Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 原点――人生の大いなる転機  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

前後
1  ハワイ大学在学中に陸軍に徴兵
 池田 クリーガー所長はベトナム戦争の時、「良心的兵役拒否」の道を選択されたとうかがいました。そのいきさつは、どのようなものだったのでしょうか。
 クリーガー 私は一九六四年(昭和三十九年)、二十二歳のときに日本で約一年を過ごしたあと、アメリカに戻りました。以前から、私は、海外でボランティア活動を行う「平和部隊」への参加を予定していたのですが、帰国すると、陸軍に徴兵されました。そのために、「平和部隊」に参加できなかったのです。そして、一時、予備役となり、そして六八年に召集を受けました。皮肉なことに、私の配属先は、第二次世界大戦の対日戦で功名をあげた第四四二歩兵旅団でした。そのころ、私は、ハワイ大学の大学院生で、反戦を叫んでいました。その私が、突然、軍隊の組織に組み入れられてしまったのです。
 池田 ベトナム戦争当時は、米軍の補給基地となっていた沖縄からも、多くの若い米軍の兵士がベトナムに向かっていきました。私が、平和への深き祈りをこめて、小説『人間革命』の執筆を始めたのも、沖縄の地です。
   戦争ほど、残酷なものはない。
   戦争ほど、悲惨なものはない。
   だが、その戦争はまだ、つづいていた。
 冒頭、この一節から、筆を起こしました。一九六四年の十二月二日のことです。「聖教新聞」での連載は、六五年一月からでしたが、二月には、あの「北爆」が始まった。アジアの同胞が、また多くのアメリカの青年が犠牲になるのを、何とか防がなければならないというのが、当時の人々の切実な心境でした。
 私は、六六年と六七年に、多くの青年を前に、ベトナム戦争の「停戦」や「関係国による平和会議の開催」「北爆の停止」などを提言しました。七三年には、ニクソン大統領に戦争終結を求める書簡を送りました。ところで所長は、軍隊でどのような日々を送られたのでしょうか。
2  良心に従って兵役拒否を貫く
 クリーガー 歩兵少尉でありながら、私は以前にもまして反戦主義者になりました。あの戦争に私は懸命に反対していましたし、出征するつもりはありませんでした。といっても、どういう成り行きになるかはわかりませんでした。しかし、信じていない大義名分を掲げた戦争のために、人を殺すつもりも、殺されるつもりもありませんでした。
 この決意が、私に勇気をあたえました。若くして私は、「自分の道は、自分で選択できるのだ」ということを理解したのです。
 池田 良心に従うと決めた時、人はもっとも強くなるものです。
 クリーガー 私と同世代の青年の多くも、同じ気持ちをいだいていました。「良心的兵役拒否者」になった青年もいれば、国外に亡命した者もいました。反戦のために戦い、みずから求めて刑務所に入った青年もいましたが、彼らはもっとも勇気ある人たちであったと思います。
 私自身は、あくまでも「良心的兵役拒否」の信念を貫くよう努力しましたが、軍隊の中では、しかも将校に任じられると、事はたやすくいきませんでした。しかし、自分の立場を明らかにした日から、私は一度も武器を携えませんでした。
 池田 軍隊のほうはどう対応しましたか。
 クリーガー 軍隊は、そうした私の立場を認めませんでした。ですから、最後は私は、軍隊に対して訴訟を起こし、身柄提出令状請求権にもとづいて、連邦裁判所に出廷しました。
 「身柄提出令状」とは、人権保護の目的で、拘禁の事情などを聞くために、拘禁されている人を出廷させる令状です。
 この場合、「自由になる権利が私にあるのに、軍隊が私を拘禁している」という論理になるわけです。
 陸軍は、私を軍隊にとどめておくために躍起になりました。もし軍が勝訴していたら、ベトナム行きを拒もうとする私は、軍法会議にかけられることになったと思います。その場合は、非常に厄介なことになったにちがいありません。私は刑務所に入りたくはありませんでしたが、それでもベトナムに送られるよりは、まだましだろうと考えていました。
 結局は、所属の予備部隊が解散となり、軍から自由の身になりました。軍からは名誉除隊証明書をもらいましたが、私は「私の行為こそ名誉に値するものであった」と確信しています。
3  信念の闘争を支えた夫人の存在
 池田 信念を貫くことは、時に波風を巻き起こすものです。それを覚悟した時、信念はさらに強固に鍛えられます。所長の信念を理解し、支えられたのは、キャロリー夫人とうかがっておりますが。
 クリーガー おっしゃるとおり、妻は私の味方になってくれました。はじめから妻は大きな支援者でした。私たちは、ともに抵抗運動に加わり、ともに反戦のために闘いました。
 彼女は、とても若かったのですが、徴兵に対するカウンセラーになっていました。軍にとられる青年たちに、彼らが行使できる他の可能性、たとえば良心的兵役拒否者になるよう助言していたのです。
 池田 奥さまがハワイのご出身で、広島に原爆が投下された五週間後のお生まれであることは、以前、お会いした時にうかがいました。快活なお人柄の奥に、「強い意志」を秘められた方だと直感しました。ご両親は、兵役拒否に関して、どのような考えをお持ちでしたか。
 クリーガー 妻に加え、私の両親も、友人の多くと同じように、陰から強力に支援してくれました。ですから、孤立感はありませんでした。
 けれども、私に対して、「自国に忠義をつくしていない」「軍に刃向かい、戦うことをさけている」と思う人も多かったのです。妻の両親と、両親の友人たちは、そのように思っていました。彼らは第二次世界大戦を戦った世代に属していて、自国のために戦うべきであるという強い気持ちを持っていたのです。
 彼らは、私の軍隊での行為が気に入らず、私たちとの関係はこじれました。「ベトナム戦争に関しては、君らのほうが正しかった」と彼らが理解したのは、ずっと後のことです。
 といっても、もっとも重要なのは彼らの意見ではありませんでした。何が正しいか、あるいは間違っているかは、自分が判断しなければならないということ、「自分は選択できるのだ」ということを、私は学んだのです。
 池田 奥さまのご両親に対する所長ご夫妻の態度は、仏法で教える真の孝養にも通じます。日蓮仏法では「一切のことは親に従うべきであるけれども、仏になる道では、(反対する)親に従わないことが、孝養の本となろう」(御書一〇八五㌻、通解)と教えています。
 親の言葉に従うことが、なるほど、親孝行になる場合もあるかもしれない。しかし、一時は親の考えに背くことになっても、「絶対正しい」と信ずる道を歩みぬいた時、親の恩に、もっと深い次元で報いたことになると説く人間学です。
 クリーガー 正しい見方であると思います。あの時、選択肢は二つありました。「体制に従い、命じられることをなすか」、あるいは「自分が正しいと思うことをなすか」。
 私は後者を選択しました。それでよかったのだと思っています。ことが「生死の一大事」にかかわる時は、人は判断を他人に委ねるべきではありません。国に委ねてはならない。世論にも左右されてはなりません。個人それぞれがみずから判断しなければならないのです。
 池田 そのとおりです。トルストイは、平和への道をこう論じました。
 「戦争の害悪についてかれこれ論ずるときは過ぎた」「今や残るはただ一つ、一人ひとりがまず何から始めるべきか、ということである。つまり一人ひとりがなすべきでないと思うことをなさないこと、ただそれ一つである」(『文読む月日』下、北御門二郎訳、地の塩書房)――所長は、その模範を示されたのです。
 クリーガー 私の願いは、私が体験した闘争を繰り返す必要が生じないように、この教訓を青年に授けることです。「みずからの責任でみずからが判断する」ということを世界中の青年が学ぶならば、戦争はなくなるでしょう。
 次に、私のほうからうかがいたいと思います。池田会長が平和運動にかかわるようになったきっかけは何でしたか。
 池田 創価学会の平和運動の原点は、初代牧口常三郎会長、二代戸田城聖会長の軍国主義との闘争にあります。軍部によって、両会長は投獄されました。初代会長は獄死しました。生きて牢獄を出た戸田会長は、焦土の日本に仏法の人間主義を拡大していく運動に立ち上がった。この闘争が、私たちの平和運動の原点です。軍部権力と対決したという歴史があるゆえに、アジアの国々も、私どもSGI(創価学会インタナショナル)の運動に信頼を寄せてくださっているのだと思います。
 前にも述べましたが、私が戸田先生を「人生の師」と決めた最大の理由は、
 二年間におよぶ苛烈な獄中生活に耐え、軍国主義思想と戦った人物であることでした。
 クリーガー 戸田城聖氏とは、いつ、どのように出会われたのですか。
 池田 一九四七年(昭和二十二年)です。十九歳の時でした。国土とともに心も焦土になった――そんな時代でした。青年のだれもが、価値観の百八十度の転換のなかで、精神の空洞を埋める"何か"を求めていた。私も、結核をおして、働きながら夜学に通い、読書サークルに入るなど、生きる意味を模索していました。
 そんな時に、「生命哲学の話がある」と誘われ、読書サークルの仲間と一緒に、創価学会の座談会に参加したのです。皆、身なりは貧しくとも不思議な活気がありました。その中心に屈託なく語られる戸田先生がいました。
 私の質問にも、理論をもてあそぶようなところは微塵もなく、明快かつ誠実な答えがずばりと返ってきました。話に普遍性があり、何を聞いても私の心を満たしてくれました。
 その後、戸田先生についての知識を深め、「この人は間違いない。ありのままに何かを語っている。この人についていけば、きっと私は悔いのない人生を歩めるかもしれない」と自分なりに判断し、自分で決めました。
 クリーガー 劇的な出会いだったのですね。
 池田 ええ。以来十年半、私は戸田先生とともに生きました。その間、先生は、ご自身の命を削る思いで私を薫陶してくださった。
 私は、先生の事業の再建のため、夜学に通うことを断念せざるを得ませんでした。しかし師は、ほぼ毎朝、個人授業をしてくれました。法律、政治、経済、歴史、天文、文学、物理、化学等々、あらゆることを教わりました。いわば「戸田大学」です。戸田先生という偉大な師と出会えたことが、私の人生を決定づけました。
4  平和への道程は対話が機軸に
 クリーガー 会長が戸田城聖先生から受けられたような薫陶は、私はだれからも受けたことがありません。それほどの師弟関係に恵まれた会長は幸運だったと思います。
 池田 戸田先生は、「原水爆禁止宣言」を青年への遺訓として遺されました。また「これからは対話の時代になる。君もこれから、一流の人間とどんどん会っていくことだ。"人と語る"ということは、"人格をかけて戦う"ということであり、それがあってこそ、真の信頼を結びあえるんだよ」と教えてくださった。
 平和への道程に欠かせない、国を超えた信頼の醸成は、地道なように見えても、どこまでも人間対人間の対話を機軸としていくしかない、と鋭く洞察されていたのです。
 ですから私は、所長をはじめ、世界のリーダーと徹底して対話を重ねてきたつもりです。
 クリーガー おっしゃるとおり、異なる文明間の正しい理解には、対話が不可欠です。私が「対話」の強固な信奉者になったのも、私の人生における経験のおかげなのです。
 池田 その点を、詳しくお聞かせください。
 クリーガー 私の人生を形づくったもっとも重要な経験の一つは、「民主公共機関研究所」(Center*for*the*Study*of*Democratic*Institution)に所属していた二年間です。
 研究所は、二十世紀中期の代表的な思想家の一人であるロバート・ハッチンズ氏が創立しました。氏は二十七歳でエール大学法学部の学部長になり、三十歳でシカゴ大学の学長に就任しました。
 「民主公共機関研究所」はハッチンズ氏の最後の大事業であり、「対話に貢献する」ための研究所でした。
 そこでは週に二、三度、まず一人が議長となり、現代の重要な問題について語りかけ、ついで研究所の所員たちが、その問題を討議するのです。そのさいの対話の理念とは、公共の対話のための提案を行うべく、さまざまな問題を深く徹底的に掘り下げ、よりよく認識することにありました。現代の最重要な問題にかかわり、そこに光明を投じることに努めた研究所であったわけです。
 池田 興味深い研究所ですね。より一歩深く理解し、より一歩深くわかり合い、より一歩深い解決法を見いだす場――それが「対話」です。
 クリーガー 一九七二年のことです。そのとき私は、サンフランシスコ州立大学の若き助教授でしたが、ベトナム戦争には強く反対し、アメリカの社会が変わることを求めていました。いかなる戦争も、とりわけベトナム戦争は終結せねばならない、と主張していた私は、国家の法よりも国際法を信奉し、国際機関の強化を求めました。
 しかし、大学の内側からこういう変革をもたらす可能性は、あまりないように思われました。大学は、驚くほど閉鎖的で、保守的と思えたのです。こういう気持ちをいだきながら、私は、「民主公共機関研究所」がサンフランシスコで主催するシンポジウムに臨んだのです。
 池田 大学の閉鎖性は、よくわかる気がします。いわゆる「象牙の塔」は、高等教育につきまとう落とし穴です。市民や社会との風通しをよくして、つねに「民衆に奉仕する」という原点を問い直す作業を怠らないことですね。
 クリーガー ええ。このシンポジウムには多くの人が出席していましたが、なかでも一人の発言者に私は強く惹かれました。この人が、エリザベス・マン・ボーギーズ女史、同研究所の上級研究員だったのです。女史は、「新しい海洋法を定める」こと、そして「これを新しい世界秩序のモデルにする」という点で、目が開かれるような発言をしました。
 女史は、現代の強力な新しいテクノロジーが、魚の乱獲や汚染を助長し、いかに海洋を損なっているかにふれました。海底の鉱物資源がもつ大きな将来性についても語り、海洋は人類が共有すべき財産であると主張しました。そして、海洋を保護するには資源を管理し、危険をコントロールする世界秩序を強めなければならないと論じました。「生命が海から現れ、陸へ進出したように、新しい世界秩序も、新しい海洋法を制定する必要性から現れる可能性がある」という信念を述べました。
 そのビジョン(展望)の論理と壮大さに、私は興奮しました。もっと根本的なことを申しますと、そもそも「この人には情熱的なビジョンがある」という単純なことに感銘を受けたのです。これは、大学にはおよそ見られないことでした。この人は壮大なスケールの深刻な問題を認識している。それに、その問題にどう取り組み、その過程でどう世界を変えていくべきかについての構想を持っている――そう思いました。
 池田 「ビジョン」――それなくして二十一世紀は勝ち抜けません。「確かなビジョンを持つこと」こそ、リーダーの第一の条件ですね。
5  人間精神の探求が不可欠
 クリーガー まったく同感です。
 私は先のシンポジウムから帰宅して、女史の発言内容をもう一度考えました。それから手紙を書き、女史とともに仕事ができないものか、問い合わせてみることにしました。
 すると、「お会いしたいので、サンタバーバラにいらっしゃいませんか」と、まねいてくれたのです。お会いしたあと、私の働く場も用意してくれました。その年の九月、私は家族とともにサンタバーバラに引っ越し、女史と一緒に仕事をすることになりました。二年間でしたが、私にはすばらしい経験でした。
 女史から学んだもっとも大切なことは、「ビジョンの力」ということです。よりよい世界をつくることを考え、そのために働くことは、決して無謀ではないと学びました。
 また、現代の新しいテクノロジーは、ほぼすべてが「目的の二面性」をもつ、つまり、その大きな将来性には善の面も悪の面もあることを思い知らされました。そして、このテクノロジーの影響は国境によって封じ込められるものではない。ゆえに、新しい形態の世界秩序がどうしても欠かせない、という思いを深めました。
 池田 「テクノロジー探求」に見合う、「人間の精神の探求」が不可欠です。仏法の視点も、決して一面だけを見ていません。「善悪一如」と言いますが、一つの物事が善にも悪にもなり得る。したがって、それを決定する人間の内発力を大切にします。
 クリーガー よく理解できます。同時に私たちは、どのようなテクノロジーを開発し、それをどのように使うかを正しく選択しなければならないでしょう。
 池田 ボーギーズ女史は、どういうお人柄でしたか。
 クリーガー 彼女はじつに創造力のある人で、じつに献身的な人でした。有名な作家トーマス・マンの子女で、はじめはピアニストになるために音楽を習ったそうです。
 その後、シカゴ大学の教授と結婚し、第二次世界大戦の直後に夫君や大学の人たちと、「世界憲法起草委員会」をつくりました。その委員会が生みだした草案は偉大な文書であり、その起草に女史は大いに貢献しました。私はこの世界憲法草案の前文の「理念」と「詩心」がとくに好きです。
 池田 人々の内奥に深く訴えかけるのに、「詩心」は欠かせません。詩はまた、人と人の心を共鳴の糸で結ぶ力をもっています。内容を、ぜひ教えてください。
6  「国家の時代」から「人類の時代」へ
 クリーガー 少々長くなりますが、こうです。
  地球の民は同意した。
  精神的美徳と肉体的幸福における進歩が、
  人類共通の目標であることを。
  普遍的な平和が、
  この目標を追求するための
  必須条件であることを。
  公正こそが、平和の必須条件であり、
  平和と公正は、
  ともに立つか、
  ともに倒れるかであることを。
  不正と戦争は分けることはできず、
  ともに国民国家間の
  秩序なき競争から生じることを。
  ゆえに国家の時代は終わり、
  人類の時代が始まらねばならないことを。
  この同意によって、諸国の政府は、
  各々の国家主権を
  公正なる一つの政府に律し、
  各々の武器をこの一つの政府に譲渡し、
  この憲法を世界共和国連邦の盟約
  並びに基本法として
  確立すると決定した。
 池田 豊かな「詩心」と「哲学」にあふれた、平和の宣言です。深く感銘しました。とくに、「国家の時代は終わり、人類の時代が始まらねばならない」という訴えには、二十一世紀への確固たる「ビジョン」があります。
7  行動なき理想は砂上の楼閣
 クリーガー こうして、ボーギーズ女史は、「民主公共機関研究所」とともに、私を強く感化しました。と申しましても、同研究所で私が学んだことが、すべて良いことだったわけではありません。研究所はあまりにも観念的すぎましたし、行動する意識がたりないと、私は感じました。変革は、理論だけでは不十分です。行動がともなわなくてはなりません。
 池田 まったく同感です。「行動」なくして、何も始まりません。いかに高邁な理想をならべても、「行動」がなければ砂上の楼閣にすぎません。
 クリーガー そのとおりです。じつは、研究員たちの間には、たえず言い争いがあったのです。彼らは、同じ目的を、団結して支えていけなかった。たがいにうまく立ちまわって有利な地位を得ようとする競争に、貴重な努力をかなり浪費することもありました。そしてついに創立者のロバート・ハッチンズ氏が亡くなると、研究所自体も間もなくなくなりました。
 しかし、こうしたことはあっても、女史とともに仕事をするなかで得た経験によって、私は勇気を得ることができ、視野を広げられました。私は女史の「海洋のための、海洋からの新世界秩序」という目標を求め続ける生き方に対して、深い尊敬の念をいだいています。
 他にも、師と呼べる方に、何人か出会いました。そこには、核時代平和財団を私とともに創立した三人の方々――ウォーリー・ドゥリュー氏、チャールズ・ジャミソン氏、フランク・ケリー氏が含まれます。三人は私よりも年配で、第二次世界大戦の兵役経験者です。
 彼らの世代の多くの人たちと違って、彼らは世界から核兵器をなくすため、国際法を強化するため、戦争のない世界をつくるための努力に、積極的に加わりました。三氏それぞれが、勇気と知恵を示され、私に助言と指導をあたえてくれました。たいへん助けられています。

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