Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1 変革への意志と「民衆の力」  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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2  「核廃絶」に立ち上がった科学者たち
 クリーガー ええ。両博士は、私にとって「英雄」と呼ぶにふさわしい人物です。
 アインシュタイン博士は、二十世紀のみならず、時代を冠絶した科学者の一人でしょう。彼はまた、偉大な人間でした。人間性を一度も失うことのなかった人物だと思います。
 「核時代」の危険性を明らかにしたのも彼でした。その意味で、「予言者」と位置づけることもできると思います。アインシュタイン博士は「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました。かくてわれわれは、比類のない破滅にむかって押し流されています」(『アインシュタイン平和書簡』2、金子敏男訳、みすず書房)と語りました。彼は、人類が思考法を変革すべき新時代に入ったことを認識していたのです。
 池田 博士の魂の叫びは、"核兵器開発は、たんなる科学技術の進歩の問題ではない。人間にとって、より根源的な出来事である"との深い認識から出発していると思います。
 一九五五年(昭和三十年)、人類への遺言として彼が残したものこそ、「ラッセル=アインシュタイン宣言」でした。死の直前、イギリスの哲学者バートランド・ラッセル氏などと出した共同声明ですが、核時代における人間の生き方を問いただしたものです。
 クリーガー 私はこの宣言を、二十世紀におけるもっとも重要な声明の一つと考えています。
 そこでは、人類には未来を選ぶ可能性が残されているとし、こう謳っています。
  「われわれの前には、もしわれわれが選ぶなら、幸福、知識、知恵の不断の進歩がある。
  争いを忘れることができないという理由で、われわれは死を選ぶのであろうか。
  われわれは人類として、人類に訴える。
  あなたがたの人間性を心に止め、他のことを忘れよ。
  もしそれができるなら、道は新しい楽園に向かって開かれている。
  もしできないなら、あなた方の前には全面的な死の危険が横たわっている」
  たしかに、未来を選ぶ可能性は人類に残されている。しかし、「人間の尊厳」の道を選ぶには、並々ならぬ献身と不屈の意志をもったリーダーが必要であると、私は強く訴えたいのです。
 池田 わかります。平和や民主主義といっても、一朝一夕にできるものではありません。しかし、本物の一人が立ち、死力を尽くして戦えば、必ず活路は開ける。先のマンデラ氏の例に見られるように、信念の一人がいれば、新たな勝利の歩みが始まる――これが、歴史の不変の鉄則です。一人の勇気が次の一人へ、やがて万人の勇気を生み、
 万人の勝利を開いていくのです。
 クリーガー 私もそう思います。
 もう一人、私が尊敬するロートブラット博士は、その「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名をした十一人の一人であり、核兵器廃絶運動に身を捧げてきた科学者です。
 博士は、第二次世界大戦の最中の一九四〇年代に、原子爆弾を開発する米英両国の「マンハッタン計画」に加わっていました。しかし博士は、敵国ドイツが原爆開発に成功しないとわかった時に、計画から離れたただ一人の科学者でもありました。
 原爆製造の唯一の理由は、ドイツの原爆使用を抑止することにあると信じていた博士は、ドイツが原爆を製造できないと確信がもてた時、原爆を開発する仕事をやめたのです。
 このこと自体、すばらしいことですが、さらに称賛すべきは、博士が、それから半世紀以上にわたり、核のない世界をめざして献身されてきたことです。
 池田 ロートブラット博士と最初にお会いしたのは、八九年(平成元年)十月のことでした。その時、博士はこう言われました。
 「『戦争』は人間を愚かな動物に変えてしまう力をもっている。通常の状態では思慮分別のある科学者も、ひとたび戦争が始まると正しい判断を失ってしまう」と。忘れることのできない言葉です。
 博士は、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を受けて設立された「パグウォッシュ会議」の創始者の一人であり、その会長を四十年余にわたって務められました(現在は、同会議名誉会長)。人々を誤った道から救い、正しい軌道に戻そうとされるロートブラット博士には、敬意と共感をおぼえます。
 クリーガー パグウォッシュ会議は、世界が直面する危機を討議するために、東西の科学者が集ってできたものでした。ロートブラット博士が発言する時は、つねに「皆さんの人間性を思い出してください」という簡単なメッセージが繰り返されます。これはたんに科学者に対するものではなく、世界の人々に対するメッセージでもあるのです。ロートブラット博士とパグウォッシュ会議が一九九五年にノーベル平和賞を受賞した時の、博士の講演のタイトルも、このメッセージでした。
 池田 かつて、アメリカの思想家エマーソンも、ロートブラット博士に相通ずる主張をしていますね。エマーソンは国家や社会、科学や教育はすべて人間性に立脚すべきであると訴え、「われわれのうちにひそむ人間性を尊ぶことは、最高の義務ではないか」(『エマソン選集』4、原島善衛訳、日本教文社)と述べております。
 "人間性を忘れるな!"とのメッセージは、簡易な表現ですが、危機を前にして人々が問題の複雑性にとまどい、解決法を見失った今こそ、立ち返るべき原点です。
3  平和と科学の巨人ポーリング博士の情熱
 クリーガー 本当ですね。
 「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した科学者で、私が心から尊敬しているもう一人の人物は、ライナス・ポーリング博士です。アインシュタイン、ロートブラットの両博士と同じように、ポーリング博士も核実験に反対し、公然と核兵器廃絶を主張しました。一九五七年に、ポーリング博士とヘレン夫人が、核兵器の大気圏内での実験をやめさせようと、科学者たちの嘆願書をまとめたことがありました。アメリカ国内で始まったこの運動は、しだいに反響を広げ、最終的には世界中の科学者が署名することになったのです。総勢九千人の科学者が署名した嘆願書を、博士は、ダグ・ハマーショルド国連事務総長(当時)に届けました。
 そうした行動をはじめ、世界平和への多大な尽力に対し、一九六二年のノーベル平和賞が授与されたのです。博士にとっては、化学賞に続く二度目のノーベル賞受賞でした。
 池田 ポーリング博士とは、対談集『「生命の世紀」への探求』(本全集第14巻収録)を編むなど、私もひときわ深い思いがあります。平和と科学――この二つの分野で、大きな足跡を残した博士の原動力となったものは、"人間を苦しみから救いたい"との情熱であったと、私は対談を通じて感じました。
 この思いが、博士の科学への尽きぬ探究心と平和への不屈の信念の源泉だったのです。
 博士が私に、「いちばん尊いのは、平和へ行動する人です。世界平和のために、私にできることは、なんでも喜んで協力させていただきます」と、言われたことは忘れられません。
 博士の逝去後、夫人やご子息に、ご協力をいただいて開催したのが、九八年九月にサンフランシスコで行われた「ライナス・ポーリングと二十世紀」展でした。
 これは、博士の崇高な生涯を通し、二十一世紀の人類への指標を学んでいきたいとの思いで提案したものです。
 クリーガー 所長にも、記念講演会で講師を務めていただき、ありがとうございました。
 クリーガー こちらこそ、心から尊敬するポーリング博士の展示行事に参加できたことは、私にとっても喜びでした。池田会長がそのために尽力されたことも、よく存じております。展示では、ポーリング博士の平和行動に対する反感や憎悪に満ちた手紙も含まれていましたね。
 池田 そうです。展示会場で上映されたビデオでも、政府やマスコミからの非難や弾圧にひるまない博士の姿が紹介され、ひときわ感動を呼んだとうかがっています。
 クリーガー 平和で安全な世界を求めて献身した人に、罵詈雑言をあびせるなど言語道断ですが、残念ながら二十世紀における国家主義の支配力とはそうしたものであり、それは新しい世紀に入っても変わらないでしょう。
 この状況はもちろん、ポーリング博士一人にあてはまるものではありません。しかし博士は、真実を見たままに語り、「人間の尊厳」を守るために一歩も退かなかった。この不屈の行動こそが、博士の偉大さの真の証です。
 「真実」と「人間の尊厳」のために戦う精神は、ポーリング博士だけでなく、先に述べたマンデラ前大統領、アインシュタイン博士、ロートブラット博士それぞれの生涯を特徴づけるものであると思います。
 池田 私は、そうした先達たちと同じ精神を、クリーガー所長から感じます。
 所長が、世間の無理解や無関心という"厚い壁"に負けず、これを打ち破ろうと情熱を燃やしてこられたことを知っているからです。
 クリーガー 恐縮です。今後も、そうした壁を打ち崩すための挑戦を続けてまいります。
 池田 前にも述べましたが、創価学会の牧口初代会長、戸田第二代会長も、ともに平和と人道のために戦い抜いた人でした。
 当時、二人は、侵略や人権侵害など暴虐の限りを尽くす軍国主義ファシズムに、まっこうから対決したのです。その行動は宗教的信念によるものでしたが、たんに一宗一派を守るためではない――「人間の尊厳」を脅かすファシズムを阻止するという、普遍的な見地に立つものでした。
 クリーガー 池田会長は、その両会長の平和と人道の闘争をさらに前進させ、平和と正義の世界を築く運動において、一貫したリーダーシップを発揮してこられました。
 池田 ご指摘のとおり、私の平和行動の原点は、すべて師である戸田先生にあります。師の心を受け継いで、平和への闘争を世界に広げてきた私の人生も、迫害と非難の連続でした。
 しかし、師との誓いのままに信念に殉じようと心を定めていたので、何があっても動じることはなかったのです。
4  現代社会を蝕む「無力感」と「あきらめ」
 池田 歴史を変革してきたのは「必ず実現させる」と信念の炎を燃やした人間の力ですが、残念ながら現代は、ぬぐいがたい無力感が社会をおおっているような気がします。「自分一人が、どうしたところで……」とか、「何をやっても、状況は変わりはしない」といったあきらめが、人々の心を大きく蝕みつつあると思うのです。心ある人も現実を前に希望を失い、自分の世界に小さく閉じこもってしまいがちです。そこに、現代の"一凶"があるのではないでしょうか。
 クリーガー 会長は大きなパラドックス(矛盾)を指摘され、挑戦課題を提起されました。
 民衆には本来、国家の政府と政策を変える力があります。これは「天命」という古代中国の考え方にさかのぼっても、つねに言えることでした。中国の過去の歴史において、為政者が天の信託を失った時、民衆が立ち上がり為政者を倒すことがあったのです。
 この十年間余りの間においても、民衆の運動が「ベルリンの壁」を打ち破り、ドイツの統一を実現しました。旧ソ連を解体し、そこに民主主義の政府を誕生させたのも民衆の力です。同じく、東欧諸国の共産主義の政権を交代させたのも、先にふれた南アフリカのアパルトヘイト政策を打破したのも、またフィリピンをはじめ世界各地の腐敗した政権を交代させたのも民衆の力でした。
 いずれもたしかに大変な壮挙と言えますが、変革はすべて国家の枠内にとどまるものでした。WTO(世界貿易機関)の民主化運動に見られるような世界的な構造変革をめざす強力な民衆運動は、今その兆しが見え始めたばかりです。けれども私は、今後、さらにそのような運動が現れると信じています。
 池田 歴史家トインビー博士は、究極において歴史を創るものは「水底のゆるやかな動き」(『試練に立つ文明』深瀬基寛訳、社会思想社)であると断言されていた。私は、この動きこそ、歴史の底流に息づく民衆の動向であり、民衆の力であると確信しています。所長が言われるように、国家レベルでの民主化はここ十数年で画期的に前進してきました。しかし、「グローバルな民主主義」は、まだ実現していません。前国連事務総長のブトロス・ガリ博士と会談した折(九八年七月)も、この問題が焦点となりました。
 ガリ博士は地球的な問題群にふれながら、「二十一世紀には、一国の力だけでは、問題の解決はできなくなるでしょう。『国際的な問題』に取り組まなければ『国内の問題』も解決できない――そういう時代なのです」と強調していました。
 クリーガー 今日、もっとも重要な問題の多くは、国境を越えたものです。交通・通信技術などのテクノロジーの発達によって、国境はたやすく越えられるようになりました。
 国境は、重大な環境汚染や疫病も、またミサイル攻撃も防げるものではありません。いかに強大な国であろうと、ミサイルが飛んできてしまえば終わりなのです。
 良い面としては、衛星テレビ、携帯電話、インターネットなどによる現代の通信手段によって、アイデアや思想、理念も容易に国境を越えることができます。このテクノロジーのために、多くの問題が国家を超えて広がり、地域的および世界的規模の問題となってきていますが、一方で、私たちがともに協力してこれらの問題を解決することも可能になってきました。
 池田 国境を越えるボーダーレス化の動きが進んでいるのに、人々の意識はいまだ「国境」にとらわれたままになっている――この点が問題の急所ですね。
5  「国益」から「人類益」へ意識変革を
 クリーガー 同感です。現代の矛盾とは、国家に忠誠を尽くすことが、しばしば人類のためになる行動を妨げる時代なのに、人々が今なお国家に忠誠を尽くすように教育されていることです。
 もっとも必要な教育は、大量破壊兵器と戦争を禁止し、世界の人々の人権を守るためのものです。
 しかし、人道に反する重大な罪を国際法のもとで裁く世界を建設しようという方向へ、人々の意識を向けていく国家の指導者は、今もきわめて少ないのです。
 池田 「国際刑事裁判所」の設置を求める運動を、所長が続けてこられたことは、よく存じています。九八年七月、ようやく、国際刑事裁判所設立のための条約が採択されたことは、まことに意義深いことでした。国連のコフィ・アナン事務総長は、それを「将来の世代への希望の贈り物」と評価しましたが、裁判所を実効性あるものに育てていくためにも、民衆のさらなる後押しが必要になると思います。
 クリーガー そうです。民衆にはその「力」があります。民衆は自分たちが悪用された時、それを鋭く感じとるものです。専制に対抗すれば、途方もない大きな障害に遭遇することになりますが、そこで退かずに立ち上がり、対抗する力が民衆にはあるのです。
 しかし、強大な国家で生活する大多数の国民は、自分たちの安全が大量破壊兵器に依存している状態と、それが潜在的に引き起こしている危険性に気づいていないようです。核保有国は他国を脅かすことはできますが、逆に、自分たちも同様の大量破壊兵器の犠牲になる脅威をも背負っています。また豊かな国家の国民が、えてして貧しい国の人々の苦しみに冷淡であることも事実です。
 富める国と貧しい国の格差を縮める努力は、ほとんど行われてはいませんし、その格差はじつのところ拡がる一方なのです。
 池田 グローバリゼーション(地球一体化)が急速に進むなかで、
 私たちはたがいの行動が大きな影響をあたえ合う時代を迎えています。その状況を認識し、これまでの「国益至上主義」の思考を改め、「人類益」に立脚した共存共栄の地球社会をめざす発想への転換が、求められています。
 私たちは、「ある場所の不正義は、あらゆる場所の正義にとっての脅威である」とのキング博士の言葉を、かみしめる必要があります。「国益」から「人類益」への転換――そのカギとなるのは、所長がおっしゃるように、他者を思いやる想像力ではないでしょうか。他の人々の苦悩に胸を痛める「同苦」の心、これを仏教では「慈悲」と説きます。
 クリーガー 今ほど、他者への想像力が必要とされている時代はありません。しかし現実は、「同苦」や「慈悲」とは正反対の、「自分さえよければよい」という考えや無関心が、裕福な人々の間に蔓延している。この事態を、私はもっとも心配しています。人類には、世界をもっと道義的なものに変革する、秘められた能力があるはずなのです。
 しかし、各地で起こる出来事を最新技術を駆使した世界的な情報網によって知ることができるにもかかわらず、大半の人々は危険な"自己満足"の感覚のなかに眠らされたままなのです。
 その姿を、ローマが燃えているのに夢心地にある暴君ネロの姿に譬えることができます。全地球的な脅威が増しているのに、安閑としてテレビのホーム・コメディーなどに興じている。それでは、破滅への流れを押しとどめることはできないのではないでしょうか。
 池田 厳しく現実を見つめ、一人一人が自分の身近で行動を起こすことです。声を発することです。
 自分一人ぐらい、といった考えがもっとも悪い。民衆一人一人が結びつき、
 根本的な意識変革をとげねばなりません。もはや、猶予はないのです。哲学者ヤスパースは、現代人の置かれている状況について、「われわれは、われわれに許された僅かな瞬間において、現存在の幸福を享受することを許されている。けれども、これは土壇場の猶予である」(『哲学の学校』松浪信三郎訳、河出書房新社)と指摘し、次のような警句を発しました。
 「人間の喪失、人間的世界の喪失という深淵におちいるか、いいかえれば、結果として人間的現存在一般の停止を選ぶか――それとも、本来的人間への自己変化によって、また予見されえない本来的人間への機会によって、飛躍をなしとげるか、いずれかを選ばなければならない」(同前)
 クリーガー その意味で、私たちの最大の挑戦課題とは、人類全体、また各人が直面している危険に目を覚まし、変革を要求する行動を世界中の人々に起こさせることでしょう。
 これは容易ではなく、実際は一対一の説得によって進めなければならないものかもしれません。それだけに、時には気力が挫かれ、希望を失うこともあるかもしれない。
 だからこそ、希望とともに、強い意志の力、精神の力が必要となるのです。

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