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日蓮大聖人・池田大作

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21世紀におけるブルガリアと日本  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
11  池田 博士の挙げられた四つの脅威のうち、第一の核の脅威については、きわめて厳しい状況であるにしても、私どもは、“核廃絶”の運動を粘り強く続けていきます。
 そこで、第二の環境破壊と、第三の精神の荒廃について、大乗仏教の立場から述べてみましょう。その後、第四のグローバル化の問題にうつりたいと思います。
 順序は前後しますが、第三の精神の荒廃の問題について、大乗仏教の思想は、暴力性のみならず、人間の貪欲に対しても、挑戦してきております。欲望のコントロールによる、物質至上主義から高い精神性への転換であります。それは、人間のライフスタイルを変える「精神闘争」です。私は、日本人は、情報に翻弄されて物質至上主義におぼれるのではなく、人類への奉仕という高い精神性に生きるべきであると警鐘を鳴らし続けているのです。
 次に、環境破壊については、大乗仏教や、それ以前の日本民族の持つ自然観、自然との共生の思想であります。東洋民族は長い歴史の間、大自然と共生する文明を築いてきました。東洋の自然思想には、地球生態系を回復し人類と共存を可能にする基盤があります。私は、東洋の自然観を人類文明に生かす方途について考えております。
 そのほか、仏教をはじめ、宗教は人間に生きる意義をあたえ、生きがいをもたらし、生命の本源力を強化する力があります。大宇宙の偉大なる力と智慧と慈愛に共鳴する人間の営みが宗教です。それぞれの宗教が協調して、人類の精神性、倫理性を高めるために、大乗仏教の側から協調の呼びかけをしております。ここにも、大乗仏教につちかわれた日本の役割があります。また、それは必然的に「文化の多様性」を創出する道でもあります。
 最後にグローバル化の問題ですが、私も、博士と同じ不安をいだき、本年の一・二六「SGIの日」記念提言において、この問題を論じました。
 博士が言われるように、グローバル化に伴う市場経済のボーダーレス化は、必然的に文化、とくに物質文化の画一化をもたらしております。しかし、たんなる非人格的な消費者の地位にあまんずることができないのが、「人間の精神」です。
 アメリカ・ラトガーズ大学のベンジャミン・バーバー教授は、『ジハード対マックワールド』(鈴木主税訳、三田出版会)の中で、あらゆる国家を同質のテーマパークに変えてしまう「通信、情報、娯楽、商業によって一体化した一つのマックワールド」と、「偏狭で盲目的な信念の名のもとでの聖戦(ジハード)」の二つの潮流があり、相互に関連しあうなかで、混沌、すなわちアイデンティティー・クライシスが深まっていると論じています。
 とすれば、現代人は、「マックワールド」と「ジハード」の混在するなか、アイデンティティー・クライシスをかかえたまま生きざるをえない状況にあるのです。そこで私は、提言の中で、第一に、アイデンティティー・クライシスを超克し得る精神的運動として、「コスモロジーの再興」をかかげました。大乗仏教には、『法華経』に代表される宇宙大の壮大なる「コスモロジー」があります。その「コスモロジー」の意味により、人間は、自己の存在意義と何をなすべきかを知るのです。
 これまで論じあってきたように、ブルガリアの精神風土にも、ブルガリアの民族文化と東方キリスト教のなかにはらまれた、雄大な「コスモロジー」があります。私は、ブルガリアの文化の多様性の基盤は、宗教の持つ「コスモロジー」であると考えております。
 第二に、私は、それぞれの「コスモロジー」を包括しつつ、その意味を実現しゆく人間像を「世界市民」と呼んでいます。「世界市民」とは、それぞれの精神土壌、文化に深く根ざしつつ、それゆえにこそ、地球大、人類次元から、宇宙次元にまで視座を広げゆく人々であります。決して、自己のアイデンティティーを失い、グローバル化に翻弄される人間ではありません。
 私は、日本、東洋と同じく、偉大なる精神文化を持つブルガリア民族が、その内包する「コスモロジー」に立脚しつつ、「マックワールド」と「ジハード」に対抗しゆく人間群――「世界市民」を輩出しゆくことを熱望しております。
 東西の接点に位置する貴国の動向は、周辺諸国のあり方に重大な影響をおよぼすだけでなく、ひいては東西文明の融和という人類的課題にも直接かかわっています。ブルガリアの発展と安定は、バルカン半島のみならず、ヨーロッパの平和の基盤であり、人類の融和の象徴と言っても過言ではないでしょう。貴国が、二十一世紀において、その偉大な使命を見事に果たされますことを、私は心から念願するものです。
 ジュロヴァ 力強いお言葉、たいへんにありがとうございます。
 先生は、物質万能主義や消費主義を支配する高遠な精神性を提唱しておられますが、これは非常に先見の明があるもので、私も全面的に支持いたします。
 自然のもとに帰り、自然破壊を防ぐことでそれと調和しながら生きる。これほど美しいことがあるでしょうか。しかし私は、これをなし得る方法について、考えないではいられないのです。
 ブルガリアは、社会と経済の安定を達成したと言われますが、これは実際には非常に低いレベルであって、生きていけるていどのものにすぎません。たとえ私たちが、現在かかえている困難な状況を、この先克服したとしても――これは私が心から望んでいることなのですが――すべてを相対化してしまう「自由主義社会」と、どのように付き合っていけばよいと言うのでしょう。絶対的な「悪」と絶対的な「善」が存在するのです。少なくとも一つの、相対的でない「真理」というものがなければなりません。
 そう遠くない将来において、ただ一つの文明を普遍的な発展のモデルにしようとする圧力が、「善」や「真理」や「精神性」と言った価値の名において消滅させられることを、私は心から望んでおります。来るべき世紀は、さまざまな文化や文明が、たがいに寛容で、たがいを豊かにしながら、共存できるような賢明な時代になるでしょう。
 私がこのように述べるのは、一つには、今まで述べてきた不安について、私たちブルガリア人は、ほぼ二十年間にわたって論争を続けてきたからです。また、私が、池田先生の哲学を知ったおかげで、来るべき世紀は、幕を下ろそうとしている世紀に比べて、はるかに賢明な時代になるだろうとの私の信念を、より強いものとすることができ、より期待することができるようになったからなのです。

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