるための彼の闘争に参画するにつれて、大きくなっていきました。強固な意志をもった、献身的な一人の人間の力が大英帝国にも勝ることができるならば、民衆の力が正しい目的のために結集されるとき、いかなる偉業がなしとげられるかは計り知れません。
 会長が仏法の「一念三千」の法理にふれて指摘された、"「一念」に秘められた世界を変革する力"とは、このことではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。「一人に可能なことは、万人に可能である」――このメッセージこそ、ガンジーがみずからの行動を通して、人々に伝えようとしたものでした。あの有名な「塩の行進」も、「誰かが、不屈の信念をもって、皮切りをしなければならない」(『わたしの非暴力』森本達雄訳、みすず書房)と立ち上がったガンジーの勇気が、人々に伝播して実現したものだと思います。そんな彼の姿を目の当たりにした人々は、彼に続こうと、前進を開始しました。
 その一歩一歩が、植民地支配への怒りとなり、独立を求める人々の心を強く凝結していったと言えましょう。
 まさに、ガンジーは、民衆の心の中に「筋金」を入れたのです。彼は、独立といっても、民衆自身の「精神の独立」なくしては、真の独立とはいえないことを、確信していたのだと私は思います。
6  一人の人間の一念に世界を変革する力が!
 クリーガー ガンジーの実践は、平和運動に取り組む私たちに、大きな示唆をあたえてくれます。また、ある意味で、一念に巨大な力が備わっているとの法理は、エネルギーと質量に関するアインシュタインの有名な方程式(E=mc2)を、想起させます。
 「一人の人間の一念に、世界を変革する力がある」――このことは、私たちの中に、自分で認識しているよりも、はるかに大きな力が備わっていることを思い起こさせます。むろん、その力を解放し、発揮させていくには「勇気」すなわち、みずからの信念を貫く勇気、一人立つ勇気を必要とします。
 私は、この「勇気」と、「思いやり」と「献身」の心が結びついたとき、世界を変革していくことができるのだと考えます。これらの特性は、私のもっとも尊敬する歴史上のすべての指導者たち――ガンジー、キング、マザー・テレサ等が備えていたものでした。
 池田 今の話をうかがっていて、思い出した言葉があります。フランスの哲学者パスカルが『パンセ』の中で述べた言葉です。
 「力のない正義は無力であり、正義のない力は暴力である。力のない正義には反抗する者ができる。つねに世に悪人はたえないからである。正義のない力には非難する者ができる。だから、正義と力とをひとつに合わさなければならない」(『パスカル著作集』Ⅵ、田辺保訳、教文館)。いうなれば人類の歴史とは、このジレンマとの戦いであったともいえましょう。
 かつて軍国主義の嵐が吹き荒れた日本において、「正義」と「人道」の旗を掲げ続けた、創価学会の牧口初代会長も、歴史の教訓を踏まえて、こう訴えておりました。
 「悪人は自己防衛の本能から忽ち他と協同する」「強くなって益々善良を迫害する悪人に対し、善人は何時までも孤立して弱くなって居る」(『牧口常三郎全集』6、第三文明社)と。では、どうすればよいのか。
 「差当り善良者それ自身の結束によって自衛する以上に方法はあるまい」(同前)――これが、牧口初代会長の結論でした。だからこそ、牧口初代会長は「教育」に未来を託し、"平和のため、民衆のために戦いぬく「本物の獅子」を育てたい"と、創価大学の設立などの構想を温めていたのです。
 クリーガー 私も、人々に「思いやり」と「献身」の心を育むには、「教育」が重要な役割を果たすと考えます。「思いやり」と「献身」が「勇気」と結びついたとき、それは非暴力運動の基礎となるのです。
 政治や軍事の分野では、勇気と献身の心をもつリーダーはいますが、そのすばらしい特性が、思いやりにつながっているリーダーは少ない。しかし、この"連結"がなければ、政治と軍事のリーダーたちは、暴力の悪循環に囚われたままです。こうした流れを変え、よりよい社会を建設していくためには、会長が言われるように、善なる民衆の連帯を強めていくことが大切です。
 その一つの段階として、さまざまな問題解決のために活動しているNGOが、その努力を一致団結させる方途を見つけることが求められるでしょう。
 たとえば、核兵器廃絶というテーマはたんに軍縮問題や、平和問題に限定されるものではありません。それはまた、環境問題、人権問題、経済問題、社会正義の問題でもあるわけです。
 池田 よく、わかります。核兵器は、根源的に「人間の尊厳」を脅かす存在であり、地球環境に対する重大な脅威でもあります。こうした脅威に対して、地球上で無関係な人など、一人もいないはずです。
 クリーガー だからこそ、私たちは団結しなければなりません。力を合わせることによって私たちは、より幅広い分野の人々に対して、核廃絶が自分たちの未来にまで影響する課題であることを確信させることができます。そして、その数がふえるにしたがって、核廃絶の実現に必要な力も増大していくのです。しかし、私の経験からいっても、人々を核廃絶という課題に目覚めさせる戦いは、容易なことではありません。この問題は、ほとんどの人々にとって、むしろ、"考えないでおきたい課題"というのが現実なのです。
 こうした人々を咎めるのは、無理な面もあります。核兵器廃絶の他にも差し迫った問題が多いのに、そこで立ち止まって、核抑止理論が本当に意味があるのか否かを重点的に考えるのは、たやすいことではありません。私が思うに、政府の指導者たちが当てにならない、信頼できないということが証明されるまで、人々は政府に従う道を選びがちです。
 この状況のなかでは、現状を打破するのは困難です。その実現には、「想像力」と適切な行動が必要となります。私たちは、核兵器の使用による完全な破壊がいかなるものかを人々に想像させ、しかる後に、人々がそのような破壊を決して起こさないための行動をとるよう、手助けをする必要があるのです。
 池田 私たちにとって"考えないでおきたい課題"であればあるほど、むしろ広範に警鐘を打ち鳴らし、人々を目覚めさせていかねばなりません。手遅れとなり、人類が滅びてからでは取り返しがつかないのです。
7  "力"に対する"精神"の戦い
 クリーガー 核兵器の廃絶をめざす運動が大きくなっているのは、ふたたび核兵器が使用されると、どういう結果になるかを想像できる人々の数がどんどんふえているからです。
 けれども、私たちはまだ、政府に政策を変更させるのに必要である決定的な人数には達していません。しかし、私は、個人の力と人間の良心の力を信じています。すべての人間にとっての「自由」「正義」「尊厳」を備えたよりよき世界を、非暴力的手段によって追求していくことに、一人一人が力を合わせ、それが決定的な勢力になったときに、世界は必ず変わっていくのです。
 この考えは、会長が提唱される「人間革命」の思想に通じるのではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。歴史を振り返れば、「善」なる人々はつねに分断され、社会を変革しようとする「正義」の行動も、確たる力を出せぬまま、その多くが挫折を経てきたことがみてとれます。私は、この人類史の不幸な流転を何としても止めたい。このままでは、ますます人々の間に無力感とあきらめがつのり、危機に立ち向かう勇気と英知を糾合するチャンスは、永久に失われてしまうでしょう。
 私はかねてより、仏法を基調に平和・文化・教育を推進するSGIの社会的使命を、次のように位置づけてきました。
 「暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵し続ける"力"に対する、内なる生命の深みより発する"精神"の戦いである」と。
 現実が厳しいからといって、手をこまぬいていてはいけない。民衆が立ち上がれば、どれほどの力が生まれるか――私は、これを示し、時代の潮流へと高めていくことが、二十一世紀の人類の課題だと思います。
 そのためにも、私たちSGIは、世界の"善なる人々"と連帯を深め、行動を続けているのです。

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