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日蓮大聖人・池田大作

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3「楽観主義」と「漸進主義」  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

前後
1  池田 平和運動に努力する人々に、よく向けられる非難の言葉に、空想的とか非現実的とかいったものがあります。
 しかし、何が現実的で何が非現実的なのか――。実際のところ、この区別は、いわゆる"現実主義者"の人たちが一方的に決めつけた恣意的なものにすぎないと、私は強く感じます。
 クリーガー 同感です。自身を現実主義者と見なす人々は、比較的に賢明な人でも視野が狭く限られています。そういう人々は、世界と人間の性質を「性悪」と「野蛮」と見なした思想家ホッブズと同じです。人間の条件に適切に対応できるのは、あくまで「力」であると信じているのです。
 彼らは、えてして、社会的資源を軍事目的に費やし、わが身の安全を大量破壊兵器を含む精巧な武器に頼ることに熱心です。社会を変えることなど、まったく無理であると考えているからです。
 最悪の現実主義者というのは冷笑的です。彼らは自分たちの人間観を口実に、自身の計画だけを着々と進め、社会が悪くなり、世界の貧しい人々がさらに悲惨な状態におちいるのを放置しています。彼らの世界観は、よりよい人間的な世界への可能性を認めず、変革をめざす人々を排除しようとするものなのです。
2  必要なのは「新しい現実」を生む挑戦
 池田 危機が迫っているのに、現実主義者は、その解決のために行動する人々を非難して、足を引っ張ろうとする――ここに、現代の悲劇性があると思います。意図的にしろ、そうでないにしろ、危機を見すごすのは、人間として不誠実な生き方ではないでしょうか。
 何事もうわべだけで判断し、"慣習"という尺度で万事を測ろうとする。そんな姿勢では、変化してやまない現実から、かえって離れてしまう結果にもなりかねない。所長が言われるように、賢明なはずの人でも、この"落とし穴"に気づかない場合が多いのです。
 必要なのは、新しい現実を生みだす挑戦であり、世界は変えられるとの希望を示すことでしょう。
 クリーガー ええ。ですから私は、「性悪説」に立つ人々に対し、人間は私たちの技術と同様に、善にも悪にもなる可能性があると反論したいと思います。人間は教育によって変わることができる。教育によって、野蛮にも冷酷にもなれるし、他の人々に対し慈しみ深く、利他的にもなれます。
 幼い子どもは、育て方しだいでどちらにでも育っていく可能性をもっている。だからこそ、たがいに慈しみあう社会を建設するためには、慈愛をもって子どもたちを育む必要があります。
 池田 未来を創るには、まず教育から――まったく同感です。
 創価学会も、当初は、「創価教育学会」として出発したものであり、牧口初代会長も戸田第二代会長も教育者でした。後を受け継いだ私も、教育こそ最重要の事業と心に定め、創価学園や創価大学などを創立し、人間教育の確立をめざしてきました。人間を、真の意味で人間にするのは教育です。教育が人間性を深め、その人間が社会をつくり、未来を決定づけていく。教育の深さこそ、社会と文化の深さであり、平和の深さを決するものなのです。
 所長が言われるように、人々がたがいに理解しあい、同じ人間として信じあう連帯の強さにも、教育は大きくかかわるものといえましょう。
 クリーガー 私は、"理想主義者"がこれまで以上に必要となる時代を迎えていると考えます。より良い未来への道を示すのは、理想主義者です。アインシュタイン博士が警告したように、「思考法を改めること」を身をもって示しているのが、理想主義者なのです。
 平和活動家は、現在を未来に投影するよりも、理想(希望)にもとづいて行動することが多い。変革を可能にするのは希望です。希望は、現実主義者が押しつける障害を打ち破り、たんなる過去の延長線ではなく、よりすばらしい未来への扉を開くものなのです。
 池田 人々が"現実"と考えていることが、実際、どれほど視野の狭いものであるか――。
 これを示す一つの史実があります。ナポレオンが、世界には「武器をもたない国」があると聞き、とても信じられないと答えたというエピソードです。
 一八一六年に沖縄を訪れたイギリス人が、当時、セント・ヘレナ島に流されていたナポレオンに、「大琉球という武器を持たない国がある」と報告した。するとナポレオンは「なんということか!武器を持たない国があるなど信じられない!」とたいへん驚いた(バジル・ホール「セント・ヘレナでのナポレオンとの会見記」大熊良一訳、『セント・ヘレナのナポレオン』所収、近藤出版社、参照)というのです。
 現代においても、コスタリカ共和国のように、完全に軍備をなくした国が出てきました。
 クリーガー コスタリカの例は、重要です。軍隊がなくても国は生き残り、繁栄できることを証明した実例ですから。沖縄の話を現代に置き換えるならば、さしずめ"核兵器のない世界"など想像もできないと言い張る人々などは、この話のなかのナポレオンと同じですね。冷戦が終わったのに、遅々として核廃絶への歩みが進まないこと自体が、それを証明しているのではないでしょうか。
3  求められる「想像力の回復」
 池田 ですから、現代人には、かりそめの現実に囚われない「想像力の回復」が求められるのです。想像力こそは、理想と現実をつなぐ架け橋であり、希望の源泉です。
 ケネディ大統領はかつて「平和の戦略」と題する講演の中で、「われわれの問題は人間が生んだものである。それゆえ、人間はそれを解決することができる」(『ケネディ大統領演説集』黒田和雄訳、原書房)と訴えました。ケネディ大統領は、平和は不可能だとか、人類は破滅の運命にあるといった諦観に対し、人間はみずからの運命を切り開く力をもっていると叫んだのです。
 この点、かつて所長は「何が現実的か、空想的かは、それを言う人の見方、立場によって違う。
 私は、民衆のサポートがある時、"理想"と言われているものも"現実"になると考える」と言われたことがありましたね。
 クリーガー ええ。何が現実的かは、その人の恣意的な判断にすぎない場合が多いのです。
 私はここで、二つの未来の姿――もっとも明るい未来と、もっとも暗い未来を想像してみたいと思います。
 まず明るい未来は、「平和の文化」の上に築かれるでしょう。そこでは、人間がたがいに尊敬しあい、慈しみあう社会が生まれる。そして、人間の可能性が花咲く教育を、すべての人間が受け、輝かしく生きる道が開かれるでしょう。
 明るい未来が築く文化は、あらゆる生命の存在や地球を尊ぶことでしょう。人間は地球のよき執事となり、その資源を未来の世代のために守っていくようになると思うのです。
 池田 そうした時代の流れは、少しずつですが芽生えてきていると思います。
 クリーガー ええ。ある意味でそう言えます。しかしまた、それとは逆に、世界が地獄のようになる未来も想像できます。この未来では、人間が資源を浪費し、健康と生命に不可欠な空気と水を汚染し、地球を荒廃させてしまうでしょう。
 そこでは減少する資源をめぐって、絶えず争いが起こるでしょう。民族間や宗教間、また国家間の憎しみが蔓延し、軍国主義と「戦争の文化」という火に油を注ぐことになるはずです。
 そんな世界では、貧しい人々はますます貧しくなります。ホッブズの言うように、人々はますます短命となり、その生活は人間性を奪われた悲惨なものになるでしょう。
 一方で富める人々はますます裕福になるでしょうが、その生活は戦乱や環境破壊などの恐怖に脅えたものになり、排他的になるでしょう。彼らが生き延びるにしても、その命を新しい疫病が絶えず脅かすことも想像できます。そうなると、より良い未来への希望は遠のくばかりです。
 二つの人類の未来を想像したわけですが、そのいずれかの道を私たちは選ぶことになるのです。
 実際に、どちらを選ぶのか――これが人類全体、そして私たち一人一人が直面するもっとも重要な問題です。
4  人間の二面性――「善」と「悪」の心
 池田 仏法でも、人間生命には「善」と「悪」がともに具わっていると説くことは、すでに述べたところです。人間の心には、苦しみに満ちた「地獄」の境界、貪りにおおわれた「餓鬼」の境界、弱きを脅し強きを恐れる「畜生」の境界がある。また、人々の苦悩を取り除き喜びをあたえていこうという菩薩界や仏界もあり、すべての生命状態が具わっているととらえるのです。これを十界論と言います。そして、悪も善も本質的に不可分であるのが生命の姿であることを、仏法で「善悪一如」と言うのです。
 クリーガー 善と悪は、ともに存在しうる。善と悪は、つねに緊張関係にあるのですね。
 池田 ええ。自分も他人も、ともに善にも悪にもなりうる存在であるととらえることで、自分の生命に悪を見いだし、同時に他人の生命に善を見いだすことができる。そして、たゆみない精神闘争を通し、善を引き出し、悪を抑えていく「自律」の力を養うことが肝要であると、仏法では説くのです。つまり「一念」の転換によって、「悪」も「善」に変えていけると説いたのが、「善悪一如」の法理です。また、この法理は、「一念」の転換という心の変革が、自身の革命に通じ、その波動がやがては社会全体の変革をも可能にしていくことを示しています。出発点は、何事も「自分」なのです。
 これが、私どもSGIが進める「人間革命」運動の基調をなす根本原理です。所長が予見されたように、人類が今後、暗い未来へと進む可能性はあります。しかし、それは、決してさけられないものではないと、強く確信しています。
5  「人間革命」こそ希望の未来への直道
 クリーガー そうです。絶対に悲劇を繰り返してはなりません。
 しかし、そのためには、私たちがただ「平和の道」を選ぶというだけでは不十分で、実現に向けて懸命に行動する必要があります。理想の実現のため、みずからが献身するとともに、他の人々がその行動に参加するように全力で励まさねばなりません。それができなければ、結局、私たちは暗い未来への道を進んでしまうでしょう。
 このまま方向転換せず、安易にもっとも摩擦の少ない道を進んでしまえば、ふたたび人類が悲劇の時代を迎えてしまう可能性は大いにあります。
 池田 理想を現実にする戦い――その苦難に向かう覚悟と情熱を持ち続けることが必要ですね。アルゼンチンの作家コルタサルは、こんな言葉を述べています。
 「現実をわれわれの夢に応えてくれるようなものにしなければならない。
 空想的なものと具体的なものを分かっている境界を取り除いて、われわれが自己を実現し、失われた楽園がそこ、すべての角を曲がったところにあったのだということを発見するまで、夢を見続けなければならない」(『通りすがりの男』木村栄一ほか訳、『ラテンアメリカ文学選集』11所収、現代企画室)と。
 理想とは、何も遠く離れたところにあるのではない。一人一人が本来の人間性を取り戻せば、「すべての角を曲がったところ」に発見できる――。
 このコルタサルの言葉は、私たちが掲げる人間革命の理念にも相通ずるものなのです。
 クリーガー コルタサルの言葉には、私も感銘を受けます。現実を理想に合致させるのは、人間にとって何よりもすばらしい挑戦です。
 世間の悲哀やむなしさの多くは、人々の夢の実現を妨げる社会構造に起因しています。ある種の社会機構、とくに残酷な独裁政権は、夢をもつことさえ抑圧しようとします。また消費社会では、より巧妙な形で、真の理想を商品への欲望にすり替えてしまうのです。
 池田 理想をいだくことさえ禁じようとする社会は、言語道断です。そのような社会が必ず崩壊していくことは、八〇年代以降、ラテンアメリカ諸国における軍事独裁政権の崩壊や、東欧諸国で起こった変革の動きをみても、明らかでしょう。
 それと比べ、危機が表面化しない分、深刻といえるのは、所長が指摘されるように、消費社会において真の理想というものが曇らされてしまうことにあります。
 この点、チェコの哲人政治家ハベル大統領は、消費社会に埋没し欲望のままに動くだけで、生きる意味を見失った現代人の姿を、家畜にたとえ、こう警告しています。
 「かくして人間は――自分と自分の生を自ら請け合うことをやめて――必然的に、自律的な人格の自覚と威厳を失い、泥沼全体への帰属に完全に依存している泥の塊と化すのである」(石川達夫『マサリクとチェコの精神』成文社)と。
 であればこそ、人間の生きる意味を回復し、人々の心に希望を取り戻すことが、何よりも大切になると、私は思うのです。
 クリーガー 同感です。とくに青年たちが、自分自身と人類のために、より良い未来を創り上げようとの理想をいだけるように、後押しする必要があります。と同時に、人々のそれぞれの夢が実現できる可能性が大きくなる社会を建設する努力が、私たちに求められます。「すべての角を曲がったところ」というコルタサルの言葉には、私なりに理解したところでは、次のような意味があるのではないでしょうか。
 すなわち、"本当に大切な理想とは何か"を見いだす前に、私たちは戦わねばならず、また戦うことによって、自分たちが本当は何者であるのか、その本分がわかるということです。
6  漸進主義の意義
 池田 現実から逃げず、たえず現実との闘争を続けるなかで、真の自分に目覚めていく――仏法で、行動を重視するのも、一つはそのためです。
 ここで、理想を実現する具体的な方途について考えていきたいと思いますが、核時代平和財団では「平和の種を蒔く」をモットーに掲げておられますね。
 クリーガー ええ。これは私が非常に重要であると考える理念です。願っただけでは世界は変わらないことを、私たちは認識しており、「平和の種を蒔く」作業こそ、ある意味で、私たちに残された唯一の手段といえるでしょう。私はこれまで、一つの出来事や活動で、世界を変えようとする人たちを多く見てきました。そういう人たちは行動力に満ちあふれ、きわめて情熱的です。
 しかし問題は、理想を実現するためには、それだけでは十分でないことにあります。自分たちが行動したにもかかわらず、世界が劇的に変わらなかった時、そうした人たちは幻滅して、あきらめてしまうことが多いのです。活力に満ちた人たちが、平和の種を蒔く作業をやめ、結局はあきらめてしまう例を、私は多く見てきました。それは大きな損失というものです。
 池田 まったく同感です。ガンジーが「善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである」(坂本徳松『ガンジー』旺文社)と述べたように、平和運動は漸進的に進めていくべきものであり、一気に事を進めようとする急進的な手法では長続きしない場合が多い。
 ともすれば漸進主義は、妥協や時間かせぎといった消極的な意味合いで理解されてきたきらいがありますが、決してそうではない。本当に「勇気」と「忍耐力」のある人しかできないものです。
 誠実な対話を通し、一人一人の心に平和の種を蒔きながら、多くの人々の理解と納得を得ていくしか、真に時代を変革することはできません。迂遠のようでも、これが平和創出の王道なのです。
 クリーガー 会長がおっしゃるように、平和の種を蒔くことには強い忍耐力が求められます。
 ただ種を蒔くだけでなく、それを育てることも必要であり、然るのちに収穫を得ることができるのです。この意味で、"種を蒔く"という理念は、平和が一つのプロセス、持続的な献身を必要とするプロセスであることを人々が理解するのに役立つことでしょう。
 平和の種を蒔く作業に実際にたずさわる時には、その種がよく育つ「新しい方法」と、「肥沃な大地」を探し求めるでしょうから。
 池田 私もそうした思いをこめて、一九七五年(昭和五十年)のグアム島でのSGIの発足にあたって、「自分自身が花を咲かせようという気持ちでなく、全世界に平和の種を蒔いて尊い一生を送ろう」と呼びかけたことがあります。
 クリーガー まことに崇高な言葉です。そのような生き方こそ、自分の人生を、より意義あるものにすると思います。長期の献身を持続するには、平和そのものが目的でなければならないのです。
 よりよき平和な世界をめざし献身しようとする人は、その活動のなかに、そして困難に勝つ努力のなかに、自身の喜びを見いださねばなりません。また、同じ目標に向かう人々とともに前進できる喜びも、味わうことができるでしょう。
7  何があってもあきらめない楽観主義
 池田 こうした漸進主義の行動を支える原動力になるのが、「何があってもあきらめない楽観主義」と、「民衆の力に対する限りない信頼」といえますね。
 平和学者のガルトゥング博士も、青年へのメッセージとして、「頭は現実主義であれ。そして、心には理想主義の炎を燃やし続けよ」と語っておられました。
 この両輪をあわせ持つことが、変革を現実のものとするための要件だと私も思います。
 現実をしっかり見据えながらも、決してそこに埋没したり、安住しない。つねに楽観主義という理想への炎を燃やしながら、道なき道を切り開いていく資質が現代人には求められると思います。
 クリーガー 会長のおっしゃる「何があってもあきらめない楽観主義」が、私は大好きです。私たちは、楽観主義を選びとる必要があります。それが「希望」を「選択」していることになるでしょう。しかしこれを維持するために、時として精神面での大闘争が必要となるように思われます。
 人間は正義が勝利すると信じたい。けれどもつねにそれが勝利するとはかぎらないことを、人生のなかでしばしば教えられます。多くの人々が不当な苦しみを受ける場合は少なくありませんし、法律でさえもつねに正当であるとは限らないのです。ですから、「何があってもあきらめない楽観主義」は、ある部分、鍛錬と献身の賜物といってよいでしょう。
 池田 理想への情熱を失うことなく、たえず現実の問題と格闘し続けてこられた所長のお言葉だけに、重みがあります。そこでお聞きしたいのですが、人々が現実主義的な思考から脱け出し、理想の実現をめざして生きていくためには、何が必要であると考えますか。
 クリーガー それには何といっても、確信と決意が大切であると思います。
 まず理想を持ち、その理想が"闘い取る価値のあるもの"であることを信じることです。よりよき世界を創造することが、"可能である"との信念を持続することが必要です。現実主義的なアプローチと訣別するには、自己満足の鉄鎖を断ち切らねばなりません。
 これは、決してやさしいことではありませんが、このような生き方をする人は、他の人々の模範となり、先達となります。自己の理想に忠実に生きた人生は、必ずや他の人々の人生に、影響をおよぼしていくのです。
8  民衆を強く賢明にする「教育」の力
 池田 一言で「戦争をなくす」といっても、民衆が立ち上がり、権力の暴走を止める力をもたなければ、戦争の悲劇はやむことはないでしょう。
 その意味でも、民衆一人一人が賢明になり、強くなり、連帯していくことが必要ですね。
 クリーガー 一人一人が、自身の英知や力量、団結心を十分に発揮できるような社会を創造することは、大きな挑戦です。これは、基本的には、教育の問題であると思います。
 そのような社会では、指導者たちもこうした資質を備えていますので、監視されたり、窮屈な抑制を受ける必要はないでしょう。しかしながら、今日のほとんどの社会は、この理想とは、ほど遠い状態にあります。よって、教育の重要な要素として、批判精神と独立心に富む思考力を培うことが大切になるのです。
 批判精神にもとづいて思考することにより、人間は当然のこととされてきた考え方に挑戦し、論理的基盤に立って、さまざまな要因を認識して、自分なりの判断に達することができるのです。
 自分で思考するためには、「考える力」に自信をもつことが必要でしょう。人々にその自信をもたせることも、重要であり、奨励されるべきです。私はベトナム戦争中、アメリカを風靡した、
 車のバンパーに張るステッカーにあった「権力に挑戦せよ」という言葉を思い出します。
 皆が自分の力で思考し、政治的権力者たちが行っている違法で倫理に反した戦争に協力しないというのが、メッセージの根底にあったのです。
 池田 そうでしたか。師もつねに「心して政治を監視せよ」と教えていました。そして、暴走する危険性をもつ権力を、人間のため、民衆のためという本来の方向に向かわせる原動力が教育であると強調していたのです。
 かつてほとんどの権力者は、民衆を飼い慣らすために、教育から遠ざけようと腐心してきました。教育が整備される時代に入っても、それは、権力への忠誠心を植えつけるためだけのもので、民衆が自分の力で考えるための教育は、長らく妨げられてきたと言えるでしょう。
 独裁者というのは、教育の発展を恐れるものです。本能的な嗅覚で、人々を無智のままにし、権威に従属する存在にしておきたいと思うからです。
 同様に、人間を隷属させようとする悪しき宗教も、教育の力を恐れ、教育に尽力する人を迫害してきた歴史がありました。教育がなければ、人間はやすやすと政治的権威や宗教的権威の奴隷になってしまう危険性がある。民衆がだまされ続ける限り、権力者はますます横暴になっていく――この悪循環を断ち切らねばなりません。断じて、戦わなければなりません。
 クリーガー まったく同感です。人々がみずから思考し、権力を自発的に監視する社会では、国家が弾圧や非道な行為を犯すことはむずかしくなるでしょう。民衆は日常生活のなかで批判精神を持ち、必要な時には権力の横暴を阻止するのに積極的でなければなりません。
 もちろん、政権が独裁的で抑圧的である場合は、権力への挑戦はより困難となるでしょう。しかし、その場合は国際社会が介入し、権力に挑戦する人々への権利侵害をやめさせなければなりません。

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