Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1 科学の使命――悲劇を起こさぬために…  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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2  「二〇〇一年宇宙の旅」が暗示すること
 池田 ところで、「二〇〇一年宇宙の旅」という映画がありましたが、その冒頭にこんなシーンがあります。太古、一匹の猿人がふと棒を手にする。そして、それを振るって地上にあった白骨を砕く。次にその棒を空高く放り上げると、棒はくるくると回り、次の瞬間、宇宙船に変貌し、場面は二〇〇一年の宇宙に変わる。――道具の起源から未来の宇宙技術まで、何百万年にわたる人類の進歩を見事に表現した場面でした。
 猿人が手にした棒は明らかに武器でした。当然、獲物を取る時にも使われたでしょうが、仲間同士の争いにも使われたでしょう。一本の棒が宇宙船にまで進歩するのに、どれだけの人命が失われたことか。棒は剣からピストルに、ピストルは機関銃、大砲となり、ついには核兵器にもなりました。
 クリーガー 歴史上、人類のもっとも目覚ましい特性の一つは、一定の目的を達成するための道具を開発し利用する能力でした。原始時代の棍棒と、現代の核兵器とでは、殺す能力の能率に比較にならないほど大きな違いがあります。われわれ人類の目的が、たがいに殺戮しあう技術を向上させることであるならば、現代の人類は、未曾有の成功を収めたわけです。
 このいわゆる成功は、もちろん、科学的発見と技術的達成に補助されてきました。その結果、今では全人類が消滅する危険の極限点にいたりました。今こそ、われわれの目的自体を再検討し、科学技術を、人類の存続そのものを脅かすために使用することをやめるべき時です。
 池田 本来、科学技術は、人類の幸福に奉仕するはずのものでした。それが、いつしか、大量殺戮の手段として利用され、人類の存在そのものを脅かすことになってしまった。われわれは今、その転倒を正さねばなりません。
 「ヒト」は他の動物にはない理性をもっています。しかしそれを、みずからの生存を危うくする方向で発揮するならば、集団で海に飛び込み死んでしまう「レミング」を笑うことはできません。ホモ・サピエンス(知恵ある人)の真価は、人類としての危機をいかに回避するかにかかっているのです。
 クリーガー 科学技術が戦争の性格を大きく変えたことの一つに、距離感覚があります。科学技術が発達するにつれ、だんだんと、より遠くの地点から殺すことが可能になりました。このことの副作用として、勇気はなくても戦争行為は可能になっています。
 実際、視覚外の遠くの標的にミサイルを発射するボタンを押す場合、どんな勇気が必要でしょうか。戦争における臆病な行為の最たるものが、核兵器の使用です。あるいは「核兵器を使用するぞ」と脅すことも、ことは同じです。しかし、この臆病な行為は、主に軍隊に関してのみならず、政府の行為でもあり得ます。この種の臆病は社会の全体に染みわたり、人心を汚染してしまうものです。
 この点、肉弾戦は、少なくとも殺人を実感させますし、距離とハイテクの致死手段による交戦とは違って、殺人を手を汚さずにすむように抽象化することはありません。
3  科学技術そのものに罪はない
 池田 科学技術の多くが、戦争によって発達してきた側面も否定できませんが、だからといって、私は「反科学論」を唱えるつもりはありません。科学技術が社会を発展させ、私たちの生活レベルを向上させてきたことは明らかです。この功罪相半ばする科学技術の"罪"をいかに削ぎ落とし、"功"の側面を増大させていくか。いいかえれば、科学技術が、いかに人類の幸福と、繁栄に寄与できるかを、文明的視野に立って、模索することが必要です。
 科学とは宇宙・自然の法則を探る営みであり、技術はその成果を利用する方法です。ですから、科学といい技術といい、それを使う人間の目的によって、善にも悪にも活用されるのです。
 クリーガー 確かにそうですね。人間がどのような意図を持つかは、重要な役割を果たします。しかし、人間が創り出したものが、人間のコントロールできる範囲を超えてしまう場合もあります。
 池田 釈尊は、仏典の中で、同じ一本の「メス」でも、それを提婆達多という悪人が使うか、耆婆という名医が使うかによって、人間を不幸にするか、幸福にするかが分かれてしまう、と説いています。
 以前、所長ご夫妻にも、お越しいただきましたが(一九九八年二月)、私ども創価学会の沖縄研修道場は、かつて米軍によって建設された「メースB」のミサイル基地でした。
 現在、ミサイルの発射台は改装され、建物全体が恒久平和への祈りをこめた「世界平和の碑」として、保存されています。また内部には、沖縄創価学会の青年部の手による平和展示なども設けられ、戦争の悲劇と平和の尊さを伝えています。
 これまで、地域の子どもたちをはじめ、県外からも多くの方々が訪れてくださり、生きた平和教育の場として、好評を得ております。道場の敷地内には、戸田記念国際平和研究所の施設も、設置される予定です。戦争のための基地が、今では、世界不戦の精神を訴えゆく、いわば"平和の発信基地"に生まれ変わりました。技術であれ、物であれ、結局、使用する目的を決めるのは、人間です。人間の"一念"によって、すべてを"善"にも"悪"にも変えることができるのです。
 クリーガー 先ほど池田会長は、「科学は、自然と宇宙を認識する方途である」と述べられましたが、私も同感です。科学によって得られた認識を、人類の利益や、人間の幸福の建設的な目的に用いるか、それとも、破壊的な目的に用いるか。人間には選択の自由があります。
 イスラムの神話にいう「たとえ壜の中に閉じ込められた悪魔が出てきても」ということは、危険がいよいよ迫っても、という意味ですが、人間には選択の自由があります。かつてはミサイル基地であった場所を、会長は平和の場所に変えられ、軍事目的を平和目的に転換する方向へ、立派なモデルを示されました。沖縄研修道場を訪問したさいに、まず深く感じたのは、このことです。また、私どもの平和財団から、"平和の種"として贈らせていただいたヒマワリの種が育っているのを見て、うれしく思いました。
 池田 あのヒマワリは、沖縄の同志の方々が、真心をこめて、大切に育ててくださったものです。今では、毎年、見事な大輪の花を咲かせるようになりました。
 クリーガー 平和の行為の一つ一つが、それ自体、平和の種子であり、一粒一粒の種子が育つところに他の人々を触発する可能性があると、私は信じています。
 かつてはミサイル基地であったところが沖縄の平和の場所に変えられたのは、その一粒の種子です。
 冷戦が終わり、ウクライナ共和国と他の旧ソ連領のミサイル基地が解体されたさい、それと同種の種が蒔かれました。
 私たちの目標は、世界中の全ミサイル基地が平和的利用に変えられるまで、これらの種を蒔き続けることです。これは人間の意志の問題であり、かつまた、今は政治的意志に変容している人間的決断の問題です。核兵器のない世界を実現するグローバルな努力に、今なお欠けている、もっとも重要な要素は、核保有国側のこの決断ではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。いかなる理由があろうと、科学技術を"国家のエゴ"に従属させてはなりません。科学技術を、人類の福祉のために、どう役立てていくか――そうした課題を、世界の科学者が、国家を代表して話しあう「地球市民世界科学者会議」とも呼ぶべき会議が、さらに必要でしょう。
 クリーガー 科学者たちは世界市民としての一つの重要な資質の既得者です。彼らは科学的方法論という共通語を持っておりますし、言語の壁を超えて科学的発想を他の国々の科学者たちに知らせる場合、しばしば数学的言語を用います。今、科学者が認識すべきことは、全人類が共同の過去をもち、科学が大きな形で、人類を共同の未来、共同の運命において一体化したことです。
 そして今の科学者がまさになすべきことは、アインシュタイン博士やポーリング博士のような偉大な科学者が過去になしたように、共同の目的で結束し、人類の未来のためにふたたび警鐘を打ち鳴らす手助けをすることです。
 会長が提案されている世界会議に近いものとしては、「グローバルな責任を果たす科学者・技術者の国際ネットワーク」(INES)があります。二〇〇〇年六月に、「二十一世紀における科学技術の挑戦」をテーマに、会議を開催しました。
 池田 クリーガー所長は、そこで「核廃絶」の分科会を主宰されたそうですね。この会議でも論議されたと思いますが、今後、科学技術を平和に役立てていくには、どのようなアプローチが有効であると思われますか。また、科学者、技術、そして平和の関係については、どうお考えでしょうか。
4  科学技術を平和に用いる三つの方法
 クリーガー 科学技術を平和目的に用いるには、主要な方法が三つあると思います。
 第一には、軍縮のプロセスにおける大きな役割があります。科学者や技術者は、まず軍縮協定が守られているか否かを検分する手段を提供すること、そして兵器の解体手段を開発する手助けをすることができます。
 第二に、科学者と技術者は、水、食糧、石油などの稀少資源をめぐる未来の紛争を、代替資源や、水の場合は浄化とリサイクルの方法を開発することによって、予防する仕事ができます。
 第三に、食糧不足、疾病、自然災害に関する問題で、人々がいだいている不安の現行原因を軽減する仕事をなしえます。科学者と技術者は、人間の状況を改良するプロジェクト(事業計画)で取り組むべき仕事には事欠きません。
 しかし、そうするためには、これらの目的を成就する資金を国家が充当しなければならないでしょう。今は軍事上の研究と開発に充当している資金を、平和目的に転換していくのです。
 池田 同感です。科学・技術者が担うことのできる役割には、じつに大きなものがあります。
 クリーガー 科学・技術者も、一つの社会資源とみなすことができますが、そのあまりにも多くの資源が、現在では建設的目的よりも破壊的目的に向けられています。他方、科学・技術者も、有情の人間たちであり、非情の無生物ではありません。有情の人間としては、自分の行為に個人的責任があります。また理性的人間としては、大量破壊兵器の製造と開発につながることがわかっていながら、そういう側に自分の才能を寄与すべき正当な理由はないと思います。そうしたことは国際法のもとでは不法な行為であり、人類に対する犯罪を用意する行為です。この点では、大量破壊兵器の製造、開発、実験、維持、使用に自分の才能を寄与し、人類に対する犯罪者にならないよう、科学者と技術者には警告し、説得すべきです。
 池田 科学・技術者は、時には、国家の論理に組み込まれることを断固として拒否する、勇気と倫理観をもたねばならないでしょう。一方で社会は、彼らの"良心の行動"を支援する環境を整えなければなりません。彼らを孤立させないための連帯組織も必要でしょう。
 そうした社会的な体制と理解の輪が広がっていけば、必ず大きな影響力を発揮すると思われます。
5  「才能ある畜生」になるな
 クリーガー 科学の真の目的は、自然界を探究し認識することであると、私は信じています。しかし科学の自己目的は、それだけでは不十分でしょう。というのも、それだけなら好奇心の反映にすぎませんから。科学者たちを動機づけるものには、それ以上の人類を益するということが、なくてはなりません。この精神において私は、科学・技術者に要請したいのです。戦争行為の利器を開発させようとする国家の要求を拒絶し、むしろ、そのような目的を阻止することであれば何事も実行することを。つねにより強力な殺人兵器の開発を助ける、国家の手先として利用されることを、科学・技術者は、断じてみずからに許してはなりません。
 池田 仏典には「才能ある畜生」という言葉がありますが、これは、人間としての良心を失い、己の利欲を満たし、名声を得るために、みずからの才能を利用するような者を意味しております。古代ギリシャの"西洋医学の父"ヒポクラテスは、医術を施す者に対して、厳しい倫理観を求めましたが、それは人間が、時として「才能ある畜生」におちいることの危険性を見抜いていたからにちがいありません。
 かの有名な「ヒポクラテスの誓い」においては、医師は、その立場や知識を、みずからの利益のために悪用するのではなく、あくまでも、節度と自己抑制をもって、「患者」に接することを教えていますが、
 その根本は、自身の欲望や利己心を超克した「人間への奉仕」の精神にあるといえるでしょう。
 これは現代の科学・技術者のみならず、知的訓練を受けたすべての者が、襟を正して学ぶべきものです。そして、「ヒポクラテスの誓い」にならって、その知識と技術を、みずからの良心に従って、人間の幸福のため、社会のために生かしゆくことを、宣誓すべきではないでしょうか。
 ロートブラット博士は、科学者の卵である学生たちに、そうした「誓い」を自主的に行ってはどうかと提案され、現在では、その理念に賛同する青年たちの間で、大きな運動として広がっています。
6  倫理なき科学は人間を不幸にする
 クリーガー それは、非常に大切なことですね。結局、倫理なき科学は、人間を幸福にするどころか、不幸へと追い込む"災いの元凶"となってしまうだけです。その責任は、あまりにも大きい。
 科学・技術者は、専門知識を身につける前に、まずその健全な基盤となる倫理を学び、創り上げるべきなのですが、残念ながら、現代の高等教育の現場では、そうした倫理面への配慮が、あまりにも希薄ではないでしょうか。
 池田 現代の科学技術は、かつては、とうてい不可能と思われたことを、次々と現実のものにしてきました。人間は月面に降り立ち、インターネットは、情報に国境をなくし、人々の平均寿命は各段に延びました。しかし、昔の人々と比べて、人間は本当に幸福になったでしょうか。
 人間の欲望には、際限がありません。一つのことが満たされると、次々と新しい欲望が芽生えてきます。
 これまでは、科学の発達をうながし、文明を栄えさせる原動力にもなってきたわけですが、現代では、かえって人間の主体性を失わせ、人間性を阻害する傾向に、拍車をかけているようです。
 このような形の欲望を、仏法では、「貪欲」と呼んでいます。利己主義に走り、他者を傷つけ、破滅に追い込んでも追求しようとする衝動――これが「貪欲」です。
 人間としての本来的な欲望は、基本的に、幸福へのエネルギーとなるものです。しかし、その「欲望」が、利己主義によって変質し、「貪欲」となったとき、自他共の不幸を引き起こします。チャップリンが「モダン・タイムス」で描いた悲劇のように、科学技術文明の奴隷となってしまうのです。
 クリーガー われわれの現代的な社会には、過去の王侯も羨むだろうと思われるほど便利なものが、いろいろ数多くそろっています。昔に比べると、ずっと長寿の、健康な人生になったのは、科学の進歩のおかげですが、会長が述べられたように、われわれの人生は有意義で充実しているのか否かを、問わねばなりません。このことを問えば、当然なことに、哲学の世界に入っていくことになります。
 私は、有意義な人生の内容は何か、という問いに今日ではどれほど多くの人が取り組んでいるのか、と思ってしまいます。この問いに対して、われわれの社会があたえがちな答えは、富の蓄積であると単純に割り切っています。物の蓄積、あるいは物を蓄積するための金の蓄積にもっとも成功した人々を、われわれは誉め、尊敬しがちです。
 蓄積をもとにした消費主義が、われわれの経済の推進力であるかぎり、富の蓄積能力そのものが目的にならざるをえません。しかし、この皮相的な考え方は、
 人間としての自己実現への道をきわめて困難にすると思われます。物質的なものは、たとえそれがいかに新しく立派なものであっても、友情、分かちあい、学びあい、愛しあうこと、創造的であること、真の美を発見することといった素朴な喜びにはかわり得ません。
7  「生老病死」を乗り越えるか
 池田 近代科学は、分析と総合による客観的真理を追究してきましたが、宇宙や物質世界に適用されたときには、それはきわめて有効でした。ところが、物質世界の究極の領域や、生物、精神の世界にまでおよんでくると、それはさまざまな限界性を示し、ある場合には、人間に悪影響をおよぼすことにもなりました。
 天然痘の根絶など、輝かしい歴史を残してきた医学も、現在では、"クローン技術"など、生命の尊厳と倫理にかかわる重大な問題を提起しています。
 誕生したものはいつかは必ず死を迎えます。そして、その過程で老い、病む。――これは命あるものがたどる不変の道です。病を治し、死を遠ざける技術は人間の幸福に必要な条件ですが、その技術をどのように使うかという価値観、生き方がなければ、かえって不幸をまねくことになります。
 不老不死は人間の古来からの夢でした。それを、ただ肉体的に長生きするためだけに、科学技術を次々に使用しても、幸福に結びつくとはかぎりません。
 小説『フランケンシュタイン』には、人間のエゴと科学によって作り出された怪物が、
 みずからの姿に苦悩する様子が描かれていますが、人間の幸福を考える上で、重大な示唆をあたえてくれます。
 クリーガー クローン技術は、生命の価値を矮小化する可能性があります。この可能性は、むしろ、現代の人間は知識が知恵に勝っていることを、人々に思い起こさせるのには役立つでしょう。さらに、この問題をめぐる真剣な議論は、人間の根本的な価値を取り戻し、生命の意味を問う契機となりうるでしょう。
 現代人が、新しい科学技術の利用を問題にし、立ち止まって考えるならば、すべての個人が、その持っている物ではなく、人格を基準にして評価される、もっと品位のある社会をつくり出せるかもしれません。知恵は、いかに生きるべきかのガイドになりえます。知恵は概してシンプルで、理解しやすく、しばしば民話や寓話の中に具体的に表現されます。それに世界の大宗教の原理にも、知恵が見いだされます。
 池田 科学的世界観においては、知識の多寡と論理的思考が第一の価値となりますが、人間にとっては、幸福に資するか否かが何よりも大切です。科学的、あるいは功利的世界観が支配的な現代文明の欠陥は、知識と知恵を混同し、知識がふえれば人間は幸福になると考えやすいことです。科学技術が、それ自体の論理で独走してしまえば、重大な危機をまねくことにもなりかねません。
 知識を正しく統御し、生かしていくのは知恵の働きです。仏法は、この知恵の開発をめざし、「生老病死」の苦をどう乗り越えて、充実した人生を送るかの道を説いたものです。欲望を正しく統御し、それに振り回されない自己を確立するための教えなのです。
 クリーガー 会長のお話は、欲望を超える生き方を示唆されましたが、私も、そのとおりだと思います。欲望を統御できれば、人生の素朴な喜びに満ちた幸福が得られるでしょう。その場合、もっとも重要なことは、人生を真に大事にする生き方ができることではないでしょうか。私は、生をうけていること自体が、奇蹟であることを、つねに大事にできれば、人生は真に豊かになると思います。
8  人類に蓄積された「知恵」を学ぶこと
 池田 まさにそのとおりです。所長は、現代文明、なかんずく科学技術文明に欠けているものは何か、そして、その時代に生きる人間の一人として、どのような哲学が必要だと考えますか。
 クリーガー それは、われわれは人間として何を志向するのか、ということの核心にふれる問題です。今、個々の人間にもっとも欠けているのは、批判的に考え、健全な倫理基盤にもとづいて選択し、行動する能力であると思います。現代の社会にみられる知識と知恵の混同は、私も、困ったことだと思っています。知識はわれわれの住む世界をよりよく認識する上では役に立ちますが、行動の最良の行路を知る上では必ずしも方針を示すものではなく、その意味では役に立ちません。
 他方、知恵は方針を示します。知恵は知識に勝ります。知恵は、経験に鍛えられ、価値に根づいているものです。知識は、たとえば国境を越える交信手段をあたえますが、何について交信すべきかに関しては教えることができません。また知識は、他者を搾取するか、他者を助けるか、そのいずれにも用いられます。たとえば、自分の個人的な利益を目的として環境を搾取するのに用いることもできれば、未来の子孫のために環境と自然の資源を保存するのに用いることもできます。われわれはどちらのほうを選択するのか。この選択を導くのは、知識ではなく、知恵だと思います。
 現代社会に住む人間は、質素に生き、他の人々の幸福のために役立ち、もっと品位のある公正な世界を建設する方向に進むべきです。
 池田 先にふれたヒポクラテスは、その点を端的に「医師が知恵を愛する人であれば神にも等しくなる」(『ヒポクラテス全集』2、大槻真一郎訳、エンタプライズ)との言葉で表現しています。まさに、優れた「知恵」に導かれるとき、「知識」は無限の力を発揮するのです。私は、いうならば「知恵」は「水」であり、その「水」を汲み出す「ポンプ」が、「教育」であると考えていますが、今後は、そうした「知恵」を開発し、育みゆく「教育」の役割が、ますます問われていくのではないでしょうか。
 また、所長が述べられたように、古人の英知に学んでいくことも大切です。「口承文学」や「ことわざ」などもそうですが、民族の伝統文化や精神には、人々が長い経験から得た生活と人生の知恵が、豊かにあふれています。
 人間は、近代化の過程において、いつしか古いものは価値がない、あるいは価値が低いと考えて、伝統のなかで育んできたものを切り捨ててしまうようになりました。しかし、幾百世代にもわたって蓄積され吟味されてきた知恵が断絶してしまうことは、人類にとってあまりにも大きな損失です。
 そうした先人の英知の声に、謙虚に耳をかたむけ、学んでこそ、現代人の生活は、より豊かで、賢明なものとなるのではないでしょうか。
9  思いやり、勇気、そして献身
 クリーガー 一生の行路のなかで、人間はほとんどの人が、大なり小なり、知恵を体得します。しかし、おかしなことに、現代の社会では知恵を次代の人々に伝えるよりも、富や財産を残すことが重要とされています。法律も、遺産の相続方法に関しては取り決めがありますが、知恵の相続方法に関しては、ほとんど考慮がなされていません。
 知識を詰め込んだ図書館や、蔵書は大きくなっていますが、人生を導く自身の知恵は、個々人が、それぞれで見つけざるをえません。大学は大方、知識の御用達になっており、知恵や人生の価値については、ほとんど教えず、模範を示すこともありません。
 このような時代に私がお奨めしたい人生哲学は、「三つのC」を重要とする生き方です。すなわち、Compassion(思いやり)、Courage(勇気)、そしてCommitment(献身)の三つです。これを実践すると奉仕の人生になり、蓄財の人生にはなりません。この生き方をすれば、人は暴力には反対し、他者を尊重するようになるでしょう。
 池田 「三つのC」――すばらしいご提案です。これこそ「人間主義」が包含する要素です。所長のお考えは、私どもSGIの志向性と完全に一致しています。苦悩する友への思いやり、悪と対決する勇気、一人の人を立ち上がらせるための献身。これらが脈打っていたからこそ、SGIはトランス・ナショナル(脱国家的)な組織に成長できたのだと思います。そして、その運動にたずさわるメンバーには、活動の第一線で磨かれた知恵があります。
 困難を克服する知恵、人々の理解と賛同を得るための知恵、忍耐と寛容を根本としつつ誘惑を退ける知恵が、一人から一人へと伝えられ、蓄積されてきたのです。
 なかでも「思いやり」は勇気と献身の源泉として、仏教で説く「慈悲」に通じていると思います。
 クリーガー この「思いやり」には、「人間の尊厳性を信じる」ということが、本来備わっています。それは、すべての国境を越えて広がるべきものです。思いやりは人工的な国境に制限されません。思いやりのある生き方をするには、「勇気」と「献身」が必要でしょう。
 このような哲学の根底には、「一人の人間が物事を変えることができる」という信条があります。私は一人の人間の変革の力を信じています。そして、勇気と献身と思いやりのある生き方を貫いた人生の鑑として、マハトマ・ガンジー、アルバート・シュバイツァー、マザー・テレサ、ローザ・パークス、セザール・チャベス、マーチン・ルーサー・キング等々の人々を尊敬しています。
10  「内なる世界」の変革
 池田 先にも述べましたが、近代科学は物質世界を観察して、その法則を探究する学問です。その特徴は、分析と総合にありますが、その方法論は、自己とその対象を対置し、客観的に観察するというものです。
 しかし、この方法が、ミクロの世界におよぶと、科学は、量子論という「不確定」の世界に入っていきます。そして、ミクロの世界はそのまま、マクロの宇宙論の解明とも一体となって進展し、アインシュタインの相対性理論にもつながっていきました。
 また、現代の科学は、人間の遺伝子、生態学から大脳の領域にまでおよんでいます。現代心理学や精神医学の分野でも、長足の進展がありました。仏法者の視座から、現代科学の展開を考察してみますと、生態学や量子論、相対性理論や心理学の動向などと、仏教の法理は、決して矛盾するものでないことがわかります。
 たとえば生態学は、仏法の「縁起」論と通じ、量子論や相対性理論は、仏法の「不二」の法理に通じています。
 クリーガー きわめて興味深いお話です。科学(理性)と精神性(直感)の両方が必要です。もっとも優れた科学は、しばしば直感を含んでいるものです。
 池田 仏法の法理のなかには、「九識論」と呼ばれるものがあります。「九識論」は、内面世界を縦に掘り下げ、表層の自己のさらに奥に、深層の自己を見いだすものです。外界を認識する眼・耳・鼻・舌・身の五官の働きと、思考を司る意識を六識と呼び、その奥に「末那識」を立てます。
 「末那」とは思い量るの意で、この識は、意識の奥で絶えず活動し続け、強く自我に執着する心の作用をいいます。西洋の現代心理学との関連性で言えば、フロイトの発見した「無意識」の領域は、このあたりをさすと思われます。
 そして「末那識」のさらに奥に第八の識、「阿頼耶識」を立て、前七識の基盤となる深層の心としております。西洋心理学では、ユングの「集合無意識」が同じ領域をめざしていますが、この「阿頼耶識」には染浄の二法が含まれているとします。
 大乗仏教のなかの唯識学派ではこの「阿頼耶識」をもって自己の根底としています。
 しかし、天台学派や華厳学派では、染浄の二法を超えた清浄無染の第九識「阿摩羅識」を立て、これを根本の自己としています。
 クリーガー にわかにその内容を理解することはできませんが、フロイトやユングが無意識の世界を発見するより前、それも遙か以前に、無意識の世界を、このように詳細に認識していたことに感銘します。
 池田 科学は「外なる世界」である環境の変革から出発しましたが、仏法は自己の「内なる世界」の変革を基盤として、外的世界である社会総体の改革へと向かうのです。ローマ・クラブの創設者アウレリオ・ペッチェイ博士と対談したさい、私たちは「内なる世界」の変革、すなわち「人間革命」の必要性について、意見の一致をみました。科学技術の暴走を正し、現代文明のかかえる危機から人類を救い出すには、もはや対症療法的な処方箋ではどうにもならないところまできています。
 クリーガー 内的世界の革命は、人類の未来のためには不可欠な変革です。これまでのような消費を続けていては人類に未来があるとは、とても言えません。変革のカギは、仏教に説かれているように、われわれの欲望を統御することです。つまりわれわれは、より質素な生活を営み、われわれの満足を蓄財以外の道に求めなければならないということです。
 会長は、菩薩界の道を貫くため、利己主義の超克と利他主義の生き方を示されました。利他主義の生き方は、自己が他者のためになすことに満足を得る道です。そして、この道こそが、物質主義の支配を脱する道ではないかと思われます。
 物質主義に支配されている人が「これには私にとって何の得があるのか」と問うのに対し、利他主義の生き方を貫く人は、「あなたのために私は何ができるか」と問います。この両者の志向には大きな違いがあります。
 前者は、物的な富の蓄積と、自己中心性を推し進め、後者は、寄与と分かちあいと、愛の行為を推し進めます。
 会長の言われる「利他の行為」は、私の意味する「思いやり」と同義ではないでしょうか。「利他の行為」は、私には「行動のともなう思いやり」と思われるのです。思いやりは不可欠ですが、それだけではまだ十分ではなく、行動に移さねばなりません。
11  「利他の行為」をいかに教育するか
 池田 そのとおりです。仏法では、利他の生き方によって、「煩悩」を「智慧」などの「善心」へと変革する道を示しております。大乗仏教では、「煩悩即菩提」と言いますが、「貪欲」や「瞋恚」(暴力性)、「愚癡」(自己中心性)などを、「慈悲」や「信頼」、「非暴力」や「利他」の心に変革することをめざしています。十三世紀の日本の仏法者・日蓮は、この法理を、「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」と述べています。
 煩悩の持つ生命エネルギー――この中には、科学や文明発展の原動力となる欲望も含まれますが――を自己と人類の幸福のためのエネルギーへと、質的に転換することにより、「利己」を「利他」へ、「暴力」を「非暴力」へ、そして「不信」を「信」へと転換していくことができる。その「利他」の生き方のなかに、慧火(智慧)が輝いていくと、仏法は説くのです。言うなれば、この智慧によって知識を活用し、「行動のともなう思いやり」の人生を開くのが、菩薩の生き方なのです。
 クリーガー 世界を変革するには、何人の菩薩が必要なのか。あるいは、どれほどの利他の行為が必要なのか。これらは答えられない問いです。ただ言えることは、現在世界に存在する菩薩や利他の行為のみでは足りないということです。もっとふえなくてはなりません。
 これには育成が必要ですが、現行の教育のみではできません。これまでは教育といえば、主に読み書きと算術を教えることだとされてきました。これらは教育の基礎ですが、これだけでは事足りません。人類が一つの生物種として直面している深刻な脅威から脱するには、思いやりと利他の教育が必要です。生命の貴重さと尊厳性を最優先する価値の教育こそが、内なる変革の根底になければなりません。
 科学者と技術者は、しばしば社会のなかでもっとも優秀な頭脳をもった人々の一部であるとされています。彼らは知識を集成し体系化します。しばしば非常に創造的でもあります。しかし思いやりと利他の行為をともなわない科学技術が、現代の人類を破滅の淵に追い込みました。
 ただ頭脳が優秀であればいいというものではありません。ただ知識人であればいいというのでもありません。それだけではなく、一個の人間として、自分が何を創造しているのかをわきまえ、この創造は結果的に何をもたらすのかを、理解していなければなりません。
 池田 大乗仏典の中には、釈尊が、「二乗」と呼ばれる優秀な弟子たちを、厳しく弾呵する場面が描かれています。割れた石が二度とくっつかないように、また炒った種が決して芽を出さないように、おまえたちは決して成道できないと。
 釈尊が彼らを弾呵した本意は、その能力が人並み以上に優れ、他への影響力が大きいにもかかわらず、ややもすれば、みずからのエゴの殼に閉じこもり、利他の行を行わないからでした。釈尊は、頭脳が優秀なだけで、他への思いやりを持たない人間のもつ危険性を危惧したのでしょう。
12  言葉から行動へ――選択と決断
 クリーガー 思いやりのある世界を欲するならば、まず欲する人が、思いやりのある生き方をしなくてはなりません。利他が実行される世界を望むならば、まず望む人が、利他を実行しなくてはなりません。平和な世界を願うならば、まず願う人が、平和を守らねばなりません。公正な世界を念じるならば、まず念じる人が、公正な生き方をしなくてはなりません。
 言葉には変革力がいくらかはありますが、言葉の力は、行動の力には遙かにおよびません。みずからの行動をもって生き、一人一人が周りの人たちの手本にならなくてはなりません。現代に生きるわれわれが、各自の日々の行動と決断によって、われわれが念願する未来の模範を形成しなくてはなりません。
 われわれが現在直面している危機を乗り越えるためには、人間はどう変わらねばならないか。私は、根元的に変わらねばならないと思います。根本的には、「本来の人間」に帰らねばなりません。
 池田 先ほどもふれましたが、ペッチェイ博士と地球の環境問題をめぐって語りあった結論も、危機を乗り越えるためには「人間それ自体の革命」が何としても必要である、ということでした。
 エゴと欲望肯定の文明を転換するためには、具体的な方策を立てることも大事ですが、根底に内面の変革をともなう人間革命がなければ必ず行き詰まります。
 クリーガー 人間は「考える、感情をもった」動物です。われわれ人間はこの世に生をうけ、他の多くの生物と一つの世界に共に生きています。われわれは、この世界を現存のまま次世代に相続させる責任があります。これらの基本に返り、本来の人間に返り、虚栄や見せかけや言い訳のすべてを脱却できれば、所有するのではなく存在する歓び、奪うのではなく与える歓び、他を愛する歓び、これらの素朴な歓びを中心にする幸福、この幸福に満たされる生を営むことができると思うのですが。
 池田 それこそ、限りある地球環境のなかで、人類が共生していくための要諦です。人間の真に平等な生き方は、「自他共に喜ぶ」なかにあるのではないでしょうか。
 クリーガー 種としての人間の発展において、私たちは今、人間らしく生きるために、いくらかの危険を冒さねばならない時点に達しています。この冒険の一つは、人間の間の差異を解決するのに暴力を用いるのではなく、もっと良い方法を探し出すために尽くしていけるかどうか、という意味での冒険です。
 もう一つは、他者のための行為は結局、他者のためになるだけではなく、自分自身の生を豊かにするとの信念を分かちあうことができるかどうか、ということです。
 池田 そうした「冒険」は、今、もっとも求められていることでしょう。発想の転換、人生観・社会観の転換、利己的欲望との闘いという冒険です。
 クリーガー 人類には新しい英雄の群像が必要です。これまでの歴史において他者を敗北させることによって自分の地位を獲得した人は、すべて英雄の台座から失脚させる必要があります。そして彼らに代わる英雄として、たとえば医学における治療法を発見した人、食糧不足の解決法を発見した人、紛争の非暴力的解決手段を発見した人、利他主義の精神を実践してきた人を大切にする必要があります。
 もし人類が、戦争の災難はもとより、現代の人間が直面している他の災難を世界から除去しようとするなら、まずわれわれ自身の心から暴力を追放し、われわれ自身の尊厳は他のすべての人間の尊厳に依っていること、この美しい地球はわれわれだけの惑星ではないことを認識しなくてはなりません。
 池田 世界が相互依存で成り立っていることを、人類は、あらためて認識しなければなりません。単独で存在するものなど、何一つありません。
 現代宇宙論や、生能学の成果、また仏法に説く「縁起」の思想は、まさにそのことを教えたものです。人間と自然、人間と国家・社会、人間と人間――それらの関係性のなかで人間は生を営んでいるのです。それを破壊する戦争、環境破壊は、結局、人間の心の荒廃が外に噴出したものといえるのです。

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