Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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3 誓い――広島、長崎を訪れて  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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2  悲劇を忘れない「勇気」
 クリーガー 爆弾が投下されるや、市街に何が起きたか。その記録が、広島の原爆資料館に保存されています。市街は灰になりました。人間が文字どおり「焼却」されたのです。
 今日の広島を見ても、当時の悲惨さはわかりません。広島は、活気にあふれた美しい都市です。長崎もそうです。しかし、原爆の悲劇が記憶も認識もされず、行動の指針にならなければ、悲劇はふたたび繰り返され、しかもさらに破壊的な結果になることは疑いありません。
 池田 悲劇を知ること、直視することが平和の第一歩です。"忘れない"ことが大事です。忘れないことが"勇気"なのです。
 クリーガー 核兵器を持つ諸国のリーダーが広島や長崎の資料館を見学すれば、衝撃を受けるでしょう。そうなれば核兵器の廃絶へ向かう動きが、もっと早まるにちがいないと思います。
 池田 仏法では人間を不幸にする働きを「魔」ととらえますが、その頂点に「他化自在天」、すなわち「権力の魔性」を置いています。権力を握ったつもりでいて、じつは権力の魔力に魅入られてしまう指導者が、あまりにも多い。「権力」は怖い。人間を狂わせます。そうなれば、指導者個人だけでなく、多くの民衆が不幸になってしまう。その最たるものが戦争です。
 指導者には、権力を民衆の「幸福」のために用いる責務があります。官僚機構や所属政党、また専門家等々の声を聞く前に、まず注意深く、みずからの「人間としての良心」に耳をかたむけなければならない。「政治家」である前に、「哲人」でなければならないのです。
 そして、そのための「縁」にふれるよう努力することです。
 その意味で、各国の指導者たちが広島、長崎を訪れる意義は大きいはずです。
 私はライフワークとして小説『人間革命』の続編
 (『新・人間革命』)を書き始めるにあたって、「八月六日」(一九九三年〈平成五年〉)を選びました。
3  人間が生みだしたものは打ち破れる
 クリーガー 会長が小説『新・人間革命』執筆の開始日として八月六日を選ばれたという象徴的な行為には、核兵器と戦争に反対する「ヒロシマの精神」をさらに広げ、人間精神の変革へと高めようとする意志がうかがわれます。私は『新・人間革命』の言葉に胸打たれます。
  平和ほど、尊きものはない。
  平和ほど、幸福なものはない。
  平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。
 まさにそのとおりです。より平和な世界の創出に取り組まれる会長の気概にふれて、全世界の数多くの人々が、平和への行動に駆りたてられたにちがいありません。
 池田 広島には、これまで何十回もまいりました。長編詩(『平和のドーム 凱旋の歌声』。本全集第42巻収録)も書きました。少年少女のために、広島を題材にした短編小説(『ヒロシマへの旅』。本全集第50巻収録)もつづりました。SGI(創価学会インタナショナル)の「世界青年平和文化祭」も、被爆五十年の九五年(平成七年)をはじめ、広島で二度、開催しています。
 九七年には、戸田先生の「原水爆禁止宣言」四十周年を記念して、広島・大朝町の中国平和記念墓地公園に「世界平和祈願の碑」を建立いたしました。
 核廃絶への強い決心をこめたものです。九八年の二月、所長がこの墓地公園を訪れてくださったことに、あらためて御礼申し上げます。
 クリーガー 妻とともに広島を訪れて、市民の精神に感銘を深くしました。広島の人々に、はっきりとした平和の精神を感じたのです。妻と私にとって、平和記念墓地公園を訪れ、非常に印象的な「世界平和祈願の碑」を見る機会を得たことは、大きな喜びでした。会長は、どのようないきさつから、碑の構想を思いつかれたのですか。
 池田 墓地公園は、私たちにとって、たんに死者を弔い、「過去を振り返る」だけの場所ではない。平和のために戦ってきた同志が眠る城なのです。そこに眠る人々は、生死を超えた「平和の同志」です。
 墓地公園は、訪れる人々が、永眠する同志の「平和への意志」を継ぎ、「平和の闘争」に立ち上がる場所なのです。ですから、広島に墓地公園を設けると決まった時、永遠平和の祈念碑を立てるのに、ここ以上にふさわしい場所はないと思いました。
 碑についてはまず、日本人だけでなく、また広島、長崎の原爆だけでなく、核実験も含めた、世界の「すべての被爆者」のための碑とすることを考えました。そこで、彫像を「西洋」を代表してフランスのルイ・デルブレ氏にお願いし、碑銘は「東洋」を代表して、香港の作家の金庸氏にしたためていただきました。
 碑文には、原水爆禁止宣言にこめられた「核兵器は人間生命の魔性の産物である。しかし、人間が生みだしたものである以上、必ず人間の力で打ち破ることができる」という信念を、短い文に凝縮したつもりです。
 クリーガー 私も妻も、祈念碑に強い感銘を受けました。
 あの祈念碑は、まさに人間精神の荘厳さを象徴しています。
4  若き日の被爆地訪問の衝撃
 池田 さて、所長の平和運動の出発点は、一九六三年(昭和三十八年)、二十一歳の時に広島、長崎を訪れたことだとうかがっております。二つの地に来られて、「核兵器」に対する考えは、クリーガー青年の中でどのように変わったのでしょうか。
 この点は、九八年の広島訪問の折に、一端を青年たちに語ってくださいましたが、もう少し詳しく、当時のお気持ちを聞かせていただけませんか。
 クリーガー おっしゃるとおり、六三年に広島と長崎を訪れたとき、私は二十一歳でした。それまで、私が学校で原爆投下について教えられたことは、主に「原子爆弾の投下は戦争に勝ち、戦争を終わらせるために必要だった。やむをえなかった」ということでした。これが今日においても、広島と長崎の被爆に対する大方のアメリカ人の考えであると思います。実際、アメリカ国民はそのように教えられてきました。
 私自身、両市を訪れるまでは、爆弾の投下が基本的には民間人に対するものであったとは知りませんでした。アメリカ国内における原爆投下に関する議論では、広島と長崎の市民のことは、ほとんど考えられることはありませんでした。
 要するに授業で教えられる内容は、とても「単純化」されたものでした。「わが国が広島と長崎に原爆を落としたから、戦争は終わったのだ」と。したがって、そこから引き出される結論は、「原爆は良いことであった」というものです。私は、
 原爆に対するこういう考えが、冷戦中、あのような勢いでの核軍拡競争を可能にしたと思っています。
 池田 よくわかります。
 クリーガー 広島と長崎に行ってわかったことは、「本当に学ぶべきこと」はそんなに単純ではないということでした。被爆したのは一般の人々、そのほとんどが、何の罪もない人々でした。原爆の被害は無差別に、男も女も、子どもたちも、民間人と兵隊の区別なく、すべての人間におよびました。被爆した市街、黒焦げになった死体、放射熱が造り出した物象の写真を見ながら、私は言語に絶する衝撃を受けました。
 原子爆弾は、言葉のいかなる理性的な意味においても、たんなる「兵器」ではなかったとわかりました。原子爆弾はスウェーデンのノーベル賞物理学者ハンス・アルヴェーンが言うところの、「アナイアレイター」(すべてを絶滅させるもの)にほかなりませんでした。このおぞましい破壊の手段を世界から廃絶させることに、いくらかでも役立ちたいと願いました。
 池田 所長のショックはわかる気がします。両市にある資料館は、何度訪れても、だれびとにも、怒りと祈りと決意を呼び覚まさずにおきません。みずからの国が犯した過ちと向きあうのは、苦しく、勇気のいることです。率直に言って、「原爆投下はしかたなかった」という主張は、原爆投下のもたらしたあまりに悲惨な「現実」と向きあいたくないという心情を、無意識に表した面もあるのではないでしょうか。
 しかし、アメリカの人々には、やはり、広島、長崎と向きあう義務があると思います。ドイツ人がホロコースト、日本人が南京大虐殺をはじめ、アジアへの非道な侵略と向きあう義務があるように。
 広島、長崎を知ることで得るものは、痛みや悔恨ばかりではありません。
 そこから、「希望」を見いだせることも知ってほしい。それは、広島、長崎を復興させた「人間の力」「民衆の力」です。
 クリーガー そのとおりですね。人間の精神には驚くべきものがあります。これ以上の悲劇はないと思われる状況のなかでも、立ち上がる力が、人間の精神にはある。論理的には希望のもてる根拠がほとんどない場合でも、希望を見いだす力があるのです。
 この力は、破滅の灰燼から萌え出ずる草木や花々に象徴されるでしょう。広島や長崎の廃墟から繊細な花々が芽を出せるのならば、われわれ人間も、破壊と悲劇から立ち上がれるはずだ、と。
5  人間は荒廃の極限の中でも希望をもてる
 池田 お話を聞いて、ノーマン・カズンズ氏が平和行動の転機とされたのも、広島訪問だったことを思い出します。対談の折、氏が、その思い出を語ってくださいました。氏は、原爆の惨禍覚めやらぬ一九四九年(昭和二十四年)、取材のため広島を訪問された。氏が街を歩きながら考えたのは「なぜ人々は苦悩のひしめく広島に戻ってくるのか」ということだったと。しかし、その答えは、通りを行き交う人々の表情にあった、屈託のない子どもたちの笑顔にあったというのです。
 「戦争のためのいかなる装置や爆発物よりも偉大な力、それは、生きぬく意志であり、希望を受け入れる人間の能力だ」(『世界市民の対話』。本全集第14巻収録)――こう、
 氏は気づいたのです。平和運動を志すすべての人が、胸に刻みつけるべき言葉だと思います。
 私は「世界平和祈願の碑」に刻みました。「金剛不壊なる生命の宝器は/忌まわしき核の力より偉大なり」と。
 私も広島、長崎に多くの友人を持っております。原爆で家族を失い、また後遺症と戦いながら、見事に「人間の偉大さ」を証明していった姿を数多く知っております。
 クリーガー 広島と長崎の生存者たちの話には、きわめて力強いものがあります。生き残った人たちは両親や子どもを失い、荒廃の極限を体験したにもかかわらず、生きていく勇気と力を見いだしました。その人たちの精神力を見るにつけ、私にも力が湧きます。自分も精神力を強めねばと思います。
 池田 核廃絶の運動も、その人間の内発の力を信じ、高めていくことから始めなければなりません。これが仏法者としての私の決意です。
 そして、宗教、思想といった党派性におちいらず、いっさいを「人間」から出発し、「人間」に帰していく――つまり「人間」という共通の土壌に立つことです。それを、私は平和行動の根本としてきました。
 クリーガー そのご決意はすばらしいと思います。私は、同じ決意を、友人の松原美代子さん(「ヒロシマの心を伝える会」代表)の精神の中にも見いだします。
 松原さんは、原爆が投下されたとき、広島の学童でした。彼女は核兵器の廃絶運動に身を挺しておられます。日本から海外へ渡って、世界各地の青年たちにみずからの体験を語ることができるようにと、英語を身につけられました。彼女の勇気と信念に、
 私は感嘆します。
 池田 松原さんは、所長への核廃絶署名の寄託式にも駆けつけてくださいました。核廃絶署名に快く協力してくださり、創価学会女子部の講演会の講師も務めてくださったとうかがっています。
 クリーガー 松原さんの体験談は、他の被爆者たちの体験談と同様、重要そのものです。その内容の骨子の一つは、「赦し」ということです。松原さんも、他の被爆者たちも、自分の身に起きたことについては、アメリカをゆるしてこられました。この方々の努力は、自分たちに起きたことが二度とふたたび、だれにも起きないようにすることに向けられています。
 広島と被爆者について、私はいくつかの詩を書きました。次に披露させていただきますのは、松原美代子さんに関する詩の一つで、「ヒバクシャの深き黙礼」と題しています。少々、長いですが――。
6  ヒバクシャの深き黙礼
 ――松原美代子さんに捧げる
   その人は、深くお辞儀した
   大海よりも深くお辞儀した
   富士の頂から大海の底へとお辞儀した
   深々と、幾たびもお辞儀したから
   風が強く吹いた
   その人のお詫びと祈りのささやきを
   風がすべての大陸へと運んだ
   されどあまりに高鳴る風に
   その人のお詫びも祈りも聞こえない
   大海は猛り狂った
   荒れ狂う分子のダンスに
   海水がせり上がり
   大海は大陸へと押し寄せた
   人々はおののき
   岸辺から絶叫した
   白波を恐れ、吼え狂う疾風を恐れ
   漆黒の地に身を寄せ合った
   風の中の
   その人の言葉を聞こうと
   人々は懸命に耳を澄ました
   ある人には
   お詫びの言葉が聞こえた
   ある人には
   祈りの言葉が聞こえた
   彼女は深くお辞儀した
   誰もそこまではせぬというほど深く
 池田 胸を打つ詩です。「詩でなければ語れない」という所長の熱い思いが伝わってきます。詩とは、やむにやまれぬ魂の奔流であり、人を動かすエネルギーを持っています。
 所長が、広島を再訪されたのは、初訪問以来、三十五年ぶりのことでしたね。
7  再訪で希望は強められた
 クリーガー 三十五年は長い月日でした。広島に原爆が投下されたことを思い出させるものは、あの有名なドームのように、保存されているものしかありません。のちに建立されたものとしては、記念碑や資料館がありますが、今日の広島は、現代風の活気を呈している都市、しかも美しい都市です。
 私は、過去を想い起こすものが保存されていることを知り安堵しました。
 そして心から感謝しています。広島と長崎の被爆は忘れ去られてはならない。記憶することが、人類の未来のために必要なのです。
 池田 おっしゃるとおりです。そういえば、カズンズ氏も十五年ぶりに広島を再訪した印象を、「明るく頑丈な企業ビルが林立するなかで原爆ドームだけは変わってないとすぐにわかった」と言われていました。一九六四年のことですから、クリーガー所長の初訪問の一年後です。
 クリーガー 原爆ドームは、広島に降りかかった破壊を象徴するものです。それは、人類への警鐘の記念碑ですが、同時にまた、人類は悪に打ち勝つことができるとの希望のしるしでもあります。広島には、希望の精神、再生の精神があります。

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