Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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4 日本とアメリカの使命  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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2  声をあげなければ「罪に値する」
 池田 核の管理の問題に加え、核の拡散の問題が起こっています。インド、パキスタンにおいて核実験が行われたことで、世界は、核兵器の脅威が続いている現実に目を覚まされましたね。
 実際、両国は、冷戦終結後の一九九〇年、核戦争寸前におちいったと言われます。「キューバ危機」以来の緊張であったという説が発表されました。(「ニューヨーカー」誌のセイモア・ハーシュ論文)
 クリーガー 旧ソ連にある核兵器、および核兵器の基準を満たす物質の管理をとってみても、テロリストや犯罪者、無責任な国家の指導者たちの手に渡るのを防止するのに十分かどうか、明らかではありません。
 この点で、世界は岐路に立たされています。核兵器を廃絶するのか、さもなくば核兵器が多くの国々、そしておそらくはテロリストにまで広がるのか、その分かれ目にあると、私は思っています。
 池田 「核抑止力」をいまだに唱える人々は、このまま一部の国が核を保有したままのNPT(核拡散防止条約)体制を続けるリスクと、非核の国際システムを敷いた時のリスクを、真剣に比較・検討すべきでしょう。保有国が核廃絶への努力を怠るならば、NPT体制が早晩、行き詰まることは目に見えています。
 クリーガー こうした状況の重大さにアメリカ国民をいかにして目覚めさせるか、
 これこそが、アメリカにいる私と同志にとっての、目下のむずかしい課題なのです。私自身、『われわれは皆、罪に値する』と題した記事を書きました。その中で主張したのは、「一国がその安全を核兵器に依存するのは、実際には、何億もの罪なき人々を殺す脅威に、その国の安全を依存するのと同じである」ということです。
 核兵器に安全を依存することは、道義の面から擁護できません。事実、私たちが置かれた状況は、ナチス時代のドイツ国民以上に、擁護できないはずです。あの時代のドイツ国民は、政府に少しでも疑いや批判を向ければ、当人だけでなく、家族全員が拷問や死にさらされかねなかった。今のアメリカや、西側の核兵器保有国には、そのような事情はありません。
 私たちには、政府の方針に疑問を投げかける自由があります。にもかかわらず、核の問題については抗議が少ない。ですから、もし核兵器が将来使用されたなら、私たちは皆、罪に値するはずです。自分たちの声を聞き入れさせる機会があるのに、大方の人々は、発言する機会をのがしているのですから。
 これは、今日の悲しむべき社会道徳についての論評ですが、社会道徳は当然のことながら、個人個人の道徳の反映でもあります。
3  「核兵器を持とうとする意思」の廃絶へ
 池田 その意味でも、所長がなさっておられるような、啓発の努力が重要です。一方で、核廃絶を呼びかける国家群「新アジェンダ連合」、またそれを支援するNGO組織「中堅国家構想」など、心強い動きもあります。所長もこれに加わっておられますね。
 所長もよくご存じのとおり、一九九六年、アメリカのリー・バトラー元戦略司令部最高司令官が、各国の軍指導者とともに核廃絶を訴えました。みずからの体験を通して、偶発的事故の危険性や軍拡競争の非効率性などを明らかにしました。
 また、マクナマラ元米国防長官、ホーナー元米将軍(湾岸戦争当時の多国籍空軍司令官)など、核戦略の現場で最高責任者を務めてきた人々が、核廃絶の声を上げ始めています。立場が立場の人であっただけに、非常に重みのある発言です。こうした、「核抑止力信仰」を論破する「良心の声」は、世界の核廃絶運動の大きな力になります。
 クリーガー バトラー将軍は、軍人としてのほとんどの期間、核兵器体制の一員でした。軍隊で出世し、米国戦略司令部の司令官になり、米国の戦略核兵器のすべてを担当していました。攻撃目標の選択にも責任がありました。実際、将軍の命令によって、数多くの攻撃目標が取り除かれもしました。九四年に退役したあと、氏は冷戦が終わって以来、進むべき核軍縮が、なぜもっと前進しないのか、不審に思い始めたわけです。そしてバトラー氏は、核兵器廃絶の心強い提唱者になりました。氏が、核兵器削減に関するキャンベラ委員会の一員であったことがあります。委員会のメンバーとともに、バトラー氏が達した結論はこうです。
 「核兵器が永久に保持され、かつ、偶発的であれ、決定によってであれ、使用されることはないとの主張は、信憑性がない。唯一の完壁な防衛は、核兵器の廃絶と『核兵器はもう決して製造されない』という保証である」
 池田 核兵器廃絶への具体的プロセスを示したという点で、キャンベラ委員会の報告は画期的でした。核廃絶の立場の人のなかでも、その手法をめぐっては、核兵器の解体後も核兵器製造技術の温存、つまり「潜在的抑止力」を認めるか等をめぐって、さまざまな意見の違いがあるようです。しかし私は、今、所長が言われたように、核廃絶は「核兵器を持とうとする意思」そのものの廃絶をゴールにすべきだと考えています。生命の尊厳に照らして、その「意思」自体、倫理に反するものだからです。
 もちろん、めざすゴールに違いはあれ、保有国による「核先制不使用宣言」、「核物質の核弾頭からの除去」というような、核廃絶の方向、核戦争のリスクを減らす方向に、少しずつでも歩を進めるべきなのはいうまでもありません。
 クリーガー 私は一九九六年に、あるフォーラムで初めてバトラー氏にお会いしました。
 氏と私は、きわめて異なった人生の道を歩んできた二人でしたが、おもしろいことに、最後は、核兵器に反対するという同じ立場に達しました。氏の到達された次の結論に、私は心から賛同しています。
 「われわれは、生命の存在の奇跡を『聖なるもの』としながら、同時に、生命の存在を消滅する能力を『聖なるもの』とするわけにはいかない。われわれは、『核の悪夢から解かれる鍵』を、行き詰まった国家主権の人質にしておくわけにはいかない。われわれは、核の束縛を打破し、その危険を削減するための方策を隠しておくわけにはいかない。われわれは、座して"核の聖職者"の色あせた説教に黙従するわけにはいかない。今は、個人の良心、理性の声、人類の正しい利益が優先されるべきだと、
 ふたたび主張する時である」と。
 池田 胸を打たれます。核の本質を突いた「生命尊厳」の奥底からの叫びです。
4  焦点は人々の「目を覚ます」こと
 クリーガー 今日の大問題の一つは、核兵器に関連する問題が一般の人には込み入ったことのように思われ、この種の問題を人々が政府に委ねてしまうことです。
 池田 それこそが、問題の急所です。バトラー氏も、「核のパズル」という表現を使われていましたね。
 クリーガー 核兵器保有国の政府は、現状に身動きがとれないにもかかわらず、核兵器の時代を終わらせる方向へ大胆に歩む意思はないようです。しかし、核兵器保有国の国民が、政府に変化を要求すれば変わることでしょう。ですから、何とかして、アメリカと他の核兵器保有国の国民を教育し、自分自身、家族、そして全人類に核兵器がもたらしている危険を明確にしなければなりません。
 アメリカでは、政府は「核軍縮に大きく前進している」と言っています。ですが、事実はそうではありません。政府は、核保有国と非保有国の現状が無期限に維持されることを確実にする措置をとっているにすぎません。インドはこの保有国側の尊大な態度を何度も非難し、ついには、みずからが核兵器製造能力を持っていることを明らかにしました。
 池田 核保有国はインドやパキスタンの核実験を非難しましたが、率直に言って、説得力に欠けました。
 クリーガー そのとおりです。彼らの非難には、
 うつろで偽善的な響きしかありません。私の見るところ、アメリカの大半の人々は、核兵器の問題に関しては睡眠状態にあります。核の悪夢がふたたび現実になる前に、彼らの目を覚まさせねばなりません。
 広島と長崎以外の都市が核兵器によって消滅された後ならば、アメリカの国民であれ他の国民であれ、目を覚ますのはむずかしくない。だれもが目覚めるはずです。むずかしいのは、ふたたび大災難が起こる前に、人々の目を覚まさせることです。バトラー氏は、この難事をなそうとしている。私もそうです。世界中の多くの廃絶主義者が挑んでいます。
 池田 「目を覚ます」「目を開かせる」――SGIの平和運動の一つの焦点もそこにあります。「核の脅威展」をはじめ、反戦出版や署名運動、シンポジウムなど、国連と連携しつつ、核問題への市民の関心を高めるための努力を続けてきました。
 一方の日本は、世界で唯一、核兵器使用による惨禍を体験した国であり、本来であれば、世界の核廃絶運動を主導するべき立場にあります。しかし、日本は明確なビジョンを示せぬまま、国際社会でどっちつかずのあいまいな態度をとり続けてきました。
 被爆者の声が核保有国に届かない責任の多くは、指導者が毅然たる態度をとっていないことにあると言わざるをえません。
5  広島、長崎の声が世界に届かない理由
 クリーガー 日本の政府は、アメリカ政府からの圧力もあって、核兵器の廃絶に関しては、国民への誓いを守っていないのではないでしょうか。一方、日本の国民ほど、核兵器に強く反対している国民は、おそらくいないでしょう。
 日本では多くの人が、核兵器のもたらす恐ろしい結果を肌で知っています。とりわけ、広島と長崎の被爆者以上にはっきりと知っている人々は、他のどこにもいないのです。被爆者こそ、核時代の真の大使なのです。
 池田 その被爆者の意識をないがしろにした典型的な例が、「核兵器による威嚇・使用は一般的に国際法に違反する」という画期的判断を示した国際司法裁判所における、日本政府代表の陳述でした。「核兵器の国際法違反」を明言し、核兵器の非人道性をせつせつと訴えた広島と長崎の市長の陳述は、法廷に大きな感動をあたえました。
 ところが、両市長の前に発言した政府の代表は、ついに核兵器の「違法性」を明言せず、わざわざ「両市長の発言は政府の見解を表明するものではない」と付け加えたのです。
 そもそも日本は、国連総会で一九九四年に、国際司法裁判所の勧告的意見を求める決議案が採決された時も、「棄権」しています。
 クリーガー 広島市と長崎市の市長が行った証言は、すべての人の心を打つものでした。それなのに、会長がおっしゃったように、両市長は、日本政府代表による声明に支援されることはありませんでした。核兵器廃絶の問題に関しては、日本の政府は、日本国民と米国政府の両方に対して、同時に忠実な態度をとることはできません。
 これまでのところ、日本の歴代政府は米国政府との関係を優先し、自国民に対する義務を二の次にしてきました。日本の安全保障はアメリカの「核の傘」によって強められると、日本政府は信じているようです。しかしながら、このいわゆる「核の傘」なるものは、他の諸都市を広島、長崎と同じような破滅の脅威にさらすのですから、日本国民を「共犯者」に仕立てるものです。
 広島と長崎の歴代市長は、地球から核兵器をなくさねばならないと、説得力あふれる嘆願をされてきました。その嘆願に耳をふさぎ、日本の政府はアメリカに対して「弟分」のようにふるまってきました。私は、この問題に関する日本の政府の立場を容認できません。日本の国民は、政府の政策を国民の意思に合致させるよう要求すべきです。この要求を日本の国民が貫徹し、政府の核への態度を変えることができれば、この動きが、アメリカの政策に大きな影響をおよぼせるはずです。
 この点で、私は、日本国民がこの要求運動におけるリーダーになってもらいたいのです。そのことで、アメリカ国民は、政府に変化を要求する気持ちを起こすかもしれません。
6  日本は「過去」を清算すべき
 池田 こうした点について、私たちの共通の知己である「平和学の父」ガルトゥング博士も、「唯一の被爆国」という経験を生かせない日本に歯がゆさをいだいておられました。
 「何よりも日本は、アメリカとの関係において現在の隷属的立場を脱却し、もって対決的でない真の自主性の模範となるべきです。そうすれば日本は、中立国スイスと肩を並べるばかりか、はるかに凌駕すらする世界第一級の調停国たりうるでしょう」(『平和への選択』。本全集第104巻収録)と。
 冷戦の終焉は、日本にとって平和へのリーダーシップを発揮するチャンスであるはずです。
 クリーガー ガルトゥング氏の意見にまったく同感です。日本はアメリカの政策に対して「自主性」を主張しなくてはなりません。冷戦が終結した現在の世界は、日本が平和への世界的リーダーになる絶好の機会なのです。私は、平和のため、核兵器のない世界を実現するために、日本の国民が、世界的リーダーシップを主張することについて、もっと積極的になってもらいたいのです。
 池田 しかし、日本が核廃絶のイニシアチブをとっていくためには、越えなければならない一つの壁があります。それは、アジアに対する戦争責任をもっと明確にすることです。それも、外交戦略が見え隠れする玉虫色ではなく、誠心誠意の言葉と行動が必要です。アジアの民衆の「広島」「長崎」への一般的受け止め方は、「侵略の報い」「核兵器が戦争を終わらせてくれた」というものが少なくない。過去を清算できない日本の態度が、ここにも影を落としているのです。
 今のままでは、広島、長崎の民衆の声は、なかなか他国の「民衆」に届きません。そして、「民衆」が核の脅威を正しく認識しなければ、核廃絶への道のりも遠いものになってしまう。私は、このことを強く訴えておきたいのです。
 クリーガー 日本が過去に犯した残虐行為に関しては、日本は言葉を濁さずに謝罪しなければならないのは、おっしゃるとおりです。かねがね、私は、国家の指導者が、自国の過去の罪科を詫びるのが、どうしてむずかしいのかと思っていました。個人の心理には、自分の属する組織は道義的に正しく名誉に値すると思いたい「何か」があり、それは残虐な行為をも正当化する方法を見つけだすことさえあるようです。戦争のほとんどはそのようにして正当化されます。
 政治的指導者たちは、自分の行動がはなはだ暴力的であっても、それを何とか道義的に正しく名誉に値すると正当化できる「弁明のよすが」を探しだします。
 しかし、ちょっとでも距離をおいて見れば、多くの国家が見苦しい、不名誉なことを、そうとうに行うものだというのは明らかです。それは、アメリカでの先住民に対する大量虐殺、奴隷虐待、ベトナムで行った不法な戦争などについても言えることです。
 謝罪は高くつきません。きちんとした謝罪は、過去を清算します。謝罪は、「過去」のあとに生きる私たちが、「何が正しく何が誤りかをわかっている」ことを明らかにしますし、悪しき過去を繰り返さない証にもなります。まさしく、謝罪は、「受ける側」よりも「する側」がより大きな利益を受けるのです。謝罪は、心の重荷を取り払い、魂を浄化する方法です。国家の名のもとに犯された過ちの場合は、その国の人々の魂を、総じて浄化することになります。そして被害を受けた側の人は、謝罪があるなしにかかわらず、罪を許すことができます。
 池田 本質を突いたお言葉です。正確な歴史認識に立った謝罪は、「過去」を清算するのみならず、「現在」を見つめ直し、「未来」を創り出します。
 個人も、国家も、本能的に、みずからの過ちを直視したくないものです。しかし、そうした「感情」を乗り越える「哲学」を体してこそ、本物の「指導者」です。
7  「強い国」より「尊敬される国」に
 クリーガー 時には過ちを被った側が、謝罪される前に許すこともあります。広島と長崎で私が出会った生存者の方々の多くが、そうでした。アメリカ政府は謝罪していないにもかかわらず、被爆者たちは自分たちに原爆を落とした者たちを、すでに許しておられました。
 アジアの諸国民に対して、日本が一九三〇年代と四〇年代にもたらした苦しみを謝罪するのは、日本にとって浄化の行為になるでしょう。それは日本がアジアにおける、また世界における平和の建設者、紛争の調停者として自分自身を確立するのに役立つはずです。過ちを詫びるには勇気がいります。しかし政治の指導者は、えてして勇気がありません。ですから、政治の指導者に謝罪の意思がない場合になすべき次善の行為は、私たち一人一人が、個人の立場で詫びることです。
 池田 おっしゃるとおりです。私も、一人の日本人として、韓国の人々、中国の人々、すべてのアジアの人々に、誠心誠意、日本の非道をお詫びしてきました。それを大前提として、アジア各国との文化・教育・平和交流を進めてきたつもりです。
 それに、極東に位置する島国の日本は、歴史的にそれらの国々から多くの文化的恩恵を受けてきました。そうした文化の"大恩の国"に恩返ししたい、というのが私の心情なのです。
 クリーガー 広島と長崎に滞在した折に、私は、謝罪することができました。もちろん、それは公式的なことではなく、個人的なことでしたが、あの原爆投下が両都市の人々にもたらした言語に絶する苦しみに対して「アメリカ人」としてお詫びを言えたことで、私は正しいことをしたと感じました。過去に他者にもたらした苦しみに対し、きちんと謝罪する勇気のある政治指導者たちが、いつの日か、アメリカにも現れるようにと、私は祈っています。
 アメリカに勇気ある指導者が現れることは、アメリカが行使できる軍事力よりも、配備できるどんな武器よりも、蓄積できるどんな富よりも、私たちが偉大な国民になった重要な証となるでしょう。
 池田 片手で握手していて、もう片方の手で武器をつきあわせるような友情はありえません。仲たがいしているより、仲直りしたほうが、心が晴れやかです。間違ったことをして謝らない人間は、嫌われます――国と国の関係も、人間の関係と同じでしょう。「真理」は、明快で単純なものです。「強い国」「金持ちの国」だから偉大なのではない。「心を大切にする国」こそ、真に偉大です。「尊敬される国」です。

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