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日蓮大聖人・池田大作

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21世紀におけるブルガリアと日本  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  池田 一九八九年の東欧の民主革命から、今年(一九九九年)で十年の歳月が経過しました。現在の東欧およびブルガリアの状況について、博士はどのようにお考えですか。
 ジュロヴァ 私たちブルガリア人はとても意志が強いのですが、一方ではたいへんに適応性に富んでいます。歴史のなかで、ブルガリア人は、しばしば多くの改革を行ってきました。一九八九年以降の出来事は、ブルガリア人のそのような能力をもう一度はっきりと示したと思います。
 しかし、民主化当初の激動と興奮が通りすぎた現在、一種の昏睡状態におちいっていると見られる面もあります。一種の無関心の状態ですが、その原因について、私は個人として思うところがあります。かつて社会主義国だったほかの国でも同じだと思いますが、わが国でも、変革を生みだそうとする意思が明確に存在していました。一九八六年から八九年までに起こったさまざまな出来事を的確に表現するならば、それは、革命ではなく変革であったと言えると思います。
 ところが、その変革が、どちらかと言うと、ブルガリア人の大半が予期していなかった方向に向かったのです。たとえば私たちは、既存の社会的な恩恵がすべて奪われてしまうなどとは、思ってもみませんでした。無償の教育や保健サービス、数年先の人生設計を構築する可能性、終身的かつ安定した職場などです。
 実際に、力強い広範な中流階級の一群は、数年でおとろえてしまいました。この一群は、生活の質が向上することを期待していましたが、新たな現実社会に引き続きうまく適応するどころか、逆にみずからの立場を失い、崩壊の生き証人となってしまったのです。
 私たちは、変革がこのような方向に進むとは思ってもみませんでしたし、移行期の困難な状態に対して、西欧諸国がきっと手を差しのべてくれるだろうと信じていました。しかし今や、私たちの望みのほとんどは消え去ってしまったと言ってよいでしょう。
 パリをはじめとして、諸地域でおきた一九六八年の出来事に参加した人々や、それを切り抜けてきた人々も、同じような幻滅を味わっていたのかもしれません。当時、彼らが描いていたような世界や未来を、今、彼らが見いだしているとは思えないのです。もちろん、そのようなことは、それ以外にもあったことです。
 私たちが建設しようとしている民主主義社会は、混沌と貧困のなかで消え失せてしまうほど、いまだに脆弱でこわれやすいのです。一九八六年以降のロシア、そして八九年以降の東欧諸国についても、同じようなことが言えるでしょう。
2  池田 民主革命以降の歩みが、多くの困難を伴うものであったことはよく存じています。
 しかし、長期的な視点からすれば、さまざまな紆余曲折はあるにしても、東欧およびロシアにおける民主主義社会の建設という目標は達成されると確信しております。
 それは「民主化」が、今日ではだれびとも押し止めることができない世界の潮流であるからです。今や、一にぎりの人たちが力や利害によって民衆の意志を抑圧し続けることは困難になっています。自分たちの未来は自分たちの意志で決めるという主体性の意識が、世界的に明確に自覚されてきたからです。
 この十年ほどを見ても、アジアではフィリピン、カンボジア、インドネシア等で民主化のはっきりとした歩みが見られました。アフリカでも、南アフリカやナイジェリア等にそれをうかがうことができます。
 ジュロヴァ ロシアでも東欧でも、民主化の当初は、民族主義は間もなく消え失せるであろうと信じられていたのです。しかし、そうではありませんでした。今日、老人にも若者にも同じように、「民族的な復讐」という醜悪な行為が見られます。
 私たちは、二面性を持った周期の終末に位置しているように思われます。二面性の一つは、経済の国際的統合および政治的協調、そしてもう一つは、民族的な分裂です。
 第一の経済の国際的統合は、定義しやすいものです。この世界ではお金がすべてであり、伝統的な力は無力です。現在の混沌とした状況を決定づけているのは、“精神の貧血症”とでも言えるものなのです。
3  池田 確かに市場経済のグローバル化の基盤には、物質偏重の“拝金主義”があります。現代世界は、経済的競争が支配しているような状況になっていますが、本来、人間の世界は「経済」の視点だけで判断されるべきものではありません。人間が安定した人生を送るためには、むしろ豊かな精神文化の存在こそが不可欠です。
 物質的には、安心して日々の生活を送れることが必須条件であり、アメリカや日本等の先進諸国で見られるような「過剰消費」、いわゆる“浪費”におちいるべきではありません。仏教では、人間の生き方を“少欲知足”として、物質的には基本的ニーズの充足に焦点を当て、その上での精神的充実の人生を説いております。
 人類の歴史は、大局的には、経済的価値を第一義とする時代から、精神文化の価値を重視する時代に推移していくと私は考えています。物質的欲望にのみ支配されている段階を、こえていかなければならないのです。
 しかし、それにしても、世界における、あるいは各地域における富の偏重の問題は、もっとも深刻な課題の一つです。
 貧困に苦しんでいる国々では、最低限度の食糧や衛生的な水を確保するのも困難な状況があります。子どもたちは、基本的な教育の機会さえあたえられていません。その一方で、先進諸国においては、栄養過多をおそれてダイエットに夢中になっている人々がいます。“経済格差”は、ますます拡大していく様相にあります。これは、人類の深刻な分裂、対立の要因となりかねません。
 「貧困の克服」に向けて、貧困に苦しむ国々の“自立的発展”のために、可能な手段をつくして物質的・精神的援助が行われるべきです。先進諸国の現在の豊かさも、もとはと言えば発展途上国の存在によって支えられているという事実を認識するならば、貧しい国々を支援するのは、人間として当然の倫理と言えましょう。今や世界は一つの「共同体」であり、他者を犠牲にしたままで、自分たちだけが繁栄し続けることはできません。人類は、「自他ともの繁栄と幸福」への、さまざまな方途を実行すべき段階にいたっていると思われます。
 ジュロヴァ 先生のおっしゃることは、たいへんにすばらしいことです。産業、技術面で未開発の国々に対して支援を表明することは、倫理的な義務と言えるでしょう。今、先生は人間の幸福について話されましたので、それについて、私の意見を述べたいと思います。
 まず、ご指摘にならなかったいくつかの事実に注目していただきたいと思います。貧困を評価するさいに、広く用いられている国際的基準に照らしてみると、たとえばわが国は、十年前には貧困国とは見なされていませんでした。
 少なくとも、あるていどまでは、今日でもそれは当てはまります。家やアパート、車などを所有していると貧困とは見なされず、中流階級の人々の多くは、こうした財産を所有しているからです。しかし反面、混乱もあります。一九八九年の民主化に伴い、以前の私有地の返還が開始されましたが、十分に組織的な市場が存在せず、自身を守るすべがないのが実情です。
 変革が始まったころには、わが国を再建するためのプロジェクトやモデルの開発において、こうした具体的な現実が考慮されることはありませんでした。
 私たちはだれで、どこから来たのか、そして私たちの財産、幸福、精神面における発展とは何か、といった点について理解しようとしないモデルや計画を、実行しようとする傾向に対して、私たちは強く反対いたします。
4  池田 同じことが、日本のODA(政府開発援助)にも言えます。よく批判されるのは、ODA等が発展途上国の民衆の利益、幸福につながっていないのではないかということです。人類の幸福のために、世界第二の経済規模を持つ日本が果たすべき役割は、決して小さいものではありません。
 しかし、博士が言われるように、あくまで民衆にとっての発展とは何かという理念に基づく援助でなければなりません。途上国や一国の中での“貧困”の克服が、民族紛争に好影響をあたえることは間違いありません。
 ジュロヴァ そこで、第二の民族的分裂の問題についてですが、もし、これが正しく認識されなければ、予期しないような、今まで以上の蛮行が絶え間なく勃発するでしょう。
 ほとんどの場合、民族紛争は一時的な利害関係や、外交政策上あるいは戦略地政学上の利害関係から起こっています。ここ十年間の出来事を見ると、世界の紛争地域は、昔からよく知られた民族・宗教紛争に関連する場所にあります。この点から考えても、伝統から得られる知識は教訓として用いられるべきで、紛争を強めるために用いられてはなりません。
 二、三年前の、ボスニアとクロアチアの紛争や、コソボ紛争をご覧になれば分かるように、また、次にバルカンのどの地域で紛争が起こるかを予想する人たちが言うように、こうした紛争は、「新しい世界秩序」の周辺に位置づけられる国々で起こります。その「新しい世界秩序」は、それらの国に対して、「保護国」とは言わないまでも、「強要された平和」や「限定された統治権」と言った方策をとるのです。
5  池田 最近の「コソボ紛争」に端的に表れているように、民族問題は、現代世界が直面している深刻な問題の一つです。しかし、私は、この問題がいかに深刻であったとしても、長期的には楽観的な見通しを持っています。さまざまな民族が、その個性と文化的伝統をたがいに尊重しあいながら、平和裡に共存し、融和していくことができないはずはないからです。
 人類の歴史を見ると、多民族が平和裡に共存していくことは、「シルクロードの歴史」においても確認してきましたように、むしろ通常のことでした。また現在でも、国内に一民族しか存在しないという国の方が、少数ではないでしょうか。
 問題は、人々の民族意識を刺激し、それを一定の目的――とくに政治的、権力的目的――のために利用しようとする動きが、どのような時代にも存在するということです。“貧困”は、教育水準の低下をもたらし、政治的権力闘争の温床となるものです。
 ジュロヴァ 自由主義経済の世界は、時として、私たちのような民族にコンプレックスをもたらします。と言うのも、私たちはヨーロッパ諸国から「受容を拒否」されているような状態にあるからです。私は、この「受容不可能」という考え方は、さまざまな形のナショナリズムの温床になるという点で、きわめて危険であると思います。
 すでに述べたように、一九六八年以降と、八九年以降に、私たちはナショナリズムと決別できるのではないかと思っていました。しかし、私たちが目撃しているのは逆のプロセスなのです。
 西欧諸国の強力な覇権は、東欧の文化的アイデンティティーを同化・融合しようとする動きのなかで、東欧に不健全な感情を引き起こしています。東欧諸国が、何十年にもわたって(旧ソ連に)依存した状態にあったことを口実に、西欧諸国は、東欧国内の一部の人たちの積極的な支持も得て、この期間に東欧がつちかってきた文化的価値をすべて否定しようとしました。
 とは言っても、これらの文化的価値の数々は、ヨーロッパの価値観を、私たちの固有の伝統、価値体系を通して止揚した結果だったのです。すでに論じてきたことですが、初期キリスト教の倫理観を基礎とした西欧文化そのものが、ヨーロッパ以外の、明確に言えば東方に起源を持つものであることを忘れてはなりません。
 新しい精神文化は伝統文化の貢献を受けずに発展すべきだという考え方には、受け入れがたいものがあります。なぜなら、私たちは歴史的な経験から、さまざまな文化が貢献してつくり上げた精神文化は、あらゆるイデオロギーや幾多の戦争、そして覇権への野望より長い生命を持つことを知っているからです。
6  池田 経済至上主義の価値観こそ、克服されなければなりません。人類の幸福と未来は、豊かな精神文化にあることを強調していくべきでしょう。私は、仏教やキリスト教等、あらゆる宗教の役割は、この高度な精神性、倫理性を持った文化の創造に貢献することにあると考えております。
 ジュロヴァ ヨーロッパは、たんなる「市場」ではありません。幾世紀にもわたる歴史のなかで、そこに生きたすべての民族がつくり出した精神文化によってまとまっているのです。
 すでに話しあってきましたように、ブルガリアは九世紀、キュリロスとメトディオスの時代に、ヨーロッパの精神文化の創出に積極的に参加し、スラブ民族の新しい文字文化の誕生の地となりました。つまり、ヨーロッパの精神文化の創造には、バルカン諸国からギリシャ人、セルビア人、ブルガリア人も参加したのです。したがって、ルネサンス以前のヨーロッパ文化は、ビザンチン芸術の影響なしには語れないのです。
 一般的に言って、ヨーロッパは、過去においても現在においても、バルカン諸国のことを見落としがちなようです。過去と現在の違いは、かつての「鉄のカーテン」が「お金のカーテン」にかわったことぐらいでしょうか。
7  池田 ブルガリア民族が、ヨーロッパの精神文化の創出につくした偉大な貢献と、その歴史的努力につちかわれたブルガリア文化の独自性に、私は深い敬意をいだいております。私が、ヨーロッパ文明圈とは異なる東洋の大乗仏教圈に属するからこそ、ブルガリア文化の卓越性に共鳴するのだと思います。
 ジュロヴァ 経済的な「自由市場」をつらぬくだけでは、個々の民族の独特な精神文化が排除されることになりかねません。私は、ブルガリアの役割は、その排除を和らげるために、バルカン地域の連帯を可能なかぎり支えていくことにあると考えています。
 世界は、多様であるからこそ豊かなのです。世界の多様性を守ることに、ブルガリアは貢献できると思います。多様性を排除して、世界を一様な形式に当てはめていくことは、新しい帝国主義になりかねないと考えるからです。
 池田 そのとおりです。「経済」という画一的な視点だけですべてを判断していくと、人類を育んできた多様な精神文化を損なってしまいます。その点で、多様な文化を内包するブルガリアの人々が、「文化の多様性」を守るために貢献されることを、私は人類のために大いに期待しております。
 ジュロヴァ 私は、文化の分野においてブルガリアが果たすべき現実的な貢献としては、バルカン諸国の政治家や学者たちが数十年来蓄積してきた、バルカン各民族の正史に見られる偏見を克服していくことに、焦点を当てるべきだと考えます。
 歴史家は、歴史的・心理的障壁をこえなければなりません。また、こうした障壁を克服するさいには、各民族や時代に固有の神話を否定すべきではありません。こうした作業は、ブルガリアのズラタルスキ教授やドゥイチェフ教授、セルビアのG・オストルゴルスキィ教授、ルーマニアのヨルガ教授らによってなされ、現在ギリシャのJ・カラジャノポロス教授によって行われています。
 とは言え、客観的な歴史論争は、民主主義の実践と矛盾するものであってはなりません。なぜなら、個々人は、先入観を持った歴史家が示唆するように生きるのではなく、自分自身が思うように生きる権利を持つからです。この点においては、国際東南ヨーロッパ学協会の賛助を得て、アンドレ・ギイロウ教授の監修のもとで執筆されている『バルカン文化史』は、期待を裏切らないものになると思います。
 池田 恩師であるドゥイチェフ教授も参加された作業ですね。人類への貴重な“証言”と“教訓”の書となることでしょう。
8  ジュロヴァ しかしこれは、宗教的基礎の上に一つの国際連邦をつくり出そうとするものではありません。このような主張が、バルカンの国々の住民の一部で語られていますが、それは「神政主義」的であり、非常に保守的であると私には思われます。時代に逆行しているのです。
 私は、「グローバル性」に対抗して宗教的連帯を支えることが、ブルガリアの役割だとは考えていません。そのような方向性は、「神政主義」におちいってしまいます。私は、あくまでバルカン諸民族の文化的多様性を、尊重すべきであると申し上げたいのです。
 池田 一つの宗教が政治を支配するという「神政主義」には、特定の宗教によって、他の宗教が排除されるという危険が伴います。
 私どもSGIは憲章の中で、“文化の多様性”の尊重とともに、各宗教は他の宗教を“尊重”し、人類的課題については協力すべきことを宣言しました。それぞれの文化の源泉には宗教があります。その宗教間の“相異”も、政治的権力によって利用されがちです。
 それゆえに私は、宗教間の“相異”も、「対話」と「交流」を通して、それぞれの特色として認識し、「尊重」すべきであると考えるのです。それぞれの宗教も、文化も、その多様性を特徴として発揮して、人類の存続と幸福のためにつくすべきでしょう。
 ジュロヴァ 伝統宗教がたいへん重要な道徳的規範の役割を果たすという、先生のご見解に賛同いたします。また、キリスト教以外の信仰やフォークロアなどに見られる倫理的規範も、重要な役割を果たすと言えるでしょう。
 私は、新しい世界を構築していく過程で、少なくとも文化的なレベルにおいては、すべての宗教が同じスタート地点に立つべきだと考えています。信仰のヒエラルキーなどというものは考えられません。それぞれの信仰は、その集団の特質や歴史的な経験、世界に対する民族固有の見解といったものをそなえているからです。
 私はここでもう一度、精神的な多様性、すなわち元来そなわっている多様性こそ、私たちが持ち得るもっとも価値あるものであることを述べたいと思います。なぜ人々は、これらを奪われなければならないのか、あるいは、力によって押しつけられた信仰を、なぜ受け入れなくてはならないのかが、私には理解できないのです。
 信仰を選択する自由意志が、伝統宗教を、喪失させたり軽視したりすることはありません。その自由意志が、フォークロアと並んでブルガリア人の意識を形成してきたのです。東方正教は、精神的かつ文化的モデルであります。全世界で今日の人間文化に必要不可欠なものとして受け入れられている、東方正教を背景として生まれた芸術や文化や識者たちのことを思うと、軽視されるべきいわれはないのです。
9  池田 先ほどは、ブルガリアの使命について述べていただきましたので、日本の人類への貢献について付け加えさせていただきます。
 噴出する地球的問題群への対処のため、日本が人類に貢献しなければならないもっとも重要なことは、“核廃絶”への運動です。日本は世界で唯一、核兵器の犠牲者を出した国として、その運動の先頭に立つべき使命があると思います。
 「核兵器の廃絶は決して夢想ではない」――。一九九五年にノーベル平和賞を受賞した、パグウォッシュ会議議長のロートブラット博士は、こう言われていました。私もまったく同感です。
 冷戦が終了した今日、世界の世論の流れが核兵器廃絶の方向に向いていることは明らかです。もはや時代は大きく変わりました。この世論の力を持って、核廃絶へのはずみをつけていくことは、十分に可能なことです。その過程において、日本が傍観者的態度をとることは許されないと私は考えています。
 創価学会の戸田第二代会長も、冷戦の真っただ中で、「原水爆禁止宣言」を出され、「核」は“絶対悪”であると宣言しました。SGIの平和運動の原点は、仏教の「非暴力」に徹した戸田先生のこの「平和宣言」にあります。
 日本には大乗仏教の非暴力の思想が伝わり、民衆のなかに深く浸透しております。私は、この大乗仏教の慈悲、非暴力の思想とそこから発する行動――菩薩道――こそ、日本が人類につくす最大の貢献だと考えております。
10  ジュロヴァ 先生は、アウレリオ・ペッチェイ博士との対談の中で、将来の世界における三つの脅威として、核の衝突と環境破壊、精神の荒廃を挙げられました。
 二、三年前まで、私たちは、最初の脅威、すなわち核の衝突については、排除することができると楽観的に考えていました。しかし、新しい世界の序列は、核保有国の増加をきたしただけでなく、核兵器を保有する国際的な集団を生みだすことにもなりました。それらを統御するのは困難なことです。
 第二の脅威、すなわち環境破壊が引き起こす不安についても、過去にはそれほど深刻ではありませんでした。しかし現在、隣国ユーゴスラビアでの、いわゆる「人道主義の戦争」でアメリカが新兵器を使用し、バルカン諸国で数年先までの環境の危機が引き起こされてからは、ほとんど事態を楽観視できない状況におちいっています。
 第三の脅威、すなわち精神の荒廃にいたっては、たとえ一時的にでも私たちに楽観的になる機会をあたえてはくれません。マス・メディアを媒体とする新しい「サブカルチャー」は、知識の源泉である書物にふれる人々――知識層を徐々に追いつめています。ますます多くの「知識」が、「情報」にとってかわられているのです。
 私たちは、いったいどこへ向かっているのでしょうか。そして、二十一世紀には何が起こるのでしょうか。「情報」こそ発展にいたる唯一の道であると、私たちに納得させようとしている圧力団体もあります。発展をめざす私たちの精神闘争は、いかにすれば、この攻撃的で精神的要素を欠いた“消耗”と、共存できると言うのでしょうか。
 私は、これら三つの脅威に、もう一つグローバル化の脅威を付け加えたいと思います。多国籍企業が個々の国家よりも強大となった現在、集中化という意味でのグローバル化は、逆行の始まりではないかと思うのです。過度の中央集権化は、新しい、世界的な全体主義への道とはならないでしょうか。先生は、第四の脅威によって引き起こされる不安は、正当なものであるとお考えになりますか。
11  池田 博士の挙げられた四つの脅威のうち、第一の核の脅威については、きわめて厳しい状況であるにしても、私どもは、“核廃絶”の運動を粘り強く続けていきます。
 そこで、第二の環境破壊と、第三の精神の荒廃について、大乗仏教の立場から述べてみましょう。その後、第四のグローバル化の問題にうつりたいと思います。
 順序は前後しますが、第三の精神の荒廃の問題について、大乗仏教の思想は、暴力性のみならず、人間の貪欲に対しても、挑戦してきております。欲望のコントロールによる、物質至上主義から高い精神性への転換であります。それは、人間のライフスタイルを変える「精神闘争」です。私は、日本人は、情報に翻弄されて物質至上主義におぼれるのではなく、人類への奉仕という高い精神性に生きるべきであると警鐘を鳴らし続けているのです。
 次に、環境破壊については、大乗仏教や、それ以前の日本民族の持つ自然観、自然との共生の思想であります。東洋民族は長い歴史の間、大自然と共生する文明を築いてきました。東洋の自然思想には、地球生態系を回復し人類と共存を可能にする基盤があります。私は、東洋の自然観を人類文明に生かす方途について考えております。
 そのほか、仏教をはじめ、宗教は人間に生きる意義をあたえ、生きがいをもたらし、生命の本源力を強化する力があります。大宇宙の偉大なる力と智慧と慈愛に共鳴する人間の営みが宗教です。それぞれの宗教が協調して、人類の精神性、倫理性を高めるために、大乗仏教の側から協調の呼びかけをしております。ここにも、大乗仏教につちかわれた日本の役割があります。また、それは必然的に「文化の多様性」を創出する道でもあります。
 最後にグローバル化の問題ですが、私も、博士と同じ不安をいだき、本年の一・二六「SGIの日」記念提言において、この問題を論じました。
 博士が言われるように、グローバル化に伴う市場経済のボーダーレス化は、必然的に文化、とくに物質文化の画一化をもたらしております。しかし、たんなる非人格的な消費者の地位にあまんずることができないのが、「人間の精神」です。
 アメリカ・ラトガーズ大学のベンジャミン・バーバー教授は、『ジハード対マックワールド』(鈴木主税訳、三田出版会)の中で、あらゆる国家を同質のテーマパークに変えてしまう「通信、情報、娯楽、商業によって一体化した一つのマックワールド」と、「偏狭で盲目的な信念の名のもとでの聖戦(ジハード)」の二つの潮流があり、相互に関連しあうなかで、混沌、すなわちアイデンティティー・クライシスが深まっていると論じています。
 とすれば、現代人は、「マックワールド」と「ジハード」の混在するなか、アイデンティティー・クライシスをかかえたまま生きざるをえない状況にあるのです。そこで私は、提言の中で、第一に、アイデンティティー・クライシスを超克し得る精神的運動として、「コスモロジーの再興」をかかげました。大乗仏教には、『法華経』に代表される宇宙大の壮大なる「コスモロジー」があります。その「コスモロジー」の意味により、人間は、自己の存在意義と何をなすべきかを知るのです。
 これまで論じあってきたように、ブルガリアの精神風土にも、ブルガリアの民族文化と東方キリスト教のなかにはらまれた、雄大な「コスモロジー」があります。私は、ブルガリアの文化の多様性の基盤は、宗教の持つ「コスモロジー」であると考えております。
 第二に、私は、それぞれの「コスモロジー」を包括しつつ、その意味を実現しゆく人間像を「世界市民」と呼んでいます。「世界市民」とは、それぞれの精神土壌、文化に深く根ざしつつ、それゆえにこそ、地球大、人類次元から、宇宙次元にまで視座を広げゆく人々であります。決して、自己のアイデンティティーを失い、グローバル化に翻弄される人間ではありません。
 私は、日本、東洋と同じく、偉大なる精神文化を持つブルガリア民族が、その内包する「コスモロジー」に立脚しつつ、「マックワールド」と「ジハード」に対抗しゆく人間群――「世界市民」を輩出しゆくことを熱望しております。
 東西の接点に位置する貴国の動向は、周辺諸国のあり方に重大な影響をおよぼすだけでなく、ひいては東西文明の融和という人類的課題にも直接かかわっています。ブルガリアの発展と安定は、バルカン半島のみならず、ヨーロッパの平和の基盤であり、人類の融和の象徴と言っても過言ではないでしょう。貴国が、二十一世紀において、その偉大な使命を見事に果たされますことを、私は心から念願するものです。
 ジュロヴァ 力強いお言葉、たいへんにありがとうございます。
 先生は、物質万能主義や消費主義を支配する高遠な精神性を提唱しておられますが、これは非常に先見の明があるもので、私も全面的に支持いたします。
 自然のもとに帰り、自然破壊を防ぐことでそれと調和しながら生きる。これほど美しいことがあるでしょうか。しかし私は、これをなし得る方法について、考えないではいられないのです。
 ブルガリアは、社会と経済の安定を達成したと言われますが、これは実際には非常に低いレベルであって、生きていけるていどのものにすぎません。たとえ私たちが、現在かかえている困難な状況を、この先克服したとしても――これは私が心から望んでいることなのですが――すべてを相対化してしまう「自由主義社会」と、どのように付き合っていけばよいと言うのでしょう。絶対的な「悪」と絶対的な「善」が存在するのです。少なくとも一つの、相対的でない「真理」というものがなければなりません。
 そう遠くない将来において、ただ一つの文明を普遍的な発展のモデルにしようとする圧力が、「善」や「真理」や「精神性」と言った価値の名において消滅させられることを、私は心から望んでおります。来るべき世紀は、さまざまな文化や文明が、たがいに寛容で、たがいを豊かにしながら、共存できるような賢明な時代になるでしょう。
 私がこのように述べるのは、一つには、今まで述べてきた不安について、私たちブルガリア人は、ほぼ二十年間にわたって論争を続けてきたからです。また、私が、池田先生の哲学を知ったおかげで、来るべき世紀は、幕を下ろそうとしている世紀に比べて、はるかに賢明な時代になるだろうとの私の信念を、より強いものとすることができ、より期待することができるようになったからなのです。

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