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日蓮大聖人・池田大作

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1 「人間の安全保障」と国連の未来  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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1  国連創設の原点
 池田 近年、ふたたび、国連改革への機運が高まっています。二〇〇〇年九月に行われた国連ミレニアム(千年紀)サミットでも「二十一世紀における国連の役割」がテーマになりました。
 国連の機構は拡大、細分化してきており、その使命が人権、環境、開発、経済など、飛躍的に増大していることは、周知のとおりです。しかしながら、なかんずく国連の根本の使命が「国際の平和と安全保障」にあることは間違いないでしょう。
 クリーガー 第二次世界大戦が終わって国連が創設されたとき、その主たる目的は「戦争の災禍を終息させること」でした。二つの壊滅的な世界大戦を生き延びて、国連を創立した人々は、平和をたもつためには国際機構をつくらなければならないと気づいたのです。
 池田 国連創設の原点は、国連憲章の前文の冒頭に明確ですね。「われら連合国の人民は、
 われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い」(大沼保昭、藤田久一編『国際条約集』有斐閣)たいと決意して国連を設ける、とあります。ここで強調したいのは、「国家」でなく「人民(wethe peoples)」が主語になっていることです。また、「われらの一生(our life time)」という人間味のこもった表現などにも、国連は、たんなる国家の連合体ではなく、人類一人一人の平和の悲願を結集した組織であるという、根本精神を確認することができます。私が、国連改革において「民衆の意思決定プロセスへの参加」という一点をはずしてはならないと主張する第一の理由が、ここにあります。
 クリーガー 「われら連合国の人民は」と高らかに謳ってはいますが、国連の実態は「諸人民」ではなく「諸国家」の組織になっていますね。国連の代表部も、国家の代表です。
 池田 たしかに、そのとおりです。そもそも「国連」は、英語で「United*Nations」。直訳すれば「連合国」です。国連は、ウェストファリア条約以来の「国家中心主義」のなかで出発し、それは現在まで続いています。
 クリーガー 国連の権力は、主に安全保障理事会にあります。
 この理事会は第二次世界大戦で勝利を収めた五つの常任理事国――アメリカ、イギリス、ロシア(以前はソ連)、フランス、および中国に支配されています。ご承知のように、常任理事国は、それぞれ安保理の動議に対して拒否権を持っていますから、平和維持の行動をとることを妨げることができる。ですから、概して国連は、平和の維持にあまり有効な力を発揮できませんでした。
 第二次大戦の終結後も、過去五十五年の間に百五十余の戦乱が起こり、その戦禍で総計二千五百万の人々が死にました。戦乱の多くは、常任理事国の一国か複数の国に、支配されるか、支援されてきました。国連の実態は相変わらず、米国の現代作家J・ヘラーの小説『キャッチ=22』の状態――つまり「矛盾する規則にしばられて動きがとれない」状態にあります。そこでは最強の加盟国の利益とされるものが、国連憲章に謳われている目的と相反しているのです。
 池田 それは、出発の時から直面している国連の課題です。そもそも国連憲章自体に、矛盾が内包されています。一方で「主権平等」――たとえば、太平洋の人口数万の小さな島国も、アメリカやロシアなどの大国と同等の権利を持つとはっきり謳いながら(第二条第一項)、一方で、五大国の「拒否権」特権もはっきりと記しています(第二十七条第三項)。
 おっしゃるとおり、国連の中軸である安保理が十分機能してこなかったことは事実です。安全保障という点で、国連があらためて注目されはじめたのは、まだほんの十年ほど前のことです。
 クリーガー しかしながら、安全保障こそ国連が果たすべき役割の核心をなすものです。私は国連が、現在の状態であっても、必要であることは、信じて疑いません。同時に、戦争を防止し、人類に資するという目的を果たすために、国連に大改革が必要であることも疑いません。
 池田 そのとおりです。
 短命に終わった「国際連盟」の歴史を思う時、国連がともかくも半世紀以上、続いてきたという事実は重い。米ソの対決、折にふれて出てくる「国連不要論」、ボスニア、ソマリアでの国連自身の失敗等がありながら、ここまで国連が存続してきたのは、
 「戦争なき世界」への、祈りにも似た民衆の思いがあったからだと信じます。
 ゆえに私は、国家の利害が渦巻く国連の現実は重々、承知しながらも、平和を願う民衆の一人として、一貫して「国連中心主義」を主張し、行動してきました。
 核廃絶についても、東西対立の緊張が高まった一九八〇年代から、国連と協力して「核の脅威展」や「戦争と平和展」を、ニューヨークやモスクワ、北京やニューデリーなどで開いてきました。
 クリーガー 池田会長の、国連支援のご行動は、まさに、賞賛に値します。
 核兵器に関して申し上げたいのは、核兵器が広くは「戦争体制」のなかに組み込まれていることです。解体しなければならない究極のものは、「戦争体制」なのです。一九九八年の世界フォーラムでジョセフ・ロートブラット博士が即席の演説をされました。私は、その演説に心から感動しました。
 博士は、パグウォッシュ会議の創始者で、一九九五年のノーベル平和賞の受賞者ですが、この演説は、博士が九十歳になる数日前のことです。そこで博士は、こう述べられました。「私の目標は、短期的には核兵器の廃絶ですが、長期的には戦争の廃絶です」と。間もなく九十歳になる人が、核兵器の廃絶だけではなく、さらに遠い目標――戦争の廃絶に献身しておられる。私はこの気概に感動したのです。
 池田 まったく同感です。私も、今年(二〇〇〇年)の二月十日、戸田第二代会長の生誕百周年の前日に、ロートブラット博士と、沖縄研修道場でお会いしました。十一年ぶりです。クリーガー所長ご夫妻と語りあった同じ部屋で、「平和と科学に捧げた人生」の貴重な証言をうかがったのです。
 戸田記念国際平和研究所が、師の生誕百周年を記念して「戸田記念平和学賞」を設けたのですが、博士が、第一号の受賞者に選ばれました。
 その受賞スピーチでも博士は、「悪に『悪の力』で勝つことはできない。『戦争の脅威』をもって戦争を回避しようとしてはならない」と、烈々と「戦争の廃絶」を訴えておられた。
 偉大なる獅子の声でした。壮絶なる平和への信念と意志に、私は感動しました。博士は永遠の青年であられる。いな、さらに若くなっておられた。
 私が、「お疲れになったでしょう」とお体を気遣うと、博士は、ニコニコしながらも、「いえ、私は、疲れることを自分に許さないのです」と、きっぱりと語っておられた。あの一言が忘れられません。
 クリーガー ロートブラット博士は、偉大な人物ですね。博士がいつまでも若々しく精力的なのは、その気迫と、献身しようという心があるからだと思います。「戦争の廃絶」というロートブラット博士の目標は、絶対に正しいと思います。核兵器の廃絶は、きわめて重要ですが、それだけでは不十分です。
 "人間の慣行としての戦争"を、廃止しなければなりません。この野蛮な紛争解決の方法に、終止符を打たねばならないのです。
2  国連改革の柱は民衆参加
 池田 その「戦争の廃絶」は、従来の国家中心の安全保障では不可能でしょう。
 歴史的に見れば、二十世紀の戦争の悲劇は、「国家」の機能を過信するところから起こったと言えます。
 また、戦争を生みだしている貧困、人権侵害などの諸問題は、国家自体が加害者であったり、国際社会の構造にかかわっている場合もあります。
 ゆえに、国連のあり方も、国家主権の相対化、つまり、「民衆の知恵を生かす」方向へ向かわざるをえません。私はこのことを、ガリ前国連事務総長はじめ、歴代の国連のリーダーに、一貫して訴えてきたつもりです。
 クリーガー 実際、新しい技術、とくに通信分野における最新技術によって、国家という枠組みが、しだいに時代にそぐわなくなってきているのですが、国連はその変化への対応に後れをとっています。
 ゆえに、変革が必要なのです。国連に必要な大改革の一つは、国連憲章の前文に謳われている「われら人民」を国連の機構に参加させることでしょう。国民国家の代表でなく、市民社会の代表から成る「民衆総会」を、国連総会と並立的に設立することで、国連改革は果たされると思います。
 池田 国連憲章は、第七十一条でNGO(非政府組織)との協力を規定し、NGOには協議資格があたえられていますが、「協議」以上の役割をNGOにあたえるということですね。
 クリーガー そのとおりです。そうなれば、国家の見地とは異なる民衆の見地を国連にもたらし、国連は「国家益」よりも「人類益」を討議するようになるでしょう。これは国連のためにも、きわめて大きな前進の一歩になると思います。
 池田 「民衆総会」については、私もかつて提言したことがあります。国家中心の「国連総会」と並立する形の「民衆総会」の実現が容易ではないとしても、民衆の意思を反映する何らかの「制度」は、確立すべき時だと思います。これは、「SGI(創価学会インタナショナル)の日」記念提言(二〇〇〇年一月)の中でふれたことですが、たとえばNGOの情報収集能力や、現場での経験を生かして、「地球民衆評議会」といった、国連総会へ議題の諮問などを行う常設機関を設けることも考えられます。
 クリーガー 会長のご提案を実施することは、国連改革への重要な一歩となるでしょう。ただ私は、仮に民衆総会を設立したとしても、戦争の終息という大きな問題を解決するには、まだ不十分ではないかと思っています。もちろん、設立されれば、市民社会の見地は、戦争終息の方向に引き出されるでしょうが、侵略的な力の行使を禁止するとなれば、安保理の常任理事国の協力が必要になるでしょう。
 安保理自体の改革も、深刻に迫られているということです。現在の常任理事国は、人類の大多数の利益を代表していません。もはや存在しない冷戦時代の世界分割を反映しています。
 池田 安保理の大国中心主義の構成が、国際連盟の「全会一致」方式の失敗に学んだものだとしても、もはや時代後れになっていることは、だれの目にも明らかですね。
 クリーガー ですから、安保理の構成を変える方向で考えなければなりません。常任理事国が国際法を遵守し、平和を維持していけるよう、常任理事国の拒否権を改定するか削除することを、考えていくべきだと思います。しかし、安保理の改革や国連憲章の改定は、全加盟国の意見の聴聞と、改革・改定案の審議を必要とする、政治的にむずかしい問題を呼び起こします。
 池田 安保理改革が、日本やドイツの常任理事国入りというレベルの議論ですむものでないことは、確かでしょう。
 クリーガー おっしゃるとおりです。ですが近年は、改革の可能性に関する議論や、良い報道も多くなっています。世紀の変わり目の今こそ、重要な責務を実行できるように国連を強化する行動を起こすべき時です。現在の国連は、「国家と人民が万人の利害にかかわる問題を解決するために協力しあう場」というよりも、「国家が自国の利益のためにうまく立ち回る場」であることが、あまりにも多い。これは変わらなければなりません。
3  「国家」から「人間」の安全保障へ
 池田 国連は、冷戦後の安全保障のあり方を試行錯誤してきましたが、これまで大きく分けて、二つの潮流の間で葛藤がありました。一つは、現在の国際秩序や、価値観を脅かす国家やテロ行為に対しては、武力行使も躊躇せず、厳しく危機管理を図っていくという態度です。これは基本的に、ハードパワーに依拠した国家安全保障の考えにもとづくものです。
 一方は、「人間の安全保障(ヒューマン・セキュリティー)」の方向性です。これは、一九九三年にUNDP(国連開発計画)が「人間開発報告」の中ではじめて使用した概念です。すなわち、「国家」に脅威とならなくても、「人間」の尊厳性や生活を脅かす、「開発」や「環境」問題等の非軍事的課題に取り組むなかから生まれてきた発想です。
 クリーガー 「人間の安全保障」のためには、貧困がもたらす悲惨な状況を終わらせるための強い努力を必要とします。国連は、全加盟国に対し、そうした努力を要求すべきです。これは、世界共同体の責務です。今日の環境問題のいくつかは、
 ますます地球全体の問題になっています。なかでも海洋と大気の汚染、地球温暖化、オゾン層の破壊、地球資源の枯渇などは、現代と未来の人間の安全を脅かす問題です。これらの問題を解決できる場がなくてはなりません。国連がその場にならないとすれば、そのための新たな世界機構をつくり出さねばなりません。
 「人間の安全保障」は、国連の組織づくりと活性化を助ける考え方であるはずですし、改革への「道しるべ」になりうると思うのですが――。
 池田 国連が「人間の安全保障」の使命を果たしていこうとするなら、経済社会理事会も抜本的に強化する必要があるでしょう。国連は、冷戦の終結当初、「平和執行部隊」に象徴されるように、武力による平和創造に挑戦しましたが、その結果はソマリアやボスニアでの手痛い失敗でした。国連は、その教訓から、しだいに「人間の安全保障」に比重を移してきたと言われます。
 クリーガー 「人間の安全保障」で考慮されるべき主体は、国民国家ではなく、個人です。
 その意味で、「人間の安全保障」には、環境の保全と人権の保護、貧困の根絶を必要とします。同時に、戦争と大量殺戮を終わらせること、核兵器による絶滅の脅威をなくすこと、国家であれ個人であれ国際法に違反する者を裁く司法制度、紛争の解決に暴力が選択肢に入ることを防ぐ制度が必要とされます。テクノロジーの力は、私たちの問題をグローバルにしました。もはや一国の力だけで、国民をそれらの問題から守ることはできません。「国民の安全」は今や「人類共通の安全」を必要とします。同じように、「人間の安全保障」は今や、「地球全体の安全保障」を必要とします。
 大量殺戮や、人道に対する罪は、どの地であれ、世界のすべての人間の安全を侵すのと同じです。どの地であれ、人々が暴力や飢餓のために死ぬということは、世界のすべての地の「人間の安全保障」が脅かされるのと同じです。
 私たちはすべて、たがいにつながった「一つの世界」に生きている。ゆえに、人類が直面する共通の危険と脅威に対応できる、世界的な機構が必要なのです。
 池田 国連をそういう機構に変えていくしかありません。「人間の安全保障」という新機軸にそって、民衆参加の方向へ改革が行われるよう、SGIとしても、これまで以上に、さまざまな機会を通じて強く訴えていきたいと思っています。
 何よりも、この「人間の安全保障」という概念が広がれば、「核兵器が存在するから、核兵器が必要」という堂々巡りの核抑止論がいかに不毛なものであるかが、よりいっそう、浮かび上がってくるでしょう。
 クリーガー 大事な指摘をしてくださいました。「人間の安全保障」に照らしてみれば、「核抑止力」なるものは自己中心的で、愚かで危険な代物です。「一部」を守るために「全体」を危険にさらしている。
 しかし考えてみれば、もしも「全体」が破壊されれば、「一部」も破壊される。「人類」が破滅すれば「国家」も破滅するのです。「人類普遍の善」のために、核抑止力の思想は退場すべきなのです。
 池田 核丘器が誕生した瞬間、すでに「国家の安全保障」の概念は、過去の遺物になったと言えますね。
 クリーガー 同感です。今、ある意味で人間は、「時間」との競争のなかにあります。核時代は、瞬時にして世界を破壊する可能性を人間にもたせました。そのことによって、時間は、より貴重で大切なものになった。同様に、核の破壊の力を相殺する力として、国連自体も、貴重で大切な存在と見なされなければなりません。
 国連を不適切な存在だと無視している人たちは、「人間の安全」に対する脅威に対処し解決する、最良の可能性を無視しているのです。
 私たちは、国連を改革・強化し、核時代の地球全体に対する挑戦に対応できるよう作業を進める以外にないと思います。
 地球資源の不公正な分配が、結果的に世界の大多数の人々に、貧困や苦しみ、早すぎる死をもたらしている間は、諸国家の軍事体制が存続し、武器に頼り続けるでしょう。
 国連を民主化し、国際法の立法や執行、また国際法にもとづく裁判について、もっと実質的な権限を国連に付与できるようになれば、「人間の安全保障」が最優先される、より公正な世界への前進が始まるでしょう。
 池田 そうした世界の実現を期待したいものです。その道は、現実には、国家主権と国連の権限とのバランスに、どう折り合いをつけるか、粘り強い、地道な議論を積み重ねることから始まるでしょう。
 クリーガー 国家のレベルでは民主化をもっとも強く主張する国家が、国連の民主化にはもっとも強く反対すると思われるのは、皮肉なことです。
 国連をもっとも厳しく批判する人たちは、国家の主権をもっとも強く支持している人たちです。その人々は、国家に主権があれば国家の安全保障は事足りたかもしれない過去の時代を見ている。しかし、今は、もはやそれが通じる時代ではありません。
 強力な技術によって、国家の安全保障は地球レベルの安全保障に依存せざるを得なくなり、そしてその地球の安全保障は、地球レベルの主権の要素を必要とするのです。国連は、戦争の終息、人間の安全保障といった重大課題に対応する十分な権限と権威を持たなければなりません。
 そして、世界の個々の市民が、自国を経由してでも、主権を国連に信託するようになるには、国連はもっと民主的な世界機構であることが絶対に必要です。
4  国連を支える世界市民教育
 池田 国連改革に関して、最後に私が確認しておきたいのは、組織を改革するといっても、組織を動かすのは人間であるということです。人間は、家族、地域、会社、国家、地球――さまざまな場所にアイデンティティーを見いだしている。そのなかで、「世界市民意識」が最上位にくるよう、民衆を啓発していくことが、地道ではあるけれども、国連改革を根底から支えていくのではないでしょうか。
 昨今の民族紛争は、冷戦崩壊や、情報・経済のグローバリゼーションにともなうアイデンティティー喪失が原因でした。前事務総長のガリ博士と九七年にお会いしたさい、博士が憂慮されていたのも、グローバル化の反動としての、人々の意識の「鎖国化」「孤立化」でした。
 この陥穽から抜け出し、「世界市民の精神」を持ちながら、人類にも足元の地域にも勇んで貢献しゆく人間群を、どう育てていくか。ここにこそ、仏教の精神性を基盤とする私たちSGIが、「人間の安全保障」に貢献しゆく道があると信じています。
 クリーガー 「世界市民」の教育が、「人間の安全保障」の土台を築くための重要な一歩であるとのご意見に、私も深く賛同いたします。

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