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日蓮大聖人・池田大作

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1「戦争の世紀」に生まれて  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

前後
1  「核兵器のない21世紀」への大いなる希望
 池田 人類は今、「戦争」と「暴力」に明け暮れた歴史を、「平和」と「共生」の方向へ、根本から転換する必要に迫られています。なかでも最重要の課題は「核兵器」の問題です。
 現在、世界には、広島、長崎に投下された何百万倍にも匹敵する莫大な量の核兵器が存在しています。にもかかわらず、目先の政治的・軍事的利害にとらわれて、その厳然たる事実から目を背けようとしている。じつに危険なことです。
 ゆえにだれかが、どこかで警鐘を鳴らし、世界の民衆と指導者に訴えていかねばならない。それが四十年以上も前に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器を"絶対悪"と断じた、わが師・戸田城聖先生(創価学会第二代会長)の精神であり、私の変わらぬ心情です。
 「核兵器の廃絶」のために行動を起こさなければ、世界はやがて破滅への道をたどってしまう。ゆえに、クリーガー所長のように、勇気をもって核兵器の脅威と愚かさを訴え、「核のない世界」のために行動する方が偉大なのです。
 クリーガー 温かなお言葉に、深く感謝いたします。私もまた戸田会長の精神と信念を称賛するとともに、その核兵器廃絶への戦いを継承し実践してこられた池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の行動に、心から敬意を表します。
 一九九七年(平成九年)、池田会長のリーダーシップのもと、創価学会の青年部の皆さまは、私ども核時代平和財団などの進める「アボリション(廃絶)二〇〇〇」に呼応して、千三百万もの核廃絶のための署名を集めてくださった。私は感動しました。その一つ一つが「希望の声」であり、署名はまさに「希望の合唱」でした。
 池田 その署名は、九八年十月、国連本部に提出することができました。署名運動に最初に取り組んだ広島など中国地方の青年部は、「アボリション二〇〇〇」支援の第二弾として、平和の象徴である「ひまわりの種」を配る運動も進めました。
 クリーガー 希望の都市・広島から、平和を築くための運動が起こされたことに、深い意義を感じます。青年の手によって始められたという事実にも、希望があふれています。
 私たちは、指導者として、つねに希望の道を選ばねばなりません。人間は絶望を選択することも、冷笑や怒りを選択することもできる。しかし、"世界は変えることができる"という「希望」を選択してこそ、新しい世界が開けます。どんな希望を持つかは、その人の価値観で決まります。自分中心の「狭い希望」ではなく、エゴを超えた遠大な「大いなる希望」を持つべきです。
 池田 まったくそのとおりです。「小我から大我へ」――仏法もまさに、そのことを教えています。
 ともあれ、いかなる困難や複雑な現実があろうとも、私たちは「必ず核兵器のない二十一世紀は実現できるのだ」という「希望」を掲げて進みたい。この対話を通して、そうした「希望」を広げていきたいのです。大いに語りあいましょう!
 クリーガー 私も同じ気持ちです。こちらこそ、よろしくお願いいたします。
2  人類が絶滅の危機に立たされた「核時代」
 池田 「二十世紀」とは、一言で、どのような時代であったか。
 「戦争の世紀」という答えに異論をはさむ人はいないでしょう。二十世紀の前半は、史上まれにみる「暴力と革命の時代」でした。人類は、二度の世界大戦という塗炭の苦しみを味わった。それが終わると同時に、今世紀の後半には、新しい形の「暴力」が、人類の上に暗く、不気味にのしかかりました。所長が財団の名前に冠したように、「核時代」の始まりです。
 「解き放たれた原子の力は、われわれの思考様式以外のすべてのものを一変させてしまった」(「ニューヨークタイムズ」一九四六年〈昭和二十一年〉五月二十五日付)とは、アインシュタイン博士の有名な言葉です。核兵器の登場は、私たち人類を、まったく新しい脅威の地平へと連れてきてしまったのです。
 クリーガー カート・ヴォネガット・ジュニアという小説家は、第一次と第二次の世界大戦は、「人類最初にして、二度にわたる集団自殺の決行」であったと言っています。この二つの戦争の成り行きには、確かに狂気と自己破滅の面がありました。もちろん、すべての戦争がそうですが。
 ただし、二十世紀中期までに起きた戦争では、人類はまだ、完膚なきまでに自身を破壊する能力はありませんでした。しかし今日、核兵器をもつ人類には、この能力があります。このことが、アインシュタインの言葉の根底にあります。確かに、すべてが"一変"したのですが、人間の狂気だけがそのまま存続しているのです。
 池田 核兵器の登場が、人類史を激変させる、いかに決定的な出来事であったか――。アメリカのメディア博物館「ニュージアム」が九九年二月に、米国の著名なジャーナリストや歴史学者が選んだ「二十世紀の百大ニュース」を発表しました。
 その第一位は、人類の月面着陸、「ライト兄弟の人類初飛行」などをおさえて「広島、長崎への原爆投下」でしたね。
 クリーガー ええ。まさに時代を画する事件でした。八二年に私たち有志が平和財団を創立する時、「この新たな組織を何と呼ぶべきか」をめぐって長時間、話しあいました。結局、これまでの歴史とは決定的に異なる時代であり、この新たな時代にあっては「平和」こそが絶対に必要であると私たちは感じました。それゆえに、新組織の名称を「核時代平和財団」と名づけたのです。
 「核時代」にあっては、平和は、たんに、戦争よりも好ましいということでは終わりません。私たち人類が、生物種として生き残るために絶対不可欠なものが、「平和」なのです。
 池田 財団の名前にこめられた意義に心打たれます。私も、同じ目的に進む同志です。しかし、世界を見渡しても、政治指導者の多くは、
 旧態依然の安全保障の考え方を捨てきれずにいます。「人間の安全保障」でなく、「国家の安全保障」に固執している。「核時代」と不可分であった「冷戦」が終わったにもかかわらずです。
3  「核抑止力」は明らかな幻想
 クリーガー 「平和の探求」という点で革新的であり続けた政治家は、きわめてまれです。ほとんどの国々、とくに工業化の最先端の国々では、政治のプロセスのなかで、理想を持ったリーダーが排除されていくようです。
 政治家が選ばれる基準は、「自国のために何ができるか」、なかでも、多くの場合は、「さらなる繁栄」「よりいっそうの安全」をつくり出せるかどうかにあります。もちろん、繁栄と安全は良いことですが、政治家のほとんどは、他の諸国を犠牲にして、これらの目標を追い求めようとします。そういう古いものの見方しかできないのです。
 核時代にあっては、繁栄と安全、平和は、分けることができなくなっていることを、ほとんどの政治家は認識していません。しかし実際は、すべての国々の繁栄と安全は、たがいに依存しあうものになっているのです。
 その点、ミハイル・ゴルバチョフ氏(元ソ連大統領)は、平和を推し進め、核兵器時代を終わらせる展望を持っていた、まれな政治的リーダーの一人でした。
 池田 同感です。ゴルバチョフ氏は「超大国の最高権力者」として、クレムリンの奥で安穏とし続けることもできました。しかし氏は、「権力者」である前に「人間」として、冷戦終結への道を選びました。
 氏は、みずからが堰を切った改革の奔流が、いずれ自身をも飲み込んでいくことを悟っていた。それでも、前へ進んだのです。
 ゴルバチョフ氏とは機会あるごとに話しあい、対談集『二十世紀の精神の教訓』(本全集第105巻収録)も編みました。ペレストロイカを推進した心の内を忌憚なく披露された、二十世紀の貴重な証言でした。巨大な冷戦の岩盤を、一個の人間の力がうち崩していった――この事実は重い。この一点に、私は「核なき世界」への希望を見いだす一人です。
 クリーガー 核兵器保有国のリーダーたちは、悲しいことに、冷戦終結後およそ十年を経ても、「国家の安全保障」の名のもとに核兵器にしがみついています。けれども、それは真の安全保障ではありません。実際、たがいに破滅しあうのが確実なのに、真の安全保障などあるわけがありません。あるのはただ、かつてない規模の殺しあいと、人類の破滅という脅威だけです。
 池田 そうした矛盾、ゆがみの最たるものが、「核抑止力」という幻想です。これは核を正当化しようとする言い訳にすぎません。じつのところ、核抑止力による「平和」は、第三世界の「熱い戦争」という代償の上に咲いた"あだ花"でした。「核兵器が戦争を抑止した」という証拠はどこにもありません。朝鮮(韓)半島、ベトナム、アフガニスタンなどを思い起こせば、わかることです。
 「この論拠をくつがえすのに、これ以上どれだけ多くの戦争をすればいいというのだろう?」――。ノーベル平和賞の授賞式での、ロートブラット博士(パグウォッシュ会議名誉会長)の言葉が印象的でした。二十世紀ほど、人類が「死の恐怖」に怯えた時代はなかったのです。
 クリーガー 私が平和のために働くことを志した動機は、世界の貧しい地域における戦争、そして、人類の頭上にたれこめる、核による皆殺しの脅威でありました。生命が「聖なるもの」であると信ずるならば、二、三の国が、全人類の未来、さらには、ほとんどの生物の未来を全滅の危険にさらすのは許しがたいことです。それは不条理なことです。
 けれども、これが今日の現実です。人類の頭上をおおうこの脅威をなくすには、まだ十分な措置がとられてはいないのです。
4  戸田城聖第二代会長との出会い
 池田 私が、「世界平和」のために一生を捧げようと決意するにいたった最大の理由は、第二次世界大戦の原体験にあります。日本が敗戦を迎えた時、私は十七歳。私の青春は、軍靴の荒々しい音で踏みつぶされました。ゴルバチョフ氏とも語りあったものです。
 「私たちは『戦争の子ども』である」
 「その一点を見逃すと、私たちの世代の人生も行動も、理解することはできない」(『二十世紀の精神の教訓』。本全集第105巻収録)と。
 クリーガー 池田会長は、第二次世界大戦を体験された世代です。あの恐ろしい戦争は、その大量殺人を目撃した世代の人々の心に、深く深く刻印されました。
 池田 戦争当時、私の夢は少年航空兵になることでした。誤った軍国主義教育の結果でしたが、当時の少年たちは、だれもが愛国心から、戦争へ志願したものです。
 しかし、私の志願の意向に対しては、父は私を、後にも先にもないほどの勢いで叱りつけました。「どんなことがあっても行かせない」と。私の兄は、四人とも徴兵されました。それは「もうたくさんだ。これ以上、息子をもっていかれてたまるか!」という、父の人間としての叫びだったと思います。今も、その叫びは胸に響いています。長兄は一九四五年に、ビルマ(現ミャンマー)で戦死しました。戦死の報を受け取った時の、母の哀しく寂しそうな背中を、はっきりと覚えています。
 同じ四五年の五月には、こんなこともありました。おばの家の近くに、墜落したアメリカの航空兵がパラシュートで落ちてきました。若い米兵は、棒でさんざん殴られ、蹴られたあげく、目隠しをされて憲兵に連行されていったそうです。その様子を伝えると、母は「かわいそうに!その人のお母さんはどんなに心配しているだろうね」と言っていました。ありのままの「母」の声でした。それはそのまま、世界の母に共通する普遍の愛でありましょう。
 クリーガー 本当に胸打たれるお話です。息子さんたちが戦場で死と隣り合わせだったにもかかわらず、お母さまは米軍の兵士に同情され、その兵士と彼の母親のことを思われたのですね。
 池田 ええ。ともあれ、戦争は私の家庭を、苦境に陥れました。結核の体で私は、父母、家族を支えていかなければなりませんでした。
 私は軍国教育への疑問と怒りをいだくようになって、戦争の悲惨さ、むなしさを心に刻みつけました。ですから、創価学会の第二代会長である戸田城聖先生と出会った時、私は、「真の愛国心とは何か」などの質問をしました。戸田先生を深く信じたのは、日本の軍国主義と戦って、悪法の治安維持法違反で逮捕され、獄にあってもその信念を厳然と貫いた、
 という事実からです。この師との決定的な出会いから、私の「平和行動」は始まったのです。
5  生命の尊さを説く教育こそ平和の礎
 クリーガー 感銘深い出会いです。戦争ではたいてい、人間性の基本である優しい感情が停止してしまうものです。戦争は、平時なら優しさと品位をもった人々に対して、敵を殺すか殺されるかを選ばざるを得ない状況をつくり出します。この選択は理性に反するものであり、若い人たちにそのような選択を強要するのは、まったく非道なことです。
 若い人にとって、国家から教育を受けている時に、その教育の本質を見破るのはむずかしいことです。参考になる経験上の視点をもっていませんから。軍国主義的、国家主義的な教育にも、「教育とはそういうものだ」としか思わないかもしれません。
 池田 私の経験から言って、おっしゃるとおりです。
 クリーガー じっさいの戦争に出あって初めて、受けた教育の善し悪しを判断する視点があたえられるものです。そのときになって初めて、教室の中で戦争について言われた美辞麗句が、はたして戦争の残虐さ、大量殺人を正当化しうるものかどうか、個人として結論に達することができる。戦争の非道な実態に関する会長の結論は、会長ご自身が目の当たりにされた苦悩にもとづいておられるのでしょう。国家主義と軍国主義を教育に吹き込むのは、その国の文化の敗北だと思います。
 池田 そうした教育は、「教育」の名に断じて値しません。
 子どもの未来、人類の幸福とは、まったく逆行しています。戦争とはまさしく、文化の対極にあるものです。
 クリーガー いかなる国であれ、その社会にとって価値ある教育とは、約六十億の人間、そして地球に住む多くの生物たちと分かちあう天与の生命の尊さを、若い人たちに説く教育以外にありません。そうした認識をあたえてこそ、生命を育み守る個人と集団の責任を、若者が自覚するでしょう。
 池田 全面的に賛成です。教育が決定的に大事です。私は、「人生最終の事業は教育」と決めております。教育にまさる聖業はありません。
 クリーガー 青年たちが参加せずして戦争ができるかと言えば、それはできないでしょう。戦争を起こし、若い世代に戦えと命じるのは、年寄りの世代です。
 「戦争に参加するかどうかは自分自身で考える」というように、多くの青年たちが教育されるならば、年寄りたちは、自分たちの紛争を解決するのに、戦争よりも建設的な方法を見つけざるを得なくなるでしょう。みずから求めて大砲のえじきになる人たちを補給できなければ、戦争は終わるでしょう。また、年寄りの世代も、戦えないし、戦うべきではないという、よき理由が持てるでしょう。
 青年たちが、戦うこと、人を殺すこと、生命の尊さについて、自分自身で考えるように教育されるならば、その時こそ、平和な世界への道が大きく広がるでしょう。
 池田 おっしゃるとおりです。私はかねてから「教育権の独立」を主張してきました。教育権は、国家主権から独立し、その干渉を許してはならない。教育は、「国家益」でなく「人類益」の立場に立って、行われるべきであるという主張です。
 クリーガー 平和な世界のためには、万人に開かれた場所、私の友人のフランク・ケリーの言葉を借りれば、「人類会議のテーブルの一席」を各人がもてる場が必要です。貧しい人々、虐げられた人々、抑圧された人々の正当な苦情に対応する道が必要です。
6  平和運動のきっかけは「ベトナム戦争」
 池田 SGI(創価学会インタナショナル)の平和運動も、まず他者の苦しみを思い、同苦する心を持つことから始まります。今のお話は、私たちの理念と軌を一にしています。
 さて、所長のお生まれは一九四二年(昭和十七年)。核兵器の登場とほぼ重なります。冷戦の真っただ中を、当事国アメリカの国民として生きてこられた。平和運動を志す大きなきっかけも、学生時代に遭ったベトナム戦争とうかがっています。所長の世代は、いわば「核時代の子ども」と言えますね。
 クリーガー 私の世代を「核時代の子どもたち」と見なすのは、もっともなことです。私自身、「核時代の子ども」だと思っています。
 私が生まれた一九四二年は、物理学者のフェルミとシラードが核分裂の連鎖反応を初めて人工的につくり出した年です。その三年後に、米国は最初の核兵器実験を行い、三週間後に核爆弾をまず広島に、ついで長崎に投下したのです。もちろん、その時は、この出来事について知識を持ち、関心をいだくには、私は幼すぎましたが、自分の誕生後の最初の数年に起きたこの出来事が、
 いかに私の世代の人間形成に影響をおよぼしたか、今ではよくわかります。
 池田 では、ベトナム戦争当時は、どういう心境でしたか。
 クリーガー ベトナム戦争は、私に大きな衝撃をあたえました。これは私の世代に起きた戦争です。私たちの世代の背後には核兵器の問題がありましたが、ベトナムでの戦争が私たちにおよぼした影響は、直接的なものでした。私たちは、世界の向こう側にいる貧しい農民に対して、あの戦争を行わねばならない世代だったのです。
 しかし私個人は、戦争に反対したことを誇りに思っております。あれは虚偽をもとにした戦争でした。たとえば、米国は、選挙を実施したら、ホー・チ・ミンが勝利するだろうと思っていましたから、ベトナム人のあいだでは同意していた選挙を行わせなかった。民主主義に反することです。しかもその後、リンドン・ジョンソン大統領は、トンキン湾事件について議会に嘘を述べました。
 毎日夕方にテレビで流されるニュースで、私は、その日の戦闘で米国側とベトナム側に何人の死者が出たかという発表を見ていたのを思い出します。"こちらの戦死者よりもベトナム人の戦死者のほうが多い、だから勝っている"と、私たち視聴者は印象づけられました。強く大きなわが国が、遠くて小さな国を相手に戦っていることが、私は嫌でたまりませんでした。
 池田 ベトナム戦争について「国際政治のプロたち」が複雑な議論に明け暮れていたころ、二十世紀を代表する歴史家トインビー博士は言われました。
 「私はむずかしい政治問題は、すべて人間という観点から見ることにしています」「ベトナムについても、私は、全土が戦場になっているベトナムの全民衆のことを、真っ先に考えます。とくに、小さな子ども、老人、病人などが、どんなに苦しんできたかを思うと、一刻も早く平和が訪れてほしい。ベトナムが統一された時、どんなイデオロギーで支配されているか、それは別にどうでもよいことです」と。
 知識人であれ何であれ、本物とは、「民衆」の側に立つ人です。「人間」という観点から見る人です。
 正義とは、また真理とは、つねに明快なものです。私たちSGIの平和運動は、この草の根の民衆をいっさいの基盤としているのです。

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