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日蓮大聖人・池田大作

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あとがきに代えて  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
1  対談の終わりにあたり、私は、私たちバルカン半島の人間は、過去の世界に住んでいるのではないか、と自問しています。
 マルクス主義が出現した時、それは、普遍主義とグローバル化を要請しました。ところが、普遍主義と画一化の間にある分水嶺は、きわめて微妙なものであることが分かりました。そして、マルクス主義は時代の流れのなかで修正されていったのです。
 一方、自由主義も不滅ではありませんでした。自由主義陣営に加わるプロセス、すなわち、東欧諸国によるそのモデルの受容のプロセスは、多くの困難な要素をはらんでいます。それらは、自由主義というモデルの普遍性に対する大きな挑戦であります。
 「すべてが自由である」という自由主義社会の価値基準とは何でしょうか。マス・メディアは、こうした「自由」を絶え間なく流しています。ツビグニエフ・ブレジンスキーが「グローバルな混沌」――
 規範、ルール、道徳、信念、神のない世界――と名づけたような感情を創出しながら。
 自由主義社会に、物質的豊かさと消費的な傾向が広く見られるとすれば、そこでは、人間と自然はいかに調和するのでしょうか。
 自由主義社会の商業主義は、「雑食的」に何でも食べつくしてしまいます。あらゆるものを、「すべてが自由である」という原理のもとに置くからです。たとえば、「希求される平和」も、平和に名を借りたゲームの道具の一部、新時代のゲームのルールの一部にすぎなくされてしまうのです。
 そのような世界にあっては、人間は、武器を手にしている時以外にも攻撃的になりかねないことが判明しています。
 ルネサンス以来、「自由」は模範としての権利を主張してきました。「自由」は、かつての「神―人間」を「人間―神」と入れかえた結果、人間と自然の不調和をもたらしました。
 キリスト教自体、かつての神話的な社会では崇拝されていた自然を冒涜する風潮をうながし、人間の傲慢さへの道を開いてしまいました。どのようにしたら、人間と自然のバランスを回復することができるのでしょうか。
 この点において、私は、池田先生とアウレリオ・ペッチェイ氏が、すでに対談『二十一世紀への警鐘』の中で述べている人間倫理における革命、つまり個々人による精神の浄化を前提とする革命に賛同いたします。
2  私が理解するところでは、その革命は、「すべてが自由である」社会にとってかわる社会を創出していく闘争であり、来るべき千年紀という新時代への責任を引き受けるための闘争なのです。
 その新時代は、一方での世界のグローバル化と、他方での地域の統合化――極東圏とか欧州共同体――との間に、バランスを打ち立てる時代となるでしょう。
 最後に私は、きわめて個人的ではありますが本質的なことを述べて、この対談を終えたいと思います。
 私は、池田大作氏と、直接的に、あるいは書簡を通して、語りあう機会にめぐまれました。このことは、私にとって特別に重要なことでした。
 足かけ二十年間にわたる意見交換は、私の性格や人間関係における頑固さを抑制するのに役立ち、寛容であるということの真の意味を理解するのに役立ちました。
 ここで、長い対話の終わりにあたり、東方正教会の文化的共同体の中の一個人として成長してきた私が、なぜ池田大作氏を「池田先生」とお呼びするのかをご説明したいと思います。
 私が先生と呼ぶ人々には、人生における道徳的指導者であった両親や、知識と知恵をあたえてくれたペーテル・ディネコフ教授、およびイヴァン・ドゥイチェフ教授がおります。そして、そのリストに、寛容であることを教えてくださり、寛容のまさに本質をあたえてくださった池田先生を加えさせていただいたのです。
 私は、本書の中で、ブルガリア人や、ブルガリアの歴史、文化、体験を、寛容な態度で評価するよう努めました。それらの評価は、批評的な視点から、また「他者」としての視点から行ったものです。
 新たな世界は、もはや一極的なものではなく、寛容や、各々の国および個人の文化的伝統、精神的価値を基盤とすべきものである、と私は希望しております。その希望の重要な部分こそ、池田先生が私にあたえてくださったものなのです。
  一九九九年十月十二日 アクシニア・D・ジュロヴァ

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